第6話 「 ウシってみんな大きいよね? 」

 外で待たせているマルコには悪いと思いつつも鏡の前で身なりを整えるアニール・クッキー。他人には決して伝わらない前髪の微妙な位置調整をこれでもかと言うほどいじくり倒してから、小走りに表に出る。


「お待たせ、マルコ。ごめんね」

「いいえ、大丈夫ですよ。――じゃあ、行きましょうか」


 動物の刺繍が入ったエプロンからクリーム色が暖かいロングカーディガンという装いに変わったアニールと、今朝の珍事に戸惑っていた気持ちが美味しい料理と楽しい時間で随分とすっきりしたマルコは歩き出す。アニールの家の横を通る緩い上り坂から村の端に出て、そこからさらに山道へと入っていく。


 太陽が完全に顔を出したことに伴って緑の香りがひときわ強く鼻腔をつく山道。田舎の参道にしては整備が行き届き、道幅も広い。この道を延々と進んでいけば山を二つ越えたところに商業都市ナナチカがあり、そこの商業組合の人間が年に何回か綺麗に整備してくれているのがその理由だ。


 樹々のあいだから洩れる陽の光が草花をきらめかせる光景のなかを歩けば、頭上から滴る朝露がアニールの鼻先をかすめる。それをぬぐいながら、マルコの隣を半歩遅れて歩くアニールは考えていた。――比べてみれば若干身長が高く、年齢的にも少し上だから、物語の登場する村娘と王子様のような絵面にはならないだろうなぁ、と。けれど、だからと言ってマルコの背中に向かって『大きくなれ~』と思念を送るより、むぅと口をとがらせて自分の頭のてっぺんを手の平でぐいと押し込むのがアニール・クッキーという女の子だった。


(できればつま先立ちが必要なくらいに!)


 だが、忘れてはならない。そんな慎ましやかなアニールの行動にふと気づいてしまったとき、見て見ぬ振りが出来ないのがマルコ・ストロースという男の子なのである!


「あれ、どうしました。頭に手をやって」

(わっひゃぁあ!)

「虫ですか?」


 純朴な瞳に見つめられて、アニールは慌てて頭から手を退けると、わたわたわたーっと手を振ってみせる。


「な、なんでもないの! えっと、そう! 朝露が、頭に、それで!」

「ああ、朝露。びっくりしますよね、あれ。首元とかに落ちてくるとヒヤってなります」

「ね、だよねっ。びっくりしちゃったー!」

「ですよねー」


 あはは、と。互いに笑いあって歩みを進める。けれど、マルコから向けられる笑顔に恥ずかしさを覚え、さらに半歩遅らせて歩くアニールは赤い顔をうつむかせた。だって、村娘と王子様だ。空想するにも乙女すぎる。せめて二人で牧場を営むとかであったなら――などと考えて。ぼんっ! と顔から湯気が出る。村娘と王子様より現実味が増せば想像だって細部に至って鮮明になるもの。であれば、具体性が出た想像のなかで妄想たくましい女の子はどこまで考え至ったのか。


 アニールはさらに半歩分、速度を遅らせて、自身の着るカーディガンのポケットに両手を突っ込んだのであった。


 πππ


 めそめそしていた。

 それもう、めそめそだった。

 すんすんでヒンヒンでめそめそだった。


 干し草の上で、両手で顔を押さえて、小さくうずくまる格好で。

「もう……いけない……いけないよぅ」と、ルチル・ハーバーグは嗚咽を漏らしていた。


 場所はマルコが暮らす母屋の近くに建てられた牛舎。数日に一度の頻度で交換される干し草の絨毯の上。ルチルのそばでは半分以上呆れた表情のミイ姉さんが、それでも残ったもう半分で慰めの言葉をかけているという状況だった。


「まったくモウ。服をはぎ取られたくらいで泣かないの。上に来たオーバーオールは守ったじゃない。元気出しなさいな、ね?」

「うぅ、そうですけどぉ……中のシャツ切られたときに胸触られたし、お尻の所なんてしっぽの穴だーって言われて切り取られちゃったし……それも、あんなに可愛い顔をした男の子に! ……ああ、あたし、もうお嫁にいけないよぅ……」


「嫁にいけないなら婿を貰えばいいじゃない」

「そういうことじゃあなくて!」


「第一に……いい、よく聞いて。うちの牧場主のお坊ちゃまはアナタのこと人間の女の子だなんて思っていないのよ? ヤクよ、ヤク。ヤクの子供。白いふわふわした体毛が暖かい、四足の獣なの。胸もお尻も、女の子のものを触ってるなんて考えてもいないわよ」

 言われたルチルはいま、自身に降りかかっている問題を思い出して、すうーっと意識が遠のきかけた。危うく究極の現実逃避に成功してしまうところである。


(ああでも。あのまま永遠の休暇を手に入れられればこの問題から逃げられたのかな……はは、あはっははははっっっ! ――あばぁ……)


 ルチルは見る。昨日までなかった真っ白な体毛を。

 ルチルは撫でる。昨日までなかった小さくも確かな丸い角を。

 ルチルは覗く。今朝までシャツで隠されていたオーバーオールの胸元を!


(あばっあばばばばぁあー)


 実のところ、ルチルは自分が何故こんな体(自分から見れば牛女、他人から見ると白いヤクの子供)になっているのかということに、あまり危機感や重要性を感じていない図太い女の子だった。ルチル・ハーバーグにとって、そのようなことなど案外に些細なことなのだ。だから、ルチル・ハーバーグが干し草の上でめそめそしているのには、もっと重大かつ切迫した、とてもとても大切な理由があるからなのだ!


 だって、そう。

 彼女、ルチル・ハーバーグは〝牛〟になったのだ。

 なのに──なのにどうして。


(あだぢの胸はぢいざいままなのよーぅ! だって、牛でしょう? 牛って言ったらみんな巨乳でしょ?! もしかして牛にも貧乳っているの? いやいや、それでもあたしの絶壁胸より豊満なはず! ……って、絶壁やないかーい!)


 ビエーッ、と。今にも滂沱の涙で脱水症状でも起こしそうなルチルはやはり干し草の上で小さく丸まってめそめそする。ちょーめそる。もういっそのこと、変わるにしてヤクではなく、バインバインの肢体を誇っちゃうホルスタインなら良かったのに! なんて事すら考えてしまう。だって、ルチル。これまでの苦労や艱難辛苦の上に伝説のミルクを求めて二ペソ村という山村までやっとの思いで辿り着いたのだ。それほどの悩みなのだ。本人、貧乳などという言葉すら自分には分不相応だと考えるほどなのだ……! 


 それが、である。

 何の因果か牛に変身した。牛と言えば豊満極まるバインバイン。であれば自分ももしかしたら、と淡い期待を持ってしまうことだってあっていいはずだ。

 なのに――。

 ミイ姉さんは、いつまでもめそっているルチルを見てもふぅと息を抜いた。見かねてなのか、呆れてなのかは、ミイ姉さん自身判断のしようがなかったが。


「けど、ほんとう……驚いたわね」

「ぐすっ……驚いた?」

「ええ、びっくりしちゃったわ」


 干し草の上に(ルチルから見れば)グラマラスな肢体を横たえながら、頬杖をついた状態でミイ姉さんは器用に肩をすくめて見せた。


「あなたが人間だっていうことによ」

 それはそうだ。ミイ姉さんと呼ばれるこの牝牛から見ればルチルはヤクなのだから。


 それに対して、ルチルはめそめそしながら返答を繰り返した。

「それは何度も言ったじゃないですかぁ。ウペペ村からやっと辿り着いたこの場所で、気が付いたらこの身体になっていたって。そりゃあね、あたしだってびっくりしてますよ。けど、それを言うならあたしなんてもっとびっくりしたんですから」


「まあ、もっとびっくりするような事が?」

「だって、気が付いたらミルク姉さんみたいな綺麗でおっぱいの大きい牛のお姉さんが居たんですよ? ミルク姉さんの、おっぱいで、大きい、おっぱいの、きれいな……おっぱいが……むきーっ!」


 どういった悔しさがルチルの胸に去来したのか分からないが、彼女はハンカチにそうするように干し草を噛みしめてマグマのような涙を流した。形相が痛々しい。


「はあ……わかった。分かったから、むきーってしないの、ね。――でも、そこよね。不思議なのは」

「そこ……?」

「そう、そこね。私には、あなたが『ヤクの姿になった人間』だって分かるのよ、不思議なことにね。だからって、あなたが私を見るように〝牛女〟のように見えてるわけでもない。私からは『白いヤクの子供』に見えている。ほら、こんなに不思議なことないじゃない? 確認だけど、あなたからは、私は牛の姿に見えていないのよね?」

「ええ、ええ、そうですよ。とてもきれいな妙齢の女性に見えていますよ。まぁあ、牛さんぽいところがない訳じゃないですけど、白と黒の体の毛も頭の角もグラマラスでバインバインなスタイルとうまいこと組み合わさってよりすさまじいおっぱいになってますよ! もうなんなのさ、このおっぱいっ! むきゃーっ!」


 ルチルは再び干し草を噛んで、毒づいた。いや、毒づくにしてももっと他の言葉はなかったのかと思うミイ姉さんは呆れて……いやさ、もうここに至れば、なんだか悲しい気持ちさえ抱いてルチルを眺めるのであった。


 さて、メインヒロインであるルチル・ハーバーグがむきゃーっと荒れているこのタイミングで、そろそろこんがらがる頃合いだろう、見た目の話をしよう。


 まず、ミイ姉さんは牛だ。村にいる人間はもちろん、その飼い主であるマルコ・ストロースにも牛という姿に見えている。やや、という語が当てはまらない大きさのホルスタイン種という形で。それはミイ姉さん本人だって、そういった認識で間違いない。水飲み場に映る自分を見てもそれは確かだ。


 変わってルチル・ハーバーグはというと、ミイ姉さんを一般的な牛として捉えていない。それどころか四足歩行する動物にも見えていない。妙齢で、とても美しい、しかし牛の特徴を持った人間の女性に見えている。おっぱいなんてフッカフカだ。――フッカフカだ!


 いわば、ルチル・ハーバーグの見ている世界だけが独自のものになっている。ミイ姉さんがルチルに感じる『牛なのに人』という違和感はあるものの、見た目として牛人間を認識しているのはルチルだけなのである。それが何故なのか? それはまだ置いておいてもらいたい。


 閑話休題。


 見ているこちらが悲しくなるほどむきゃーっとむきゃるルチルに、呆れからくる乾いた笑いを鼻から抜いたミイ姉さんは、頬杖ついた状態のまま空いた手で自分の腰をポンとたたいた。


「で、あなた……ルチルだっけ?」

「はいそうですよー。ルチルですー。ぺたんこぜっぺきのルチルですー」

「……、そう。それじゃあ――ぺたんこぜっぺきのルチル。あなたは考えているのかしら。ぺたんこぜっぺきのルチルはこれからどうするのか。ぺたんこぜっぺきのルチルの考える未来や、ぺたんこぜっぺきのルチルがどうしてこうなったのかとか。まさか、ぺたんこぜっぺきのルチルには何も考えられないなんてことはないわよね。いくら胸がぺたんこぜっぺきのルチルであっても、ぺたんこぜっぺきのルチルの胸と頭は別の――――」


「すみませんごめんなさいもういじけたりしないのでゆるしてくださいおねがいしますみるくねえさまぁ!」

 ルチルは干し草の絨毯の上から額を地につけた。


 ミイ姉さんからため息が聞こえる。

「まったく、最初からそうしてなさいな」

「はい、ごめんなさい……」

「そもそも、胸の大きさなんかで卑屈になり過ぎよ」

「でも、だって……絶壁だし……」

「胸なんて勝手に大きくなるじゃない。毎日ミルクを飲んでいれば」

「ならない人だっているんですよぅ……ぐしゅぅ」

「ほら、泣かないの。ルチルが言っているのは普通のミルクでしょう?」

「ミルクに普通もなにも……」

「だったら、ルチルはなんでここまでやってきたの?」

「それは……胸を大きくするために……」

「どうやって?」

「二ペソ村に伝わる牛乳を――――あっ」


 ようやく自分が何のためにここまで旅してきたのか思い出したルチルは、目の前で優雅に体を横たえる妙齢の美女を改めて見る。


「自慢じゃないけど。さっきルチルの服を脱がそうとした男の子に代替わりするはるか前から、私のミルクは二ペソ村の食卓を飾ってきたの。なら、言い伝えに残るミルクが誰のミルクかなんて、考えるまでもないじゃない」

「それじゃあ、もしかして……!」


 長いまつげが縁取るとろんとした瞼が妖艶なミイ姉さんは、微笑んで見せた。


「自己紹介は済んで、現状の把握も終わった。私たちが仲良くなるなんてこれからで十分。であれば。これからどうするかなんて、もう答えは出ているわね?」


 ミイ姉さんの言葉に反応するルチルはモゾリと体を動かした。小さく縮こまった手足を動かしてぺたんと座った格好になる。さっきまでのすねた表情が幾分眉に残ってはいたが、それでも返事は大きく、頷いて見せる。


「ミルク姉さんのおっぱいをいっぱい飲む!」

「そうね。そして、もう一つ。考えなければいけないことがあるわね」

「もう、一つ……?」

「ヒトの姿に戻ること」

「あ」

「……、まさか本当に忘れていたわけじゃないでしょうね……」

「そそ、ソンナマサカ! 戻りたいですよ。うん、モドリタイモドリタイ」


 立派な乳になるという目的地への道順が見えたことで自分の現在の問題なんてすっぽ抜けちゃうルチル・ハーバーグ。ミイ姉さんは、そんなルチルにため息交じりだった。


「まあ、いいわ。じゃあ取り敢えず今夜、行くからね」

「いくって?」

「会いに行くのよ」


 ミイ姉さんは牛舎から見える山のてっぺんを流し見て。

「この辺り一帯を治める、ヌシ様にね」

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