第11話 「 間抜けに間を入れる 」

 日は高く、空は澄み、雲はのんびりと流れていく穏やかな昼下がり。ルチルは青々とした牧草の上で大の字になって寝ころんでいた。


 暖かな日差しが睫に跳ね、緩やかに吹く風が体を覆う真白い毛を撫ぜる。


 ああ、気持ちのいい時間だ――同じ状況になれば皆が思うはずの時の中で、けれどルチルは小さな溜息を吐いていた。


(呪い……)


 日に翳すように腕を持ち上げる。映るのは数日前までなかった体毛。それが全身を包み、陽に火照った風を受けてサラと揺れている光景だった。ミイ姉さんのようなボディースーツ的な体毛の生え方ではなく、冬のもこもこした毛糸のセーターより若干見た目がさっぱりとした感じの体毛は、もともと牛であるミイ姉さんよりも獣感が強い。ルチルにして特段の気がかりがいつ人間に戻れるだろうということでないのは自分の姿格好より己の胸の大きさの方が大事であることから間違いはないが、それでも、昨晩の山ヌシからの言葉がわずか魚の小骨のように喉の奥に残っているのも本当の所だった。


 ルチルは持ち上げていた腕を額に乗せてホフゥ……と息を吐き出す。

(良いこと……良いことって、なんだろうなぁ)

 上半分が陰った視界の中、山ヌシの言葉を反芻するルチルは、意識を夜の山の中へと戻していく。


πππ


「――呪いだ」


 極めてシンプルな一言は、それでもルチルには、理解するために少し長めの時間が必要だった。


「呪、い……? 呪いって、あの、悪いお化けや化け猫や、ご飯を残すと『もったいねぇ~』って出てくるやつですか!?」


 しかし理解すれば今度は理解したらしたで頭を抱えてしゃがみ込み、カタカタカターッと小刻みにふるえだす。アウアウヒーッ! と小さくなっていく。


「呪いは駄目です怖いです! おばあちゃんが言ってました。病気と呪いはもらっちゃなんねぇぞって! だから駄目です怖いですぅ!」


 おばあちゃん大好きルチルっちにとっておばあちゃんが言うことを信じ切っているのだから仕方もない。困っている人を手助けすること、親切にしてもらったら先ずお礼を言う。そういった常識をきちんとルチルが培っているのも、おばあちゃんの手腕であるところが大きい。行き倒れたときに授乳されても『ありがとう』を言おうとしたところを見れば、ルチルの中でどれほどおばあちゃんの存在が大きいのか分かるはず。


 しかし! 今は貧乳牛化けオーバーオール一枚少女が小さくなっている姿を鑑賞している場合ではないのである。頭を抱え込んだ瞬間にオーバーオールの胸元にできる隙間を凝視しているばあいじゃあないのである! いまはまだ、ミイ姉さんのミルクの効果は現れてはいないのだからっ! だから、だから、だから……。


 閑話休題。


 ミイ姉さんは縮こまったルチルを「大丈夫。あなたのお祖母さんはそういった意味で言ったんじゃないわ」と安心させつつ「本当? なら、どういう……」という返しには完ぺきなる微笑できっちりと流して見せた。そして山ヌシを見上げる。


「そう……山ヌシ様もそう思うのね?」

「ふん、やはりミルク殿も承知の上か」

「まあ、ね。けど、信じ切れなかったのよ。実際にこの目で見るのは初めてだったし、そもそもあの話は二ペソの村にだって残っている話じゃあないんですもの」

「人の語る噂など、流れる時の中で風化を起こす。形ある石であっても、川底を流れていけば砂粒にもなろう。なれば、形を持たぬ噂など石の変化より早いのは世の常だ。仕方あるまい」


 山ヌシの答えを聞いて「そうね。ありがとう」と返すミイ姉さんは小さく笑った。周囲の変化、いや、成長を感じて嬉しさがこみ上げる。それも幼子の成長を感じて嬉しく思うのは長く生きてきたものであれば、人も獣も変わるものではない。


「でも、そうなると……」

「うむ。ミルク殿の考える通りで間違いないのではないか。いや、それ以外に思い当たる節もないと言った方がいいか」


 傷だらけの顔を撫でるように顎に手を当て、山ヌシは睨み付けるような視線をルチルに向けた。

「ルチルとやら。ぬし、最近になって何かやらかしたな?」

「……え」


 小さく座り込んだ状態で、ルチルは巨大な山ヌシを見上げる。やらかしたという言葉と鋭い視線が責め立ててくるようで、ルチルはヘグッという奇妙な声を上げて幼くも見える顔を悲しく歪ませた。


「あた、あたしは……その、えっとぉ……」

 いくらこの場所が神秘的に綺麗であっても、ここは夜の山の中。自分の瞳には人間に映っているが、明らかに人ではない傷だらけの大男に睨み付けられれば言葉が素直に出てこなくなっても仕方ない。今のプルプル半泣きルチルであれば粗相だってやらかしてしまいかねない状況だった。


「って、山ヌシ様。女の子にそんな目を向けたって話にならないわよ」

「ヌ……」

「山ヌシ様は優しい傷を沢山背負った優しい雄なのは知っているけど、見た目は全く優しくないんだから。ほかの生き物とお話しするときには、もっと朗らかな表情を意識しなさいな。ねえ、ルチル?」

「……へぶぅ」


 ミイ姉さんはルチルに寄って頭を撫でる。もう……とため息交じりに山ヌシを諫め、諫められた山ヌシは「ムゥ……」と小さく唸る。改めてルチルに目を向ければ、ミイ姉さんに縋り付いて体をプルプルさせる子供のヤク。奇妙な感覚はやはり抜けないが、自分の対応を改めて考える山ヌシだった。


「怯えるな。ルチルとやら。俺はぬしに怒れるほどぬしを知らん。故に問うているのだ」

「そ、それって、あたしのことを知ったら怒るってことじゃ……」

「やらかしたことによる、ということだ」

「やらかしたここと……」


 ぐしゅと鼻をすすり上げ、顎に梅干しの様なしわを寄せる。ルチルは考えた。山ヌシが言う最近のことだけではなく、地元を出てから今までのことを指折り数えるように一つずつ。いつの間にか声に出していたことにも気づかない集中力で、だんだんと。


 そんななか。両手の指を七つ折り曲げたときだった。ルチルの口から飛び出した一つの事実。

「ちょっと待って。あんたいま、なんて言ったの?」

「え? えっと、お猿さんにからかわれたり……?」

「そのあと」

「クマに見つかったり……?」

「そのあと」

「小さなお社を……ぁ……、違くて、食料が……なくなったところ、かな……?」


 ルチルの反応は、それはもうわざとらしいものだった。だからルチルは、ミイ姉さんの眼を見ることが出来なかった。


 だって、気づいちゃった。二ペソ到着前。山の中を数日歩き回っている間のこと。休憩しようと腰かけ、寄りかかった古めかしいお社の側面に穴を開けちゃったことに。そして、穴をふさごうと修復のために試行錯誤した結果、よりひどいことになったこともついでに思い出しっちゃったのだ。


 だからルチルの顔は青ざめる。

(うぅ……怒られる。怒られりゅぅ……でもっ!)


 けれど、ここはルチル。自分でしでかしてしまったことに知らん顔をし続けられる盗人のような猛々しさを持ち合わせていない。座った状態のままで地面に額をこすりつける勢いで頭を下げると、それはそれは見事な土下座モードに移行したのであった。


「すみませんごめんなさいお社を壊したあたしが悪いので許してくださいぃ!」

「ルチル、あなた……まあ、自分で気づけたのならいいわ。けど、そう……やっぱりお社を」


 理由がはっきりしたことで安心したらいいのか、それとも先の苦労を嘆けばいいのか、困ってしまうミイ姉さん。そんな彼女に続く山ヌシ様は呆れた口調だ。


「うむ。予想はしていたが、それが事実だと知れたとき怒ればいいのか笑えばいいのか。反応に迷ってしまう」

「笑ってあげなさいな。この子の事だもの、壊したくて壊したのではないはずよ」

「だろうな。他者を騙す狡猾さを、この者からは感じない」


 大きな手で顔をぬぐう山ヌシ様。大きく息を抜き、空っ風に吹かれたような笑いを広角に引っ掛けた。

 ――あれ? と。ルチルは何だか変化のあった空気を感じて、ゴメンナサイ頭を恐る恐る持ち上げる。見れば、山ヌシのいかつい顔が奇妙に崩れ、隣をではミイ姉さんの表情も表現に難しいものになっていた。


「あれ……えっと、あたし怒られない?」

「ああ、怒らん。怒ったところで何にもならん。何にもならん無駄なことをするには幾分か歳を重ねすぎているのでな」


 山ヌシは、胸をなでおろすルチルの隣に視線を向けて、肩をすくめるミイ姉さんを確認してから両膝に手を当てた。改めてルチルを見下ろして口を開く。


「ルチルとやらよ、初めに言っておくぞ。主にかかっている呪いは俺やミルク殿がどうにかして解けるものではないのだ」

「え、じゃあ……あたし、元に戻れ――」

「違う、そうではない。そも呪いというもの自体、当人の行い如何で薄れたり強まったりする不明のもの。であれば、ぬしの力で薄め、取り除いていくほかないのだ」

「あたしの、力で……」


「うむ。――ひとつに、ぬしが壊したといったあれはヒトと獣との仲を友好にしようと考えた先々代の化けダヌキだった山ヌシが、人に化け、二ペソ村の人間と一緒になって作った社だった。互いに余計な血を流さないようにと願いを込めてな。故にその呪いも皮肉なもので、もしその約束を違えたならば、人は獣の姿となり、獣は生きるために必要な爪や牙が抜け落ちることになっていた。いや、まさか、社の損壊にも効力があったとは驚きだが、目の前に人である子牛が存在するのだ、疑う余地はあるまい」


 だが――山ヌシはそう言い置いて続けた。

「俺たち山のものにとって、あの社は形だけの飾り物。山に産まれ山に生きれば、享楽によって流れる血がどれほど不毛であるか知っている。そしてそれは、山に生きる二ペソの住人達も同じだ。無駄な猟が山に与える影響を十分に解し、互いに共存共栄の関係を保とうと努力しているからな」

「え、じゃあ、あたしって、意味のない飾り物で牛さんになっちゃったの!?」

「いいや、意味ならあった。『この山の獣は人とのつながりがあるぞ。だから狙わぬ方が身のためだ』と周囲の山ヌシ連中に知らしめる証しとして社は機能していたからな。この地を狙うほかの山の者が減ったのは先々代の大きな功績だ」

「そうね、先々代の大狸様は、二ペソの村人との友好よりも、その人間を利用して山の平穏を守るような、まさに化けダヌキだったわね」


 懐かしむように微笑むミイ姉さん。

 その様子に何となくほっこりとした郷愁を感じるルチルは、肩の荷が下りたような心持になるのだった。


「そっかあ。ふふ。意味はあったのかあ。ふふふ。意味があったなら良かっ……いやよくないようぅ!」


 ぼすっ、と。うずくまって地面を叩くルチル。さっきの話でどうしてほっとできたのか分からない。やはりルチルにとって、己の姿が変化したことよりバストの理想化の方が一大事なのかもしれなかった。


 山ヌシは、両腕(山ヌシ視点で言えば前足)を上下に振って自分自身に突っ込みを入れているルチルを、残念な子でも見るような眼で見下ろして言う。


「よいか……結論から言うぞ。ルチルとやら、ぬしが本当に呪いを解きたいと願うのならば、他者に対して『良いこと』を行えばいい」

「よいこと?」

「うむ。良いことを成すことで呪いは解けると、先代からは伝え聞いている」

「良いこと……良いことをすれば元に戻れるんですね!」

「多くの者、多くのことに、よいことを行う。さすれば、ぬしの呪いも早晩解けることだろう」


 希望に満ちた答えを得て、ルチルは「分かりました! ありがとうございます!」と柔らかく表情を崩す。ふふ、そっかー。よいことかー、ふふふのふー、とか言っちゃう。


 これで、ルチルの身に降りかかっている問題の一つは、解決の糸口が見つかった。もう一方の絶壁問題についても、解決方法は確かなものがある。であれば、あとは行動に移すのみ。時間が解決してくれる。そう思えば、ルチルは安心していた。隣のミイ姉さんも確認が取れてほっとしている様子。あとはもう牛舎に戻ってまた明日から頑張って生きればいい。それだけだ。それだけですべてが安全安心万事解決するのだから!


 なのに。このタイミングで。ルチルは尋ねてしまうのだ。

 ただ純粋に。ただ真っ直ぐに。たった一つのことを。


 ルチルがその問いをちょっと恥ずかしそうに口にした瞬間、ミイ姉さんと山ヌシは一緒に表情を固めることになった。


 難しい質問だったって?

 そんなこと一つもない。

 七歳未満の子供が尋ね、母親や父親が簡単に答えを出すちょっとしたものだ。

 それが、これ。


「でも、えっと、聞いておきたいんですけど――良いことって、いったい何ですか?」

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