第8話 「 雲ひとつ無い空に響く 」

 それは、青天の霹靂を確かに見たと、のちにアニールの口を開かせるものだった。


「もちろん、アニールさんの畑の仕事や僕のミルク売りに影響が出ない範囲になりますから、本当に近場になっちゃうんですけど」

「ひっ! 一晩……お外、で?」

「はい。キャンプなので外で、一晩を一緒に」


 二度目の雷撃はここでアニールを襲った。マルコから飛び出した三つのフレーズがアニールの体のあちこちでリフレインをさらに繰り返し、ビリビリと痺れさせた。

 マルコはそんなアニールに気づかぬまま緑のトンネルを知らぬまま眺める。


「たまにはのんびりと星空を眺めながら、ご飯を食べたり、ミイ姉さんのミルクを飲んだり……誰かと一緒にゆっくり時間を楽しむとかいいなあ、って」


 まあ、やろうと思えば牧場の中で全部できちゃうので意味を問われると困ってしまいますが――と、マルコは指先で頬を掻いた。

 それは、何一つ裏はなく純粋な気持ちが表れた言葉だった。息抜きを一緒にどうですか? それだけだった。何しろマルコが自分で言った通り、やろうと思えばすべてが牧場という庭の中で出来てしまう。であれば〝誰かと一緒に〟が重要なのだ。


 だが、どうだろう。

 マルコの半歩後ろを歩いていたアニール・クッキーにとって、それは単純な息抜きの誘いに聞こえただろうか?

 答えは――否である。


 彼女にとってマルコのその言葉は媚薬以外の何物でもない。

 夜。外で。一晩丸々!


 乙女の耳にこれがどう聞こえるのかなんて、考えるまでもない。

 それもキャンプのお誘いだ。極論、デートに誘われる以上の覚悟と緊張、ピンクよりもっと色濃い桃色の期待が脳内を占領したっておかしくないのである!


(え、え、ええええええ! 初めてのデートで、初めてのお泊りで、しかもお外で(切実)! あわわわ、どうしよう、どうしよう、どうしよう! 私、どうすればいいの!?)


 バチバチとショート寸前の脳内。体のあちこちが不自然にビクンビクンと痙攣して、もういっそのこと粗相してしまう一歩手前である。心の中には可視化すればピンク色の大型ハリケーンが猛威を振るっている状況だ。しかし、勘違いしないでほしい。十代半ばのマルコより幾分か上の年齢であるアニールは世間から見ればしっかりとした女性の一人なのだ。それでも――! 齢にして二十歳にも満たない生娘なのだ。頭の中にだけ存在する妙なパッションが、中性的で可愛い顔立ちの男の子に向かったとして、それこそ妄想を肥大化させたとして、何の罪があるだろうか!


(だって、ほら、その時になったらやっぱり、わ、私がリードするのよね? マルコを、私が……うん、そ、そうよね、わたしってば、ほら、お、おお、お姉さんだものね! マルコはとてもしっかりした男の子だけど、牧場の管理や身の回りの生活に至るまで全部ひとりでこなせちゃうスーパーヤング(古い)なのは知っているけども! でもでも、やっぱり、あ、あああ、あっちの知識ってなると知らないことだってあると思うの! だからそういう場面があってもマルコに恥をかかせないよう私が、お姉さんである、わ、私が手取り足取り、それこそ腰とr……ァバッ!)


 一体どんな場面を思い浮かべたのか、アニールは赤い顔で血が噴き出す寸前の鼻を思い切り押さえつけた。僅か後ろだったマルコとの距離も二歩三歩と徐々に遅れ、前を行くマルコに一切気付かれないようにと荒ぶる呼吸を必死に整えるのだった。


(お、落ち着け……落ち着くのよ、アニール・クッキー。ここじゃないわ。今ここで暴走したっていいことは何もない。何もないのよ! 暴走するなら既成事実を作れる環境をきちんと整えてから……その瞬間にマルコを暴発させるのよ!!!!!!)


 何かもう怖かった。暴走する気が満々だった。事実も既成概念からすれば捏造も甚だしいことを考えちゃっている暴走乙女アニール・クッキーだが、それはもうこの場に限ったことで言うならば致し方のない事なのだった。


 だって、関係ないのだ。

 暴走乙女たる女の子にとって常識なんて必要ない。

 彼女にとって愛こそ正義なのだから!


 けれど――。

「で、どうですか? もしよければですが」

 アニールの心情なんてこれっぽっちも理解してないマルコは、村へと戻る道をいつもよりほんのちょっぴりのんびりと歩きながら話を続ける。もちろん、アニールの丸メガネの台座が流血沙汰になりそうなことにも気付かない。首の後ろをトントンしながら鼻血を出さないように苦心する乙女心にも。


 アニールは荒れた呼吸と高鳴る鼓動をどうにか落ち着けて、何とか会話のリズムを崩さない程度の間で口を開くことが出来た。

「ええ、もちろん。よろこんでご一緒させてもらうね」

「そうですか? よかった!」


 前を行くマルコは足を止めずに振り返ると気持ちのいい表情で笑った。

「あ、でも」


 自分の顎に触れるように腕を持ち上げて頭上の枝葉を見上げる。

「今度って言っても、しばらく後になっちゃうんですよね」

「え、何か用事があるの?」

「もう、アニールさんたらとぼけちゃって。すぐじゃないですか」

「すぐって……ああ!」


 ピンク色のハリケーンが過ぎ去った頭で半秒。考えてみれば忘れてはいけない重大事が二人というより二ペソの村に迫っていることを思い出した。


「二ペソの感謝祭――きらら祭り!」


 きらら祭りとは、二ペソ村で一年に一度開かれる祭典であり、一年間無事に過ごせた感謝や、また一年を平穏に暮らすための祈りを山に森に、そして村の人たちがお互いに誓い合う年中行事だ。百年以上の昔には金裸祭という名で、山の神々に豊穣と豊猟を感謝し祈るものだったが、いつしか感謝の対象が山の神だけではなく、個々人のつながりへと広まって、その頃から呼び名も現在のものに変わっていったという歴史あるお祭りである。


 アニールは村の一大事を一時でも忘れていたことに恥ずかしさを覚え、さっきとはまた違う熱で赤くなる顔を押さえるのだった。

「やだ、私ったら。舞い上がっちゃったみたい」

「はは、珍しいこともあるんですね」

「(むぅ、マルコの所為なんだぞ……?)」


 ぼそぼそと口になかで文句を言いつつも締まりのない顔でニヘラと笑って、アニールはいつの間にか随分と差の開いたマルコとの距離をトテテと小走りで詰める。


「でも、そっか。お祭りだもの、マルコの言う通りだ。準備に、本祭、それから後片付け。キャンプが出来るのはしばらく後だね」

「はい、そうですね。キャンプのことは無事にお祭りを終えてから二人で考えましょう。せっかくアニールさんが村長になって初めてのきらら祭りの大舞台。立派で、誰も忘れられない素敵なものにしたいです」

「ふふ、ありがとう。村長になるはずだった両親に胸を張れるように、二ペソ村の大きなお役目、しっかりとこなして――どう、いつもよりすごいお祭りになったでしょう、って言ってあげたいもんね」

「僕も頑張ってアニールさんを応援します。僕の両親もアニールさんのお父さんやお母さんと仲良しでしたから、きっと一緒にお祭りを見に来てくれるはずですから。必ず、成功させましょうね」

「うん、絶対なんだから」


 二人は言い合って笑った。祭りのことを考えると期待と緊張で肩に力が入るけれど、願いは一つ。疑いはない。


 そのあと、マルコとアニールは今日の予定を話し合ったり、道端の花を愛でたりしながら坂を下り切り、アニール家のよこを通る道へと戻ってきた。小高い丘の上にあるアニールの家からは小さいながらも活気のある村やその向こうにある牧場、村の両脇を彩る畑の様子が一望でき、見慣れた風景ながらもなんとなしに心が落ち着く。


「ここから見ると二ペソ村って広い村なんですね」

「そうね。にぎやかな街みたいに大きくはないし、村人だって三百人くらいで少ないけど、自然豊かで穏やかで、とっても暖かいところ。行商さんたちの休憩ポイントとしての顔も少しある場所だから外界との交流もあるし、村にありがちな排他的な雰囲気もない。いいところよね、この村は」

「はい」


 動き出した村を見下ろして、マルコは大きく息を吐いた。

「なんといっても、この村は村長が素晴らしいですから」

「なっ……! なに言ってるのよ、マルコ。私はまだまだ未熟者よ」

「あれ、そうですか?」

「ええ、まだまだ」

「そうえすか……じゃあ、アニールさんがそういうなら、僕はアニールさんをお手伝いします。僕にはミイ姉さんのミルクを売るくらいしかできることはないですけど、頑張れ! って応援はできますから!」

「ふふ、頼もしいんだ」

「なんてたって、牧場主ですからね!」


 ムンッとわざとらしく胸を張って見せるマルコはしかし、すぐにエヘヘと照れ笑いを浮かべて恥ずかしそうに頬を掻いた。その瞬間、アニールが自分の鼻を押さえて横を向いた理由には気づかない牧場主マルコ。小さなハテナを頭に浮かべつつ、話を繋げる。


「えっと、じゃあ――そろそろ戻りますね。朝食、通ってもおいしかったです。今度は僕が、って言いたいですが、振舞えるような料理の腕をしていないので今度のキャンプまでに何か一つくらい覚えておきます。あ、でも。これって言うものがあるなら言ってくださいね」

「大丈夫です。マルコと一緒なら何でもおいしくなるもの」

「それを聞いて安心しました」

「ああ、私よりマルコが欲しいものがあったら遠慮なく言ってね。腕によりをかけちゃうんだから!」


 がんばっちゃうからねー、と。ポンと胸を叩いて今度はアニールがのけぞって見せる。豊満な胸が自慢げにカーディガンを押しやるアニールの様子に、マルコにも笑みが浮かんだ。


「はは、それは今から楽しみです」

 マルコはそう言い置いて「では、また明日の朝に」と会釈すると、アニールの「うん、また明日ね」の言葉を聞いてから、その場を後にした。


 遠ざかる背中に寂しさの様な、あるいは勿体なさのような不思議な感覚を覚えるアニールは、それでも今日の約束を思い出して口元を緩ませる。マルコの背中が見えなくなるまでその場でニマニマして、それからやっと家へと戻る。今日の畑仕事は楽しくなる。そんな予感を抱きながら軽い歩調が弾んでいた。


「よーし、今日はいつもより頑張れる気がするぞーぅ」

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