第11.5話 「 ミィ姉さんのささやかな願い 」
澄んだ空の下、ゆったりとした時間の中でルチルは昨晩のことを思い返して、自分なりに考えた結果、やっぱり『良いこと』がどんな行動や行為を指すのか分からなかった。
(ミルク姉さんは、あたしがお社を壊しちゃう大本になった行動、道に迷ったおばあさんを助けたことが『良いこと』の一つだって言ってたけど、でもあのとき、あたしがお婆さんにしたことなんて〝当たり前のこと〟だしなあ。あんな些細なことが『良いこと』だなんて、おばあちゃんに笑われちゃうよ)
昨晩から幾度も考え、それこそ眠る瞬間も、起きた直後も、ミイ姉さんの乳房に吸い付いていた時も考えていた。朝の早いマルコが姿を見せたときにはまた一悶着あるかと身構えもしたが、しかしそんなことは一切なく、忙しそうに朝の仕事をしている見ているうちに自然と手伝いをしていた時にも。子牛のヤクにはというより、人の手でなければできないことをいつの間にか終わらせているという不思議がいくつか起きたけれど、そこはミイ姉さんという不思議を生まれたときから経験しているマルコ。妙だと思わずルチルの手伝いを受け入れていた――そんなときにも、ルチルは『良いこと』について考えていた。マルコがミイ姉さんの乳を搾っているときにも、車軸の曲がった荷車を後ろから押してマルコの仕事を手伝っていた時にも、村の皆からかわいい子牛ねぇと頭を撫でられているときにも、アニールがマルコの笑顔に赤くなっているときにも、ずっと。もちろん、ミルクの売り歩きが終わった後の牛舎の掃除から牧場の柵の見回りの時になっても、現在牧草の上でぼうっと雲を眺めている今に至るまで、考え続けている。『良いこと』って何だろう? と。考えに考え続けて、それでもやはり、のんびり流れる雲の方が足は速い。
そんなルチルを少し離れたところからミイ姉さんは眺めていた。年中食べても食べつくせない牧草を食みながら。ちょっとだけ呆れた視線になってしまうのは実際その通りだからだ。
(もふぅ……良い子には違いないけれど、ずいぶん変わった育てられ方をしてきたみたいねぇ)
それは善悪の基準点。
どこからが良いことで、どこからが悪いことなのか。その基準点が、ルチルの場合にはほかの人間の感覚より、より善行の方向に置かれている。
それが例え良い行いだとしても、普通であれば、来た道を二時間かけて逆戻りして道案内はしないだろう。『良いこと』とは何だと悩んでいるときに、わざわざ思考を阻害するような行動はとらず牛舎に引きこもっているのが普通の行動だ。そう、頼まれてもいないのに、車軸の曲がった重たい荷車を押そうなんて考えることが変なのだ。
だから、ミイ姉さんは思い至った。
これはきっと逆なのね、と。
牧場主を四代にわたって見守り続けられるほど長命のミイ姉さんは、良いことを率先して行おうとする人間がいることを知っている。――他人の笑顔が見たい。他人に取り入りたい。自分のことをよく見てほしい。あるいは、他人や自分に許しをもらいたい、など。本当に様々な理由で人は良いことをする。自分がしていることは良いことだと理解して、己の行動を決定している。
(でも、ルチルの場合は)
困っている誰かを手助けするのは〝当たり前〟なのだ。
それこそ朝目が覚めて顔を洗うくらいに当たり前で、朝食の次には働き始める程度に普通のことで、夜になれば眠りにつくように当然のことなのだ。日常の一つ。呼吸をするように無意識。したくてするのではなく、そこにルチルの善行へ対する意思がない。
それは呆れていいところだろう。人によっては心配のまなざしを送る場合だってある。
しかし、それでも。
(それは悪いことじゃない。正すべき、不具合なんかじゃないんですもの)
ミイ姉さんはルチルに向けていた視線を雲流れる空へと向けて、モフゥと息をついた。良い行いをそれと認識せずに行えるなら、それほど良い行いはないのだから。
(一番の問題は、呪いを解くための『良いこと』が一般的なものでいいのか、それとも呪いを受けた張本人、ルチルにとってのものなのか……。一般的なものでいいなら問題はないのだけれど――)
万一、本人にとっての良いことだった場合、いかにそれが良いことであるのか伝えるのはとても大変だろうとミイ姉さんは考える。
例えば、毎朝自武運の好きなパンが食卓に並ぶ家庭で育った子どもが、その幸せに気づけないのと一緒。当たり前に自分の中にあるものを『それは違う』と言ったところで、理解できるのはずっと後になってからだ。もしかしたら、朝食を用意してくれる母親が死んだ後にしか気づけない可能性だってある。
ミイ姉さんは奥歯ですりつぶした牧草を飲み込んで、そっと願った。
「ルチルは良いことを行えない子じゃないもの。いい子だもの。きっと、大丈夫。――出来ることなら、ルチルが今のままでいられると良いわねぇ」
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