第3話 「 年若い村長さん 」

 二ペソ村の家々に知らせる響かないベルをガランと鳴らして荷車を引く。一日で一番の忙しさをのんびりと味わって、仕事はきっちりとこなすマルコ。村の住人たちは早朝から気力に溢れ、小さな村にもかかわらずあちこちで交わされる挨拶は元気いっぱい。いいや、これからもっと活気にあふれるのだから、これでもやはり早朝のざわつきだろう。


 そんな声を聴きながら小川に掛かる橋を渡り、短い坂を上っていく。坂の上には村長の家。ここまでくれば終わりが見えて、残りのミルクもブリキ缶に一つ程だ。村長の家を過ぎて売り歩けば、いつも通りお玉で三杯くらいのミルクが残って牧場へと戻れるはず。


「たまに完売しちゃうけど……」

 マルコは以前の失敗を思い返して、ちょっと荷車を引く力が抜けた。


『完売させちゃいけないよ』


 それは亡き両親の言葉だった。

 完売と聞けばいいことのように思えるけれど、実のところあまりいいことではないのだ。その理由というのが『売り切ってしまうと売れなくなるから』。幼い時分にはマルコは意味を飲み込むことが上手くできなかったが、つまり、村を回り終わったあとないし、村を回っている途中でも、『やっぱりミルクを頂戴よ』『ミルクを零してしまったから買いなおしたいの』というお客さんに売れなくなってしまうというのが理由だ。だから、マルコの両親は『売り切ってはいけない』と教えてくれた。


(だけど、やっぱり失敗しちゃうのが僕なんだよね)

 マルコは覚えている。完売してしまった後にミルクを求めに来たお客さんの残念そうな表情を。その時になってやっと両親が言っていたことを心で知ることが出来た。『良いかい、マルコ。ミルク屋がミルクを売れないという事は、お客さんの期待を裏切っている様なものなんだ』ーーその言葉の意味を。


(たまにあるよね。クルミのパンが食べたくてパン屋に走った時、売り切れていて手に入れられなかった時のガッカリ感。パン屋さん何だから当然あるよね、っていう勝手な期待が裏切られた様な気持ちになる、あれ)


 それと同じで、ミルク売りに『ミルク下さい!』と走ったら売り切れだった、なんてあっちゃいけない。ミルクがないだけで一日に献立がガラッと変わることもあれば、献立が変わってしまったせいで他の食材を悪くしてしまう可能性だってゼロではないのだから。


(朝を彩る一杯のミルク。それは、一日の心の在り様さえ変えてしまう魔法の一杯、か)

 マルコは幼い頃に聞いた言葉を反芻して、荷車を引く手にぐっと力を込めるのだった。


 村長の家の前に着く頃には、村長その人であるアニール・クッキーが、玄関横に立つ灯篭の様な小さな石塔の前に立っていた。

「おはよう、マルコ。日差しの柔らかい良い日ね」

 一本の緩い三つ編みに結わえられた長い黒髪。シャツとショートパンツに動物の刺繍が入ったエプロン姿で鍋を持った格好。年の頃はマルコとそう変わらない年齢の、丸メガネのお姉さんである。


 マルコは、自分の到着前に外で待っていてくれたアニールに柔和な笑顔を向けた。

「おはようございます、アニールさん。となり山の雲のかかりも少なくて、過ごしやすそうな一日になりそうですね」

「そうね。最近はマルフサの棚も新芽を伸ばしているから。おひさまに頑張ってもらって、元気を分けてもらわないと」


 葡萄によく似たマルフサという果樹の事を話しながら、アニールは空を見上げる。瑞々しさがよく表れた頬が朝日に照らされ、なんとも気持ちのいい表情だ。これで村一つの長なのだから驚きだろう。しかし、村長と聞けば齢を重ねたご老人を思い浮かべるのは当然で、そしてそれはここ二ペソであっても一年前まではそうであったことは間違いない。


 落石事故。一年前に起きた落石事故は二ペソ村という小さな村から多くの命を奪っていった。マルコの両親然り、多くの村人も、村長さえも。次代の村長であったはずのアニール・クッキーという少女の両親もその時に亡くなって、ならばその娘がやるべきだというのが村民一同の意見だったのだ。


 本来であれば、いくら血縁だからと言って村という大きなコミュニティーを回す立場に経験の少ない女の子を据えるべきじゃない! という声が上がってもいいところで、実際に経験も知識も豊富な人間だって多くいた。そしてそれは、当然のことにも思える判断だろう。


 けれど、現在二ペソ村の村長は年若い娘のアニールだ。それはアニールが誰にも村長の座を譲ろうとしなかったわけでも、村の連中が責任を押し付けたわけでもなく、順当な流れとしての結果が、そのような形を導いたのである。


 結局のところ、この村には権力に目をくらませたり、責任逃れのために弱い立場の人間を利用したりという事が一つもない村なのだ。村長だろうが、村民だろうが、困ったときには互いに報告し合い、互いに支えあえるコミュニティーとして機能が確立している。それも、村にいる人間たちがそれを努力しているという事などなに一つもなく、ごく自然な形で〝協力〟が根付いている村――それが二ペソ村という山村なのである。


 マルコとアニールは雑談を交わしながら、その中でミルクのやり取りをする。渡された鍋を受け取り、最後のブリキ缶のゴトリと荷車から降ろしてミルクを移す。

 と、そのとき。

 働くマルコの横顔をじっと見つめていたアニールは、思い出したかの様に声を上げたのだった。


「あ、ああ、そうだマルコ」

「何です?」

「えっと、ほら! 崖の祠には今日もいくの?」


 アニールの視線は眼鏡越しに家の横にある坂、そこを更に上って村を出た山の中へと移っていた。ここからでは生い茂った樹々の枝葉に隠れて望むことはできないが、そのつややかな緑のトンネルの向こうには、大きな川を見下ろせる高台の様な崖がある。アニールの言う祠はそこにあった。そしてその祠のすぐそばには、尖塔のようにそそり立つあまりにも大きな岩がでんと偉容を鎮座させてもいる。


 マルコは柄の長いお玉を操りながら、ミルクから目を離さずに答えた。

「ええ、そうですね。行きますよ。嵐でもない限りは必ず。父さんとの約束なので。……村を回って、うちでご飯を食べて、ミイ姉さんに声をかけて。それからですけど」

「そっか、そうよね! うん、知ってた。マルコは偉いものね!」


 あははー、と空笑ってマルコの横顔に視線を戻すアニールは、「偉くなんてないですよ」と小さく笑う若いミルク売りからスッと視線を外した。なのにチラチラと窺うように目が落ちつかない。

「な、ならさ……」とちょっとだけ声を上ずらせて「今日はうちで食べないかな……朝ごはん、とか」

「え?」


 マルコの手が止まった。僅か驚いた表情がアニールに向けられる。その顔にたじろいで、アニールはあたふたと所在なさげに手を動かした。


「いやほら、あの、そう! 昨日ね、初物のお野菜を分けてもらったの。だから今日の献立はスープにしようと思ってて! けど、せっかく頂いた初物だもの、一人で食べるのもつまらないじゃない。それに、祠に行くならうちからの方が近いし。たまには私も行きたいし……ご飯だって一人で食べるよりおいしいかな! って思って……」

 だんだんと勢いが弱くなっていくアニール。「ど、どうかな?」と続ける頃には消え入りそうだった。かけた丸メガネの縁から覗くような上目遣いがいじらしい。


 マルコは止まっていた手を動かしながら、「うーん、どうしようかなぁ」と考えつつ、預かった鍋いっぱいにミルクを移し終えた。鍋の中で揺れるミルクを見つめ、決心がつくとアニールに鍋を渡す。

「そうですね。呼んでもらえるなら喜んで」


 途端にさっきまでの落ち着かなさが嘘のような笑顔を浮かべて、アニールは鍋を受け取った。

「そう? よかった! 来てくれるならうんと丹精しなくっちゃ!」


 今にもその場でクルクルと踊りだしそうなアニールの様子に、なんだかこっちまで嬉しくなるマルコ。ただ呼ばれるだけでは申し訳ないとパンの用意を申し出た。


「なら、そのスープに合う焼き立てのパンを持ってきます。さっきパン屋のモゥイさんが、今日のエンパナーダは一味違うぞ! って誇らしげでしたから」

「そんなそんな! 私から誘ったんだから――」

「いいえ、せっかくの料理なんです。僕が用意できるものがパンくらいしかない方が申し訳ないくらいですから」


 話をしながらミルク代を受け取って、ツナギのポケットに落とし入れる。アニールが言葉を継ぐ前にブリキ缶を荷車に戻して、再び売り歩く準備を整えることで口をふさぐ。


「じゃあ、終わったらお邪魔させてもらいますね。――あ、これっていうパンがあれば教えてください」

「ううん、マルコが選んでくれたならそれでいいよ」

「そうですか? なら、美味しそうに見えるものをいくつか見繕ってきますね」


 そう言って、マルコは軽い会釈と一緒に「では、また」と荷車を引いていく。ガランと響かないベルを鳴らして荷車を引くマルコの後ろ姿にしばらく手を振っていたアニールは、マルコの背中がずいぶんと小さくなってから胸の横でぎゅっと拳を作る。懸命に堪えても口元が締まらない。

「ふふ、ふふふふふー!」


 頭に浮かぶのは朝食の妄想。あれやこれやと献立を考えながら、アニールはにやついた口元のまま家へと小走りに駆け戻った。

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