第10話 「 山ヌシの威容 」

 朝の早いマルコが眠りにつくのはやっぱり早い。牛舎の横、牧場を見守るように建つ母屋の窓から明かりが消えたのは、少し離れた二ペソ村の煙突にいくらか煙が残るような時間だった。


 ミイ姉さんのフッカフカな胸に何故か吸い付いた状態で眠っていたルチルは揺り起こされ、しかし長旅のせいで疲弊した意識は半分以上眠ったまま。気が付いた時には、月明かりが樹々の合間から降り注ぐ山の中だ。

「えー、っと……? あれ、ここは……」


 生い茂る木々と下草。月の光が羽衣のように柔らかく足元を照らしてはいるけれど、そも、未知らしい道などない獣道。そんなところをすいすいと進むミイ姉さんの背中におぶわれる格好の自分。これも今日二度目の経験であった。


「起きたのね。見ての通り、山の中よ」

 ミイ姉さんは自分の右肩に乗っているルチルの顔を見てオハヨと微笑んだ。あまりの近い顔同士にドキリと頬を熱くさせ、ルチルも目覚めの挨拶を返す。それから一拍。ルチルは自分が背負われていることに気が付いてアワワと慌てた。


「ご、ごめんなさい。あたし寝ちゃって!」

「いいのよ、気にしないで。ルチルの生まれはずっと遠くにあるのでしょう? 長旅で体が疲れているのよ。姿だって変わっちゃって、心だって普通でいられないはずだもの」

「ミルク姉さん……」

「それにちょうどいいタイミングで目が覚めたみたいだしね」

「って、ことは。そろそろヌシ様の所に着くんですか?」

「ええ、その通り。ほら――聞こえるでしょう」

 ミイ姉さんはそういうと足を止め、夜の山の中、静かに響くそれに意識を向けた。しんと静まる空間で、ルチルも習って耳を澄ませる。

「……、せせらぎ?」


 それは、水の流れる小さな音。透き通るガラスが奏でるような繊細な声。

「この先、もう少し上に清水が湧く岩場があるのよ。泉っていうほどの溜まりはないのだけど、ヒカリゴケが群生しているから、とても幻想的な場所よ」

「そこにヌシ様がいるんですね」

「そういうことね」


 止まっていた足を出そうとしたミイ姉さんに、慌てた様子で自分の足で歩くことを伝えるルチル。地面に降ろされた途端にトトトッと後ろに足が下がった。

「わ、わわっ!」

 そのまま転げていきそうなところをミイ姉さんに掴まれる。


「ほら、気を付けて。下草で分からないかもしれないけど、ここは急こう配なのよ」

「あ、ありがとうございます。気を付けます」


 ヒヤッとした気持ちを引き締めて、足に力を入れるルチル。ミイ姉さんに寄り添うようにせせらぎが聞こえる方向へと山を登る。夜の山中。牛舎で見た印象ではとても恐ろしい場所のように映ったが、実際その居場所に来てみれば、隣にミイ姉さんがいるおかげか、そこまでではなかった。


 それからいくらも進むことなく、ぽっかりと開けた岩場に到着した。


「わあ、きれい……!」

 感嘆が漏れる。


 重なり広がる岩と上空の月が一望できる美しさ。中央にひと際大きい岩があり、その足元から清水が湧いている。岩肌のヒカリゴケが淡い光を浮かばせ、周囲を蛍の仲間たちがふわふわと泳ぐ。神秘が、ここにはあった。


「どう、ルチル。綺麗でしょう」

「はい、とっても!」


 ルチルは子供みたいに目をキラキラさせて辺りを見回し、ポウとお尻を光らせる飛ぶ蛍が肩にとまってクスと笑った。


 その時。

 中央の清水湧き出る岩の向こう、陰から岩の背丈より大きいものが姿を現した。


「ひゃ……っ」


 その影をルチルから見れば体中に痛そうな傷を残した巨漢とし、体の至る所で盛り上がる筋肉はいかにも屈強そうで、精悍と言えばその通りの顔立ちにも爪痕が深く残っているから悪人面という印象。ヒカリゴケと月明かりが作り出すコントラストは余計、その表情に凄みを与えていた。悲鳴が漏れるのも仕方ない。


 そう、彼こそ。

 二ペソを囲む山々のヌシ――巨大な体躯を誇る雄猪であった。


 πππ


 のっそりと動く大きな影が、地を揺らすような声を出す。


「こんな夜更けに誰かと思えば、ミルク殿か」

「悪いわね、山ヌシ様。折り入って話が合ったの」

「構いはしないよ。ミルク殿の折の入った話なら余計に」


 山ヌシはそういうと、その巨体には見合わない軽い挙動で、清水湧く岩の上に飛び乗った。ぽっかりとあいた岩場に降る月の明かりと、ヒカリゴケの淡い光。周囲を舞う蛍たちに彩られる傷だらけの巨漢。その光景は、ルチルにある種の畏敬を与えた。長を担うにふさわしい迫力とでもいうのか。


「それで、ミルク殿。話と言うのは?」

「そうねぇ……まずは質問なのだけど」

 ミイ姉さんはそう言いながらルチルの背中を押して一歩、前に出した。

「この子、山ヌシ様にはどう見えるかしら?」

「はて、どう見えるとは面妖な」

「ああ、違うのよ。別に山ヌシ様の伴侶を見繕ってきたわけではないの。だから好みの話ではなくて、そうね……山ヌシさんなにはこの子がどんな生き物に見えるか、それを尋ねているのよ」


 言葉を聞いた山ヌシは僅か口をつぐみ、何かを飲み込んだような様子で頷いた。

「本来であれば莫迦莫迦しいと一笑に付すところだが、こんな夜分、ミルク殿がわざわざ俺をからかいに来るとも思えない。故に応えよう。俺にはミルク殿のご同輩に見えている。ヒトの着衣を纏ってはいるが、俺と同じ四足の獣だ。それ以外にはこの目には映っていない」

「うん、そうよね」


 しかし、ここで。山ヌシは言いよどむような間を開けて少し唸る。

「……だが、どうにもおかしいな。気配とでもいうのか、俺たち獣とは何かが違うと感じてもいる。奇妙な奴だ」


 その言葉を聞いたミイ姉さんは「でしょうね」と軽く同意した。そして。

「実はね」

 演出なのか何なのか、ミイ姉さんは山ヌシの瞳をじっと見つめてから、神妙に言った。

「この子、人間なんですって」


 その瞬間だ。場を沈黙が支配した。山主にとってそんな答えが出てくるなんて思っていなかったのだから仕方ない。だから、山ヌシが次に言葉を吐き出すまで幾ばくかの時間が必要だった。

「ほう、人間とな」


 山ヌシは岩の上からルチルを見つめる。視線は鋭く、その眼に委縮するルチルの体を貫いて心の奥底を暴くようだった。


「もう本当に不思議でしょう? 私も不思議よ」

「ミルク殿を疑うわけではないが、何か確証があってのことか?」

「確証なんてないわ。でも、あなたも感じているでしょう、山ヌシ様。奇妙な奴だって。その感覚を明確にしていくイメージって言えば伝わるかしら。そうね、こんな言葉で納得なんてできないと思うけれど、私には分かっちゃうのよ。この子は人間だ、ってね」

「ムウ……」


 話を聞いて、しかし山ヌシは素直に言葉を飲み込めない。今も目に映るルチルの像はひとではないのだから当然だ。だが、山主自身も目の前のオーバーオールを着たヤクの子供が見た目そのままの獣だとは到底思えない。違和感が大きすぎる。何より、話を持ってきた相手がこんなふざけた冗談をわざわざ言いに来るとも思えない。だから唸る。目に映る像と己の野生の中で磨き上げられた感覚、一体どちらを信じればいいのか。答えはすぐに出てこない。月明かりの下、ミイ姉さんと、彼女が連れてきたヤクの子供を交互に見ながら唸り続ける。


 そして。

 しばらくの時が流れたころ、山ヌシは巨体を揺らして答えを出した。

「分かった。俄かには信じられないが、ミルク殿の言葉、なにより獣である自分自身の感覚を信じよう。ミルク殿のご同輩にしか見えぬそこの……」

「あ、えっと、ルチルって言います!」

「うむ……ルチルよ、ぬしはヒトなのだな」


 向けられる視線はやはり鋭い。気圧される瞳を向けられて、けれどルチルはゆっくりと、そしてしっかりと頷いた。

「そうか……」


 山ヌシはルチルのその反応に巨体に見合う大きな息を鼻から抜いて、ミイ姉さんに視線を移した。


「であれば、今宵ミルク殿がここに来た理由も察しが付く。つまりはそういうことでいいのだな。そこのルチルとやらをヒトの姿に戻したい、と」

「まあ、そういうことね。察しのいい雄は好きよ」


 ミイ姉さんは豊満なバストを揺らしながらルチルの隣に移動すると、牛の角と妙な親和性を見せる綺麗な顔をルチルに寄せて窺うように山ヌシを見上げた。


「で、どうかしら。この子をもどす方法、何か思いつくことはある?」

「ムウ、あるといえばあるが……それはミルク殿も考えうる範疇で失火ないと思うのだが? なにせ、俺よりこの山を知っているのはミルク殿なのだからな」

「いいのよ。それを聞きに来たのだから。それに、山ヌシにしか伝えられない何かがあるかもしれないじゃない」

「ふん、先代の山ヌシが幼子の頃より山を見てきたミルク殿が知らぬことを若輩の俺が早々知っているはずもないが……そこまで言うならば答えよう」


 大きな岩。湧き出る清水がさらりと流れ、ヒカリゴケと蛍が明かりを灯して、天頂に浮かぶ月が三人を見守る中。山ヌシはたった一言、ルチルに告げた。


「呪いだ」

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