第4話 「 牧場のグラマラス 」
牧場にマルコが戻ってくる前のこと。
彼女にとって、朝のお勤めが終わったあとにやることと言えば、年中喰ってもなぜか食べつくせない牧草を食むことと、時折戻ってくるそれを反芻すること、そして集ってくる虫を腰に垂れ下がる尻尾で追い払うことくらいで、それ以上の何かを積極的にしようなんて考えることはなかった。三つ程度しかやることがないと言われれば積極性のないコミュ障的怠惰な奴だとお思いかもしれないが、しかし、これは彼女が『自分は何者であるか』という事を正しく理解していることでもあった。
当然だ。
彼女は牛なのだから。
たとえ人間の世界に紛れてパンをこねることが出来なくても、彼女には重要な役目が確かにあるし、その役割というものをきちっとこなすことが自分に求められていると知っていれば、そもそもパンをこねる必要なんてないのだ。
だから彼女は牧草を食む。自由に、気ままに、惜しげもなく。
何と言っても、のんびりと。
(……って、いっても。私がそこら辺にいる普通の牛かと問われると、まあ、違うと言わざるを得ないでしょうね)
彼女は朗らかな一日になるだろう空の下で大きな体をのっそりと揺らし、牧草を咀嚼しながらもふぅと思考を巡らせるのだった。
さて、ここで。
どうしてとある山村近くで飼われている牝牛が『私はただの牛ではない』などと考えているのかと言えば、もちろん理由があるわけだ。それがどんなものだと問われれば、話は意外と簡単で、マルコから数えて四代前の飼い主から〝ミルク〟と名付けられた名前も〝ミイ姉さん〟と敬称がついて早十年弱を数えるほどに長生きであるというところが一つ。人に飼われる牛の――それも牝の、となるとその寿命の長さたるや、一般のホルスタインと比べて十倍以上はもう、すでに生きている。しかも、妊娠も出産もしていないのに毎日毎日大量の乳が出て、その味に何一つ陰りがないとくる。病気をしたこともなければ、それよりなにより、とにかくその体の大きさが尋常じゃないのだから、彼女本人が『私は普通じゃアない』と考えるに至ったところでなんらおかしなところはないだろう。
(妖怪だ、物の怪だと怖がられないだけましだけど……ホント、私って何なのかしらねぇ)
特段悩んでいるわけではないがふと頭に浮かんだ一つの疑問。自分自身の肉体であり、もう百年ほどは付き合いのある相手ではあるけれど、分からないものは分からない。
それでも。
彼女はそれが分からないからと言って『私っていったい何なの! 怖い、私は私の正体が怖い!』などというセンチメンタルな少女などではない。葛藤したところで、いやさその答えが分かったところで、自分自身変わる必要なんてないと理解している牝牛なのだ。自分がどこにいて、自分に求められていることが分かっていれば、生きることに懊悩なんてないもの。雨風をしのぐ場所と、毎日の食事。自分がパンを捏ねるような必要がなければ、それ以上に平和な時間があるだろうか。彼女としては、出来ることなら目鼻立ちの整った雄牛の一頭もいれば生活に張りと潤いが出ると思わなくもないが、それはぜいたくというものと理解する。そもそも、自分という不思議な体質と肉体の大きさに見合う相手がいるなんて考えられないのよねぇ、と彼女は奥歯で牧草をすりつぶす。
(そうねぇ……多くは望まないけれど、せめて生涯を連れ添ってくれる相手じゃないとねぇ。まあ、私があと何年生きるのかも分からないから何とも言えないんだけれど)
もふぅ、とため息に似た何かを吐き出して、彼女は牧草をのそのそと食べ歩く。時たま背中に乗る小鳥の世間話に耳を傾けたり、牧場の横を走る街道に顔を出すキツネの親子とあいさつを交わしたりしながら過ごす彼女は、(そういえば……)と思い出すことがあった。
「背中のシマエナガたちが言ってた〝道で寝ている大きな亀〟って何だったのかしら」
呟きつつ、牧草に突っ込んでいた鼻先を持ち上げる。振り向けるのは話にあった牧場横の街道だ。覚えている限りなら、牧場と森とが区切れるちょうど境のあたりか。距離としては百と五十~六十メートルほどだ。
(……、…………)
彼女はその方向を見ながら「もふぅ」と迷う。牛という動物の性質なのか、それとも人の営みを四代も見続けられるほどの長命だからか、好奇心を僅かくすぐられても足を出すまでに至らない。
太陽を見て時を知り、トラブルもなければ後四半刻もかからずマルコが返ってくると考え、視界に入った足元の虫が跳ねるのを観察して、もう一度くだんの場所に視線を投げてみる。
(なんだか妙な気分ね……いつもならこんな気にならないのに)
しっぽが左右に揺れ、そわそわしてくる自分を自覚していく。まるでとても柔らかいコットンで敏感な部分を撫でられているような気分。自分が牛でなければもうすでに走り出しているんじゃないかと思っても、実際に足が動くのは数分が経ってからだった。性格のせいなのか、それとも自分が牛だからかと、ちょっとだけ思案しながら彼女はのっそりと動き始める。
(あれは……)
率直に言って、それは亀ではなかった。実のところ、こんな山の中にいる大きな亀というものがどんなものなのか気になっていたから、ほんの少し残念な気分だが、まあ構いはしない。
(まあ、空の上からあれを見ればそう見えるのかもしれないけれどねぇ)
彼女の視線の先にあるそれは、リュックサックだった。布製で、いくつもの小物入れがついた袋状の物体。それが道に落ちている。ただ一つおかしなところは、それがとても大きいというところ。ーーいいや、大きすぎる。体の大きな男が背負ってもまだバランスが取れないほど大きい。
(ひと昔前には行商人があんなのを背負って街から街に、村から村に商売していたけど、今はもっと楽に多くを運べるようになってる……って言うか、これの持ち主はどこに行ったのかしら?)
彼女はゆっくりと歩を進めながら遠目に映るリュックの周囲に目を配る。移動に邪魔になったから捨てていったのかと考えるが、二ペソ村がもう目の鼻の先にあるこんな場所でわざわざ捨ててはいかないだろうし、緊急的出来事が起きて仕方なく? と思ってみるがその緊急事態が済んでしまえば本人じゃなくとも村の誰かが取りに来るはずで、そもそもそんな緊急事態が牧場からほど近いこんな場所で起きていたら気づかないはずがない。
(これでも人間よりは野生に近いんですものね――それに、この辺りは山ヌシ様が巨猪の坊やに代替わりしてから人を襲う獣もいなくなっているし、荷物を放り出してまでっていうのは考えられ……あら?)
のんびり歩くこと数分。ようやっと目的の場所に到着した彼女は、牧場と道を隔てる柵に近づいたところで、はたと気が付いた。
(これは)
彼女の目に映る大きなリュック、そのさらに下。頭に超という文字をつけて表しても適当だろう大きさの物体と地面との間に――。
(どうして、こんな子供が?)
彼女は驚いた。
体の大きな男性が背負ってもまだ大きいリュックに子供が押しつぶされていることに!
ではなく。
オーバーオールという人間の服を着た、自分と同じ種族の子供がリュックを背負った格好のまま、その荷物に押しつぶされながら気を失っていることに、だ。
「山の中の街道で大きな亀を見つけるよりよっぽどビックリよね、これは……」
彼女は柵に隔てられ、人間の荷物に押しつぶされたそれを見て、もふぅと息を吐き出すのだった。
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