第9話 「 メソメソルチル 」

 ルチル・ハーバーグ干し草の上にいた。それはもうぐったりと。涙のあとを頬に残した死に体で。


 ミイ姉さんがその様子に溜息を鼻から抜くのは、さてこれで何度目だったか。本人にも分からないほど、もふぅと呆れの勝った息は空気に散っていった。


「あんたねぇ……何度も言うようで悪いんだけどね、あの子の――マルコの坊やの目に映るあんたは牛なのよ?」

「ぐすん……そんなこと言われたって、あたしからは美少年に服を無理やり脱がされているようにしか映らないんだもん……また、お尻もぺたんこのおっぱいも触られて……うぅ、もうお嫁にいけない……」

「次男から下なら婿に取れるわよ。それに、服は守ったじゃない」

「確かにオーバーオールは守りましたけどぉ……マルコ君もあんなに躍起にならなくてもいいじゃないですかぁ」


「もともと人間だったあなたには分からないかもしれないけどね、躍起になることなのよ、マルコにとっては。そもそも、彼から見れば白い毛のヤクがオーバーオールを身に着けている方が不自然なのだし。ヒト以外の生き物がそれを身に着けているのは、そうね、生理的に大きな不便があるように見えるのよ」

 ミイ姉さんはそういうと意味ありげに尻尾を動かした。


 人以外の生き物が洋服を着た状態で簡単に思いつく不都合は、先ずは体温調節。そして何と言っても、トイレの問題だ。生き物は個体それぞれに生きるための最適な進化をしているから、人の手が余計に加わればすぐに体調を崩す。命を落とす。人が生み出したものは人が便利に使うためのものであり、器用に動く両手とそれを理解する頭があったればこそ、十全の効率を発揮するものだ。それを子牛がとなれば、牧場主として躍起になるのは当たり前だろう。


(特に私たち牛が食べる量は、人間じゃあ考えられないくらい膨大なんですもの。食べる量が多ければ、その後のことなんて考えずともわかること。マルコが心配するのも理解できるのよね。でも――)


 当のルチルにとってそんな心配なんて全く必要ない。何しろ水場に映る自分は(さすがに常識的なヒトの体ではないが)五体満足の人型生物で、両手だって問題なく動く。オーバーオールの着脱だって自由自在だ。いやいや、そんなおかしなことないだろう! と言いたくなる気持ちは分からなくもないが、少女がヤクになっている時点でおかしなことはもう起きているのだ。頭の中の当たり前が通用する状況ではないなんて、ミイ姉さんだって理解できちゃうくらい奇妙で奇天烈な世界になっちゃっているのだ! (まあ、それを踏まえて考えれば、服を脱がそうと迫る美少年(強引)に、どうしたって抗いたくなるのは(一部を除いた)乙女の性というものなのだ!)


 だからミイ姉さんの溜息は止まらない。

「ルチル、犬に噛まれたと思って諦めなさいな。もう十分にメソメソしたでしょう?」


 ミイ姉さんは牛舎から見える空に目をやった。そこはすでに満天の星空が煌めき、どれほどの時間が経っているのか教えていた。本当のところ、アニールの所から戻ってきたマルコがルチルの服を脱がしにかかったのは牧場の事含め、一日にやらなければならないことをし終わった後の、時間にして二時間前から一時間前のこと。つまり、空が赤く染まってから夜に至るまでのあいだ、ルチルはずっとメソメソしているということになる。いくら長い間を人と暮らしてきて、多少は少女の機微を理解しているミイ姉さんだってそれは疲れる時間だ。それも日に二度目となれば、半分あった哀れみも呆れの波に侵食されてしまう。


「それに、ルチルはもう、いじけたりしないんじゃなかったの?」

「いじけてません……かわいい顔した男の子に後ろから抱き着かれて、無理やり服を脱がされそうになって、いろいろ敏感な部分を触られて……なんだか切ないだけです」

「そうなの? 人間って難しいのねぇ」

「難しい女って言わないでください!」

「言ってないわよ」


 ミイ姉さんはモフゥと息を抜いて、横たわるルチルに寄った。先ほどより幾分落ち着いてきたメソメソルチルの頭を撫でる。

「元気出しなさいな。ね、ルチル」

「はい……」


 返事をして体を起こし、両手で顔をごしごし擦る。自分の恰好を見下ろして乱れたオーバーオールの肩紐を整えるルチルは、不意に、視界に映る自分の絶壁に意識が遠のきかけた。ミイ姉さんが咄嗟に支える。


「本当に大丈夫なの?」

「へ、平気です。いつものこと、です……から。自分の、この、胸に……ぜつぼう、するの、は」

「そ、そう……?」


 この時ミイ姉さんは気づいた。

 ルチルが必死に守るオーバーオールの意味が。

(こんなにも重傷だったなんて)


 女の子としての羞恥だけではない。

 オーバーオールはルチルの自分を傷つけない刀剣の鞘でもあった。

(ああ……これは早くに何とかしなくちゃいけない。このままじゃ、あまりにこの子が可哀そう!)


 ルチルに気づかれないよう、そっと瞼にたまる涙をぬぐって気持ちを新たにするミイ姉さん。一日も早く望むサイズに! とルチルに授乳するときにはいっそうの気持ちを込めることを心に決める。

(でも、そのまえに)

 ミイ姉さんは確認する。


「ルチル、覚えているわね?」

「えっと、はい。会いに行くんですよね」

「そう。この辺り一帯を治めるお偉いさんに、ね」


 ミイ姉さんはルチルの視線を誘うように牛舎から見える一つの山に目を向けた。空には覆いつくさんばかりの星々が輝き、その主たる風格で大きな月がその山の頂点を照らす。夜の闇と月の光がコントラストを生み、怪しさの中に神秘を浮かばせる山の稜線。それはルチルにとって、静かな恐怖で満ち満ちていた。

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