第6話
あの丘に近い駅に着いたのは一時少し過ぎだった。電車を降りるなり、もあっとした空気が僕らを包み、真上から照り付ける太陽が僕ら二人の影をくっきりと駅のプラットフォームに落とした。電車がごとごとと音を立て熱気をかき回して去っていくのを手を翳して見送ると僕らは改札口へと向かった。
斎藤さんは丘からの夕焼けを見たいと言った。今の季節だとそれまでまだ五時間近く間がある。おなかが空いていた僕らは駅の近くで一軒だけ開いていた中華料理で遅い昼食をとることにした。
こっちの方が冷房が効きますよ、と店の人が言うのでカウンター席に僕らは並んで座った。暫くしてでてきた冷やし中華を美味しそうに啜っていた斎藤さんに、暑いけど僕らが昔通っていた学校を見に行こうか、と提案すると、いいですね、と細切りのハムを箸で摘んだまま斎藤さんは頷いた。中華料理屋を出ると二軒隣の自転車屋に、「レンタサイクルできます」という看板が出ていて、僕らは自転車を借りることにした。
「八時までには必ず戻って来てくださいよ」
五十過ぎの、地方新聞の社名が入ったタオルを頭に巻いた自転車屋の親父さんは僕に向かって不愛想に言ってから、斎藤さんをちらっと見ると
「でも万が一遅くなったらそこを押してね」
と優し気な口調でシャッターの脇にあるベルを指さした。僕の自転車は白のスポーツ車で、斎藤さんのは僕の借りたものより一回り小さいピンク色のフレームの自転車だった。
「自分のじゃない自転車ってうまく乗れるかしら」
おっかなびっくり漕ぎだした斎藤さんは二十メートルくらい進んでから自転車を止めて僕を振り向いた。
「どうしたんですか?早く・・・」
そう言いながら手を振った斎藤さんに手を振りかえすと僕は斎藤さんの方へと自転車を漕いで行った。
「何かあったんですか?」
「いや・・・つい、君のお母さんを思い出していたんだ。あの時も一緒に自転車に乗っていたんだなぁって」
「そうでしたね」
齋藤さんは微笑んで自転車を見た。その額に微かに汗が滲んでいた。
「母とおんなじですか?私の乗り方」
「うん・・・でも学校は逆の方向だよ」
「それ、早く言ってください」
斎藤さんはがっかりしたように自転車から降りると自転車の向きを変えた。
「じゃあ、早く行きましょう」
そう言った斎藤さんと自転車を並べて僕は漕ぎ始めた。
「道を教えるから、先に行ってね。並んで走ると危ないから」
そう言って僕は斎藤さんの漕いでいる自転車の後ろについた。懸命に自転車を漕いでいる斎藤さんの後姿を見ながら僕はあの夕方、なぜこんな風にしてサイトウと一緒に同じ方向に自転車を漕ぎださなかったのだろうと改めて後悔していた。せっかく二人きりになれたのに、あのとき何を僕は怖れていたのだろう。
駅から海の方向に向かうと一度坂を登ることになる。僕らの通っていた小学校はその登り坂の途中にあった。中学校はそこからまた海側に坂をあがり、坂のてっぺんからちょっと下ったところに建っている。場所が近過ぎると不満を言う子供もいたけれど小学校から中学まで友達とずっと一緒の学校に通えることを喜ぶ子供たちも多かった。僕もその一人だった。
小学校の運動場は坂の下側に開けており、校舎は昔の儘の姿で坂に添うように建っていた。
そうだった。僕が初めてこの校舎に来たとき、道の両脇に咲いていた桜を見ながら母に手をひかれてこの坂を登ったのだ。
「この学校で母と西尾さんは一緒に勉強したんですね」
門に嵌め込まれた、緑青で青黒くなった校名のプレートを撫でながら斎藤さんは愛おしそうにそう言った。濃い緑の木陰に佇ずみ、眼を瞑っているその姿は三十年の時間を巻き戻した妖精のように見えた。
「そうだよ。懐かしいな」
校舎の前には薪を背負った小さな二宮金次郎の銅像が昔通りに立っていた。僕らは暫く無言で小学校の校舎を眺め続けた。そんな僕らを自転車に乗った初老の女性が横目で探るような視線を送りながら行き過ぎていったのを見て、斎藤さんが頷き、僕らは静かに自転車を押してそこから離れた。
中学校は新しい校舎に建て替わっていた。鉄筋コンクリート三階建ての新しい校舎はよそよそしかったけれど、校舎の正面に掲げてある校章は昔のままだった。
「残念ですね、学校が新しくなっちゃっていて」
自転車に跨ったまま、片足を地面につけ斎藤さんは新しい校舎を見上げた。
「仕方ないよ。僕らの頃も、校舎はもうだいぶ古かったもの」
「そうなんですか」
「そこらへんを自転車で一回りしてみようか」
「はい」
小さな声でそう返事をしたけれど、斎藤さんは新しい柵越しにしばらくの間、中学校を見続けていた。その眼には僕やサイトウが制服姿で校門に入っていく景色が映っていたのかもしれない。
中学校の校門から坂道を下りていくと川に突き当たる。中学校に通っていた頃はその坂道を自転車でブレーキをぎりぎりまで掛けずに駆け降りて川からどこまでぎりぎりで止められるかを競っていた。考えればずいぶんと危険な遊びをしていたものだ。今、その川には真新しいボートが両岸に連なって係留されていた。僕らの子供の時にはそんなものは浮かんでいなかった。木製の小さな船がたった一艘、岸の杭に繋がれたままいつも川面に揺れていて、誰のものだろうとみんなで不思議がっていた記憶がある。そこから駅の方角に戻ってあたりを走ってみたけれど僕の記憶の中に残っている風景はもうそのあたりにはなかった。
「やっぱり海の方に行ってみようか。まだ時間は早いけど。海を見たらまた何かを思い出せそうな気がするんだ」
自転車を斎藤さんの横に並べて走りながら僕がそう言うと
「そうですね」
と斎藤さんは返事をして、僕を見た。
「私、海ってもう何年も行っていないんです。それと日本海は見るのは初めてだから楽しみ」
僕らは海へとゆっくりと流れ込む川に沿って走っている道を並んで漕いで行った。車とは一台もすれ違わなかった。交差点にある自動販売機で飲み物を買ってめいめいの自転車のバスケットに放り込むと僕らはまた漕ぎ続けた。
「わあ、海が見えてきました」
唐突に眼前に開けた海を見て小さくそう叫ぶと斎藤さんはキィとブレーキを鳴らして自転車を停めた。僕も自転車を並べて停まる。記憶にあるよりずいぶんと小じんまりとした漁港だった。遠くの堤防では数人の男たちがたばこを咥えて立ったまま海を眺めていたり、座って海に釣竿をさしている。
「広いなあ」
斎藤さんは初めて海を見た子供のように眩しそうに海を見た。
「向こうに大きな島が見えますね」
「佐渡だよ。日本で一番大きい島だ」
「素敵ですね、別の国みたい」
僕らは自転車を牽いて船舶用のガソリンスタンドの脇まで歩くと自転車を止め鍵をかけた。
「あそこに何か動物がたくさん集まっているみたいなものがありますけど」
海の方を右手で指しながら斎藤さんがはしゃいだ声をあげた。彼女が指さす方向を見て僕は、ああ、と頷いた。
「テトラポットだ。波を弱くするためのものだよ」
「そうなんですか。トドがたくさん集まっているみたい」
「新潟にはトドはいないよ」
「いたら楽しいのに」
海に近づくとコンクリートの護岸の縁から斎藤さんは海の中を覗きこんだ。波が岸に柔らかくあたる音がする。
「何かいますよ」
小魚の群れが何かを突いている。斎藤さんは両足を抱えるようにして座るとしばらくその様子をじっと見つめていた。
「落ちないようにね。あっちの方に砂浜があるけど行ってみない?」
斎藤さんは名残惜しそうに小魚たちを見やってから立ち上がると、そっと僕に手を差し出した。
「砂浜で転ばないように・・・ね。お父さん」
僕がその手を取ると斎藤さんは指を交互に組みなおした。その指は小鳥のように細くて、そしてこんなに空気は暑いのに、ひんやりと冷たかった。指と指を交互に絡ませたまま僕らは砂浜を歩き始めた。砂浜にもその向こうに広がる海にも誰もいなかった。波打ち際の遥か遠くに船が一隻見える。
「静かな海ですね。誰もいない」
「もっと市内から近くの便利なところに海水浴場があるからね」
「そうじゃなくて」
もどかしそうに言うと斎藤さんは僕の手を強く握った。
「なんだか、世界中で二人っきりみたい、世界の終りにいる二人。そんな映画見たことありません?」
波の上で二羽の海鳥が甲高く啼き交わしながら下降してくる。海からの風に吹かれながら僕らは砂浜にしばらく立っていた。斎藤さんの小さな手から、その手は冷たいのに、何か温かいものが僕に流れ込んできているような気がした。僕は海を眺めながら繋いだ手だけに心が囚われていた。それは景色の中で存在するただ一つだけの確かな、そして大切なもののように思えた。
漁港に戻ってくると僕らは堤防の近くの段差に腰を下ろした。斎藤さんは砂浜からコンクリートの岸壁に出るときにそっと僕から手を離した。
港に繋がれている小さな漁船の上には白抜きで船の名を記した赤い旗が潮風でくるくると回りながらはためいていた。旗は強い海風に晒されている間にちぎられたのか、端の方がぼろぼろになっていて船名も良く読めない。僕らは波の音を聞きながら黙って座っていた。斎藤さんはバッグから白い帽子を取り出した。
「日焼けしない場所に行こうか」
斎藤さんは小さくかぶりを振って、つばの広い帽子を被った。
「いいです、ここで。もうちょっと海を眺めていたいです」
「そう」
ウェルシュコーギーを散歩させていた年配の女性が、「こんにちわ」と挨拶をしながら僕らの前を通った。「こんにちわ」と斎藤さんと僕は一緒に挨拶を返した。
「いい所ですね。母も中学や高校の時は、こんな風にして海を見ていたんだろうな。そして、こんにちわって知らない人とでも挨拶をしていたんでしょうね」
「住んでいたときにはあんまり感じなかったけど、こうやって久しぶりに来てみるとたしかにいい所だね」
頷くと斎藤さんはそのままじっと海を見つめ続けた。ふと、斎藤さんがこのままどこか遠くに行ってしまうんではないかという思いが胸をよぎり僕は胸が苦しくなった。なぜかいつも大切なものほど知らないうちにどこかに消えてしまう。そんな思いを振り切るように僕は勢いをつけて立ちあがった。
「ちょっと早いけど丘に登ってみよう」
斎藤さんは海を見つめたまま、
「そうですね」
と答えると、僕を振り向いてかすかに微笑みゆっくり立ち上がった。自転車を立てるとキラキラと光る海を背にして僕らは海と反対の方向へ漕ぎ始めた。
「ほら、そこを左に曲がる道があるでしょう。そこを曲がって」
前を走っている斎藤さんに声を掛けると、斎藤さんは「はい」と勢いよく答えて道を左に折れる。僕も続いた。坂は昔のようにでこぼこの土と砂利の道ではなく、新しい濃い灰色のアスファルトできれいに舗装されていた。斎藤さんはお尻をサドルから上げて僕の前を懸命に漕いでいく。
「もうすぐだよ」
声を掛けたが斎藤さんから返事はなかった。
「一気に登りきれました」
僕が最後の一漕ぎをして丘の頂上に着くと斎藤さんは息を弾ませながらそう言って、手をかざして海を見た。潮風が白い帽子を巻き上げるように吹いて、斎藤さんは帽子を抑えながら僕を振り向いた。
「良かった。母も一気に登れるようになったのかしら」
久しぶりに自転車を激しく漕いだせいか僕の息も上がっていた。汗が額を伝って眼に入るように流れ出すのを手で拭う。海風が気持ち良かった。
「ここなんですね。母と西尾さんの最初で最後のデートの場所」
「デートなんかじゃないよ、少なくとも彼女はそう思ってなかったと思う」
苦笑いした僕を斎藤さんが悪戯っぽく口をすぼめて笑いながら見ていた。それは今まで斎藤さんが見せたことのない表情だった。
「でも、僕と君のお母さんが最後に会っておしゃべりした場所だよ。僕にとって大切な場所なんだ」
斎藤さんはバッグの中をごそごそと探ると新聞紙を取り出した。こういう事もあるかもしれないと思って持ってきたんですよね、と新聞紙を半分に分けると木陰に敷き斎藤さんはそこに座った。
「いい気持ち。素敵なところですね」
そう言うと、斎藤さんは空を見るように仰向けに体を倒した。
「まるで魔法のバッグだね」
僕は感心しながら斎藤さんが敷いてくれた新聞紙に寝転んだ。真上に広がる空を、刷毛にちょっとだけ白い絵の具をつけて恐るおそるこすったような雲が風に煽られて形を変えながら陸地の方に漂っていく。遥か向こうでは一直線だった飛行機雲が飛行機の飛んできた彼方から次第に形を崩していった。
「いい天気ですね」
斎藤さんが言った。
「うん」
チィチィという虫の声が草むらからしている。その鳴き声を聞きながら僕は眼を瞑った。
木陰で僕はしばらくの間微睡んでいたらしい。目が覚めて、はっと起き上がって横を見ると斎藤さんは座って脚に腕を回したまま海の方を眺めていた。僕が起きたのに気づいた斎藤さんは振り向いた。
「ごめん、寝ちゃったみたいだね」
そう言いながら僕は斎藤さんがそこにいることにほっとしていた。その斎藤さんは真面目な顔をして僕に向かって言った。
「西尾さん、寝言を言っていましたよ」
「ほんとう?」
「ユキコ、、、サイトウユキコって、カタカナで一文字ずつ書いたみたいに」
「嘘でしょう」
そう言われるとちらりと夢にサイトウがでてきたような、そんな気もした。
「はい、嘘です。この間のお返し」
斎藤さんは笑う。
「何の?」
「この間、私が新幹線でうつらうつらした時によだれが垂れているって嘘をついたでしょう?」
「ああ、あの時」
「私、結構あの時は焦っちゃたんですから」
「そうなの?」
「本当です。格好悪いなあ、と思って」
そう言いながら、斎藤さんは時計を見た。つられて僕も時計を覗く。五時半だった。三十分ほど僕は眠っていたらしい。
「いつごろ日が沈むんでしょうね」
「六時半過ぎじゃないかな」
「まだまだ、しばらくかかりますね」
斎藤さんは横に置いてある空のペットボトルを指さす。
「私、もう飲んじゃいました。東堂さんの、二本ともまだ残っていましたよ」
自転車の籠の中で僕の飲み物は夏の陽であたためられてぬるくなっていた。
「新しいのを買いに行ってくるよ」
「私も行く」
斎藤さんは立ち上がって、
「歩いて買いにいきましょう」
と言った。なんで、と聞くと
「せっかくさっき登り切れたのに、今度登りきれなかったら悔しいもの」
ちょっと考えてそう答えると斎藤さんはまた僕の手を取った。
「砂浜じゃないのに」
「だって今日はわたしたちは親子ですもの」
斎藤さんは無邪気に僕を見て、恥ずかし気に微笑んだ。
僕はその手を握りながら、斎藤さんの父親になんだか申し訳ないような気がしていた。父親って言っても本当は大叔父さんなんだけど、でも彼は斎藤さんを本当の娘のように思っていることは確かだった。でも・・・彼はこんな風に手を繋いだことがないんじゃないだろうか。
それでいながら僕はあの日のサイトウと手を繋いでいるような気持ちになっていた。したいと思っていてもやれなかった事、それを取り戻しているような気持ちになっていた。甘酸っぱいような懐かしさが僕の心を揺さぶって思わず僕は斎藤さんの横顔をちらりと見た。足元を見ながら真面目そうな顔をして道を下りていた斎藤さんは、なに?と尋ねるように僕を見返した。手を繋いだまま僕らは坂を下り斎藤さんはミネラルウォーターを、僕はスポーツドリンクを買った。
丘の上に戻ってから僕はスポーツドリンクを一気に飲んだ。寝ているうちに汗をかいたせいか喉がひどく乾いていた。一息に飲み干した僕を見て、斎藤さんはまだ半分くらい残っているミネラルウオーターのボトルを僕に差し出した。
「これも飲みます?」
「いや、いいよ」
斎藤さんは黙って僕が空けたボトルを地べたから取りあげた。
「こうすればいいんですよ」
そう言ってから斎藤さんは自分のボトルの口から水を丁寧に空のボトルに注ぎ込んでいった。一滴もこぼさずに半分移すと、
「ほらできた。じょうずでしょう?」
自慢そうにそう言うと斎藤さんは僕にスポーツドリンクのボトルを差し出した。
「ありがとう」
水にはスポーツドリンクの味が微かに残っていて、それは彼女の優しさのように甘く僕の口を擽った。
「西尾さんて結構気にしいなんですね」
斎藤さんはくすくす笑った。
「残ったお水全部飲んで下さってもよかったのに。こうやって、ボトル同士で口を付けあったら、少しだけど触れてしまいますけど」
「そうか」
斎藤さんはまだ笑っている。
「それに今は親子っていうことにしているじゃないですか」
「そんなことするとたいていは子供の方が嫌がるんじゃないかな」
「そうかもしれませんね。結構同じ齢の子でそういうことを言う子もいます」
斎藤さんは考えるような眼つきをした。
「でもそう言うのって贅沢でわがままで傲慢ですよね。私だって贅沢を言っているんです。本当は施設とかに入れられても仕方ないような状況だったのに。今のお父さんに助けてもらったのに」
ふっと斎藤さんは生真面目な表情をすると
「うん、私、贅沢を言っているんですね」
そう繰り返した。
陽はゆっくり沈み始めていた。砂浜の奥に広がっている林で鳶が悲しそうな鳴き声を上げるのが聞こえる。西の空には雲が幾重にも掛かっていて、オレンジ色に歪んだ太陽を包んだりほどいたりしながらゆっくりとした舞踏のように色を変えて行く。
「きれいですね」
斎藤さんが言う。
「あの頃、こんなにきれいな景色を毎日私、見逃していたんですね」
「ほんとだね」
斎藤さんの頬に橙色に染まった産毛が輝いていた。
「母と一緒に見たときもこんな景色でした?」
「あの時は雲が掛かってなくて、太陽が佐渡に向かって沈んでいったんだ。島の方から一本の道みたいになって太陽の光が海に映っていた」
「それも・・・きれいなんでしょうね」
斎藤さんはサイトウと僕が昔一緒に見た景色を思い浮かべるように眼を瞑った。
やがて夕陽は島の山頂で輝きを一点に込めるように強い緋色の光を放った。そして並んで座っている僕らが見つめている中でその輝きはふっと力を失い、消えた。近くに漂っている雲の端が朱鷺の羽のような色に染まり、淡いオレンジ色が遥かに遠くの空まで広がっていた。斎藤さんは膝を抱えながら、ずっと空を仰ぎ見ていた。被った帽子が風に揺れていた。
「世界がこんな優しい色に染まるときがあるなんて、考えたこともなかったな。それを知っただけで幸せです」
やがて空の半分は光を失った灰色に変わり、残りが群青色に染まり始め、その縁が淡くグラデーションを作りながら次第に色を濃くしていった。暗さを増していく群青色の中でいつしか星が一つ瞬き始めた。黙ってそれを指さすと斎藤さんも静かに、その星を見つめていた。
夜の帳があたりを覆いはじめ港の灯りが一つ一つ消えて行く。僕らは頷きあうと、新聞紙を畳んで自転車の籠に入れると自転車を牽いて丘をおりた。背後を振り返ると道沿いに一直線に並んだ水銀灯の果てに冥い海がところどころに波を踊らせていた。僕らは黙って自転車を牽きながら駅への道を歩いた。斎藤さんはときどき立ち止まり眼を拭った。白いハンカチが闇の中で揺れた。
三十分ほど歩き続け、やがて僕らは駅前に出た。斎藤さんの細い肩はその間中ずっとこまかく震えていた。
自転車屋からちょっと離れたところで斎藤さんが俯いて立ち止まった。僕は斎藤さんの自転車のハンドルに左手を伸ばした。
「持っていくよ」
その言葉に頷くと斎藤さんはそっと自転車から手を離した。二台の自転車のハンドルの真ん中を右手と左手でつかんで僕は自転車屋に牽いて行った。自転車を返して、白熱灯の眩しい店の中から駅の方向を振り返ると街灯の下でぽつんと僕を待っている斎藤さんが見えた。ゆっくり歩み寄った僕が斎藤さんの肩を触ると斎藤さんは僕の胸の中に顔を埋めた。僕らはそのまま駅前の小さな闇の中で立ち続けていた。
駅舎の灯りは暗かった。弱弱しく光る電球にはどうやってそんな小さな光を見つけて来るのか、かなぶんや羽虫やらが群がっている。
プラットフォームの僕の横で斎藤さんはまだ鼻をくすくすさせていた。五分ほどすると僕らが立っている駅が始発の電車が入線してきた。斎藤さんと僕はドアの脇の小さな二人掛けの席に並んで座った。俯いて座ったまま一言も口を利かずにいる斎藤さんを泣かせたのは傍目には僕に見えたかもしれない。もしかすると本当にそうなのかもしれなかった。でもパラパラと乗って来る乗客たちはそんな僕たちを気にする様子もなく携帯電話を片手に疲れたように空いている席に一人一人と座っていった。
電車が発車する頃にようやく斎藤さんは泣き止んだみたいだった。カタコトと揺れる電車の中で、向かいの窓には背景が暗くなるたびに微かに斎藤さんの顔が薄く映った。
やがて電車は朝、斎藤さんが乗って来た駅に着いた。
「どうする。今日は帰る?帰るんだったら家まで送っていくよ」
ささやくように耳元で言った僕に斎藤さんは躊躇ったように僕を見上げるとゆっくりとかぶりを振った。
「じゃあ、駅の近くでご飯を食べよう」
斎藤さんがこくりと首を縦に振ると同時にプシュという音がしてドアが閉じた。
新潟駅に降りると万代橋と反対側の出口から階段を下り僕らはゆっくりと夜の街を歩いた。当てもなくしばらく歩いてくと左手に一軒の洋食屋の看板が見えた。
「ここで良い?」
僕はずっと僕の後ろを歩いていた斎藤さんを振り向いた。
「はい」
そう斎藤さんの答えた声は意外に明るく、僕は思わず彼女の顔を覗き込んだ。そんな僕の視線を避けるように
「おなか、すきましたね」
と言いながら斎藤さんはお腹を右手で押さえると僕の前をすり抜け店のドアを押した。
「いらっしゃいませ」
店の中から高い女性の声がして、半分開いたドアから滑り込むように斎藤さんは店の中に入っていった。
いつから使い続けているのだろう、ラミネートが剥がれかかり、ところどころに料理の名前を消したあとのあるメニューから斎藤さんはオムライス、僕はピラフを選んだ。
「それだけで良いの?」
と尋ねると斎藤さんはメニューをもう一度手にした。彼女の眼が忙しなくメニューを上から下へと動いていく。
「デザートにマンゴーパフェを頼んでいいですか」
両手をこするような仕草をして斎藤さんは照れたように笑った。すっかり元気を取り戻したような斎藤さんの様子に僕はほっとした。
「泣いた鴉がもう笑った、ね」
そう言うと斎藤さんは謎めいた微笑みを浮かべてそっと呟いた。
「私、嬉しかったんです」
「どうして?何で嬉しかったの」
「母が生きていた時に好きな人とあんなに綺麗な景色を見ていたんだって、幸せだったんだって。良かったなと思って」
「好きな人って?」
僕はどきんとした。斎藤さんは隣に置いたピンクの鞄の中から上に乗っかっていた新聞紙と帽子を除けた。
「わたし、西尾さんに見せたいものがあるんです。きっとびっくりしますよ」
そう言いながら斎藤さんは古いB5判の緑の表紙のノートを取り出した。
「母が実家に残してあったものの中から見つけたんです」
受け取ったノートの表紙には几帳面な、でも幼さを残した字で「日記・1991」と書かれていた。最初の日付けは五月六日だった。
「読んでもいいの?」
斎藤さんは頷いた。
「六月六日のところから読んでみてください」
ノートをめくってその日付のところから僕は読み始めた。
< 終礼で先生からN君が東京に行くという話がありました。
淋しくなっちゃうな。東京って広くて人がたくさんいるんだろうな。そして楽しいんだろうな。N君は私のことなんてそのうち忘れちゃうんだろうな。そう思ったらちょっと悲しくなりました。N君、初めて話した時言ったよね。引越って嫌なこともあるけれど、いろんな人に会うことができていいこともあるって。でも引越を見送る私たちには・・・いいことってきっと一つもないんだよ。
夕方、思い切ってN君がよく行っている丘へ自転車を漕いで行ってみたら彼は一人で海を見ていました。嬉しかった。
私が声を掛けるとN君はびっくりしたみたいでした。二人で並んで座っていろんな話をしました。東京で素敵な彼女ができるかもね、と私が言ったら、N君はそんなことないよって、私のことも思い出してね、と言ったら、斎藤のことはきっといつまでも忘れないよ、ってそう答えてくれました。
彼は私の前では私のことを斎藤って苗字で呼びます。友達と話すときは斎藤由紀子ってフルネームで呼んでいます。その呼び方がどっちもまるでカタカナで書いているみたいな不思議なアクセントです。ちょっとぶっきらぼうで、でも優しい。いつも変だなあ、と気になっていたからどうしてそんな風に呼ぶのか聞いてみたかったんだけど尋ねるのはやめにしました。「そう?気づかなかった」とか言ってはぐらかされちゃうような気がして。聞いたらこれからはそんな呼び方をしなくなるんじゃないかと思って。
星が出るころまで、私たちは海と空を眺めていました。「東京でも星が見えるのかなあ」ってN君が言うから、「どんなに離れていても、空はつながっているんだよ、きっとお星さまは一緒に見れるよ」って私が言うとN君は「そうかな」ってちょっと嬉しそうにしていました。あと、自転車の油を差してもらった。感謝 >
次の日の日記はなかった。空白のページが数枚続き、次に書かれていたのは僕が東京に旅立った日のものだった。
<六月二十五日 今日、N君が東京に行ってしまった。見送りには行かなかった。N君との思い出はあの丘の上で話をしたことでよかったんだと思う。もし、見送りに行って泣いちゃったらみんなにからかわれそうだったし。
でも、たぶん、わたし、N君のことが好きだよ。他の人とは何か違う気がするんだ。空が続いているように新潟と東京だって続いているから、いつかきっとN君とも会うことができると思う。そしたら、あの時こうだったんだよ、って笑って話すことができるような気がする。また会える日が絶対に来るよ。また会おうね>
読み終わった僕は暫くの間、眼を瞑った。その日記の中にサイトウと僕の思い出が交差していた。
そうだったんだ。僕がサイトウのことを好きだったように、サイトウも僕に好意をもってくれていたんだ。もう一歩僕らが近づいていたなら、もう少し僕が長くこの町にいたら、僕らは恋人同士になっていたかもしれない。そうしたらサイトウの運命は変わっていたのだろうか。それともやはりサイトウの早すぎる死を僕自身が看取り、そして僕が泣くことになったのだろうか。
眼を開くと斎藤さんは僕のことをじっと見ていた。
「母も西尾さんのことを好きだったんですね。N君って・・・西尾さんの事ですよね?」
「気が付かなかった。サイトウは誰ともおんなじように接していたし、みんな友達っていう感じだったから」
僕は時間に焼けてペラペラになったその日付のページの裏に丁寧に貼ってある僕が撮ったサイトウの写真を眺めた。写真の横に「N君が私のことを撮った写真。一番好きな写真」と書いてあって小さなハートマークがついていた。写真は色褪せて、角が折れ曲がっていた。写真の中でやっぱりサイトウは遠くを見ていた。あの京都の夕暮れの中でサイトウはいったい何を見ていたのだろう。
「こんなの読むと、泣きたくなっちゃうね。僕も」
「いいと思います。いっぱい泣いても」
そう言うと斎藤さんはコップの水を飲んだ。細くて白い喉がコクコクと動いた。
「暑かったですね。体中の水分が汗になって流れ出しちゃったみたい」
水をお代わりして更に半分ほど空けると斎藤さんはにっこりと笑って僕を見た。
「でも、とっても良かった。昔の母のことが分かって。私、新潟に来て本当によかったと思います」
「うん、よかったね。僕はちょっと後悔しているけどね。君のお母さんにあの丘で好きだって言っちゃえばよかったのかな。そうしたらどうなっていたんだろう」
「本当ですね。N君が悪いんですよ。いくじなしだったから」
「いくじなし、ね」
「そうです。母も告白する勇気がなかったみたいですけれど、いつか自分の気持ちを言おうと考えていたようだから。それにやっぱり男の人が告白するのを女の子は待っていると思います。それなのに、気持ちも伝えずに引っ越しちゃうなんて」
わざと非難するような眼付きを作って僕を見ると斎藤さんは言葉を継いだ。
「でも突然いなくなっちゃうことを知ったから母は自分の気持ちに気付いたのかもしれませんね」
斎藤さんは運ばれてきたオムライスを頬張り、僕は自分の前に運ばれてきたピラフをじっと眺める。
「ねぇ、僕はワインを頼んでいいかな」
僕は聞くと斎藤さんは眼を丸くしながらオムライスを飲みこんだ。
「もちろんですよ。大人はこういう時に泣かずにお酒を飲むんですね」
ちょっと生意気なことを言う斎藤さんに苦笑いをしながら
「君も何か飲む?」
と尋ねると斎藤さんはオムライスを脇にどけて飲み物のページをたっぷり三十秒ほど見てからブラッドオレンジジュースを指した。その笑顔は本当に普通の無邪気な女子高生の姿だった。
「シシリアンブラッドオレンジジュース。なんかすごく長い名前ですね」
「飲んだことあるの?」
「前に一回。とっても爽やかな味がするんです。ブラッドなんてちょっと怖い名前ですけど」
「血だものね」
「これを飲むと情熱的になれるのかな?シシリアの人ってすごく情熱的なんでしょう。行ったことあります?」
「学生の時に一回ね」
「どうでした?」
「明るいところだった。太陽も海も人もね」
「私も行ってみたいな。いつか連れてって下さいね」
「オレンジジュースを飲みに?」
「オレンジジュースを飲みに」
そう言って、斎藤さんはきらきらする瞳で僕を見た。オムライスを食べ終わると
「明日も夜、一緒にご飯を食べましょうね」
紙ナプキンで唇を拭き終えた斎藤さんは、ワインを飲んでいる僕に向かって言った。
「せっかく新潟に来たのだから明日はお母さんのお墓参りをしなければって。家のお墓は長岡の近くにあって明日は伯父さんたちに車で連れて行ってもらうんです。母のお墓に行くのは初めてですけれどもう二日待てば月命日なのに。みんなの都合が合わないんですって」
そう言いながらピラフを少し残した僕の前で斎藤さんは早くもパフェと格闘を始めている。僕は二杯目のワインを頼んだ。
「三時ごろには帰ってこれると思うんですけど、そのあと何かあるかもしれないから。ホテルのロビーで六時半でどうですか」
「うん」
「明日の夜は古町に行きましょう。きっと良い所ですよ。ほらずいぶん昔の曲で、雪の降る町を、っていうなんだか淋しい歌があったでしょう。私、雪の古町だってずっと思い込んでいたんです。だって、雪がすごく似合う町だった思い出はあるんですもの」
その夜の斎藤さんはいつもより饒舌だった。お母さんを想って泣いたことできっと何かが吹っ切れたのだろう。店の近くで帰りのタクシーに乗った斎藤さんが窓越しに僕の方に手を振っているのが見えた。僕もタクシーに向かって手を振った。やがて車は流れるような赤いテールランプの光を闇に残して消えて行った。
その夜僕はしばらく寝つけなかった。並んで佐渡を見ながら
「おれ、サイトウと別れるのが辛いんだ」
とあの時言っていたら、その時の僕の本当の気持ちを伝えていたなら、そう思いながら闇の中を見ているとサイトウの顔が浮かんで来た。やがてそのサイトウの顔は斎藤さんと交わり、優しそうに僕に何かを呟き、僕はそれを聞きながらゆっくりと眠りに落ちて行った。
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