第2話 怖い話

 オチ州中心市街地クヴィエトよりやや離れた街道沿いにその屋敷はある。

 屋敷には人は住んでいない。何十年も前に屋敷の住人全員が野盗に惨殺されてからというもの誰も後を引き取らなかったのだ。人の手が入らず荒れ果てた屋敷は、屋根には穴が開き壁はひびだらけ、窓は硝子ガラスが割れたまま放置されている。庭には草木が生い茂り、見るからに薄気味悪い風情である。

 或る時商用で旅行中の小売商人が街道を移動中豪雨に見舞われた。彼は咄嗟に例の屋敷へ足を踏み入れる。少々荒れていても屋根があれば雨風は防げる。

 建物の正面入り口から室内に入り持っていた提燈ランプに火を入れた男は、ほっと一息つくも屋敷の中が外よりも一段と寒いことに気が付く。衣服も濡れているのにこのままでは凍えてしまう。男は居室に暖炉を見つけると、落ちていた木屑で火をつけることにした。

 首尾良く提燈の火種から暖炉の木屑に火を移すと、燃え上がった炎は暖炉周辺を暖かにした。今度こそ落ち着ける。そう思って男が暖炉の前で腰を下ろすと。

 暖炉の傍らに置かれたぼろぼろの揺り椅子に、老人が座っていることに気付く。

 何故こんなぼろぼろの椅子に、と疑問に思うのも一瞬で、男はすぐにその異常さに思い至り全身が総毛だった。

 誰も住んでいない廃屋に、さっきまでいなかったのに、真っ暗な中一人で。様々な理由で老人が普通の人間ではないことを悟った男は、恐怖で混乱しつつも声を出さずに提燈を手に取り立ち上がる。逃げようとしたその時、老人が顔を男に向けた。

 男は今度こそ絶叫した。

 老人の両目は白目まで真っ赤だったのだ。


「ばっかじゃねえの。お前何しに行ったんだよ。仲良くお話しして帰ってきたのかよ」

 帰路、初経験の首尾を執拗に問われたウェスリーが正直に告白すると、ミハルは信じられん、といった顔で声を上げた。

 最終の乗合馬車に乗り込み、兵営までの道すがらである。横並びに座席に座って三人はそれぞれ外套にくるまっている。夜になると殊更冷える。

「そもそも俺は行きたくて行ったわけじゃないし……」

「はーっ? だとしても部屋まで入っといて何だその体たらくはー。お前ほんとにちんぽ付いてんのか」

「でかい声で言うな‼」

「ウェスリー准尉……もしかして男が好きなんじゃぁ……」

 ヴェンデルが不安げな表情で言葉を挟む。

「はっ⁉ んなわけ」

「だとしたら俺達ぁとんでもなく申し訳ないことをしたっちゅうことで……」

 人の話は聞かないヴェンデル。

「まじかー……悪かったなウェスよ。今度そっち向けの店を紹介してやろう」

「はっ⁉ だから違う」

「それがいいですな。……逆に何で隊長がそっち向けの店を知ってるのかという話で」

「話を聞けってちが」

「んー? 知り合いが働いてる」

「隊長、中々怪しげな理由ですなぁ」

「怪しげ? 怪しくねえよ? そいつは中等学校が一緒だったんだよね」

「はぁーん。まあそういうことにしときまさぁ」

「なに? なんなのお前。なんか俺変なこと言ってる? なあウェス」

「……知らねえよもう」

 圧倒的に重苦しい不機嫌な声でウェスリーが呟いたのを聞いて、流石に不味いと感じたのかミハルとヴェンデルは口をつぐんだ。ガタガタと揺れる客車の中には他の乗客も数人いるが、皆一様に押し黙っている。暫し沈黙が空間を支配した。

 客車は箱型で壁も屋根も付いているが、風は遮っても暖かいとは言えない。黙っていると体感温度が一層下がるように感じられる。

 沈黙を破ったのはミハルである。

「で、ウェスは何の話をしたの」

 ウェスリーは半分閉じたような据わった目付きでミハルを睨み付ける。ウェスリーの垂れ気味の目は、普段は表情が薄く見えることに一役買っているが、いざ立腹するなどして険しい顔になると、目付きの悪さに定評のあるミハルに匹敵する物騒さだ。

 ミハルは肩を竦めた。

「悪かったって。もう無理矢理連れてかねえよ」

「……それだけか」

「男が好きだとも思ってねえよ」

「ならいい」

 何だ男が好きなんじゃないのか、とヴェンデルは小さく言う。軍にいるとこの手の話は割合多く転がっているので、結構本気にしていたヴェンデルである。

 ミハルは再度問う。

「で? 何の話ししてたの?」

 表情を緩めながらもそっぽを向いて、ウェスリーは低い声で囁いた。

「怖い話」

 乗客の誰かがかすれた咳をした。


 ウェスリーは今まで意識していなかったから気付いていなかったのだが、例の怪奇話は第二大隊の将兵達の間でも広まっているようだった。

 皆が皆あの娼婦から話を聞いたというわけではないだろうから、存外有名な話なのかもしれない。しかもこの話にはさまざまな変化形があるらしい。

 ウェスリーが女から聞いたのは老人がいつの間にか傍らに座っているという話だったが、他には「階段を延々と昇り降りする少女を見た」、「窓から青白い顔の女が手を振っていた」、「脚の無い男が追いかけてきた」等の類型があるようだ。

 共通するのは街道沿いの屋敷での出来事ということと、目撃される死霊の両目が皆一様に赤いということである。その二点以外は、登場人物の職業や人数が違ったり、屋敷内の遭遇場所が異なったりと細部で変化する。ついでに近隣の墓地に墓荒らしが出たことすらこの怪談に関連付けられているらしい。曰く、死者が墓を抜け出して云々。

 巷間こうかんに流布する噂などそんなものだろう。正確な情報なんてどれほど伝わっているのか怪しい。まして眉唾な心霊話なら尚更である。

 ウェスリーはさして興味があるわけではなかったので、兵達が時折始めるその怪奇話を聞く機会はあったが、次第に話自体忘れてしまっていた。


 午後からの巡回を事も無く済ませると、ミハルの憎んでやまない内勤の時間がやってくる。内勤の時間、つまり机上の仕事の時間である。

 ミハルは面倒臭がりだが体を動かすことは苦にならない。この上なく苦行に感じるのは書類仕事である。兵卒から下士官、士官と階級が昇るにつれて、任せられる仕事上の責務も大きくなり、その分提出しなければならない書類も増えるのだ。ミハルがこれ以上昇進したくない理由の一つである。

 やれ演習計画立案だ、その報告書だ、勤務割表作成だ、その決裁書だ……書類の文字一つ一つが自分を責め立てているような気さえする。

 ああ面倒臭い。

 魔法省所属の魔術士の中にはゴーレムなるものを使役する方法を知る者もいるらしい。書類に自分の代わりに署名するゴーレムとか作れないだろうか。作れるなら是非教えてほしい。

 大隊長に与えられる執務室の椅子に座り、ミハルはそんなことをうんうん唸りながら考えていた。この状況をウェスリーが見たならばお冠であろう。そんな無駄なことを考える暇があれば仕事をしろと。だが今ウェスリーは別の業務で離席中である。

 ゴーレムに何という名前を付けるかまで考えたところで、部屋の扉がこつこつと叩かれるのが聞こえる。机の上に両脚を上げた、およそ上品とは言えない体勢のままで返事をする。

「どうぞー」

 音も立てずに扉を開け、入ってきたのはホルスト少将である。

 ホルスト・シュヴァルツシルトはオチ第七師団の師団長を務める、褐色の肌、禿頭とくとうの厳めしい壮年の軍人だ。見上げるような長躯で、殆ど常に無表情だが目だけはぎょろりと大きく鋭い。

「師団長」

 ミハルは常から大きな目を更に大きく見開いてそっと脚を下ろした。ホルストは見ない振りをしたのだろうか、ミハルの振る舞いには触れずに机の手前まで歩を進める。ミハルは椅子から立ち上がり、彼の正面に敬礼の姿勢で直立する。全ての動作が、微妙に力が抜けているのはミハルの特徴であろう。彼を見てホルストも返礼を寄越す。

「ミハル大尉」

「ホルスト少将。お呼び頂ければこちらから向かいましたが」

「構わん。所用のついでだ」

 淡々とした低い声で言うホルストを、敬礼の姿勢を解いてミハルは見つめる。いつもホルストの眼光が過ぎるほどに鋭いので、ミハルは負けじと彼を直視するのがお決まりになっている。自然、二人は睨み合うような形になる。別にお互い怒ってはいない。

「何用でしょう」

 ミハルから尋ねる。

「……当節、ちまたに流れている妙な死霊の噂を聞いたことがあるか」

 ホルストは彼にしては珍しく歯切れの悪い調子で切り出した。ミハルは若干不思議に思いながらも返答する。

「存じません」

「主要街道沿い、クヴィエトの北東だ。脇道をやや入ったところに廃墟とも呼べる邸宅があるのだが、クヴィエト市民から要請が出ているらしい」

「何の」

「邸宅に巣食う死霊を退治せよとの」

「そら拝み屋の仕事では」

 ついつい砕けた言い振りになってしまう。ぎろりとホルストの目が鈍く光り、ミハルは肩を竦めた。こんな内容なら歯切れも悪くなって当然だ。

「それを我が班で対処せよ、と? 何故です、適任とは思わないし何より師団長が引き受けたのが謎です」

「適任か適任でないかは君が判断することではない。私とて好んで引き受けたわけではない、だがクヴィエト市長官たっての仰せなのだ。管轄内なのだからどうにかせよ、と」

「言うことを聞かねばならんのですか」

「聞け」

「うげ」

「ミハル」

「失礼致しました」

 ホルストは唇を固く引き結ぶと鼻から深く息を吐いた。数瞬の後、彼は感情のこもらない声音で続ける。

「君を指名したのは例の帝室直轄審議室の室長だ」

「相も変わらず」

「彼は君に霊的な力があると固く信じている」

「俺にあるのは筋力、体力だけですが」

「知っている。彼が何故そう信じ込むに至ったかは分からんが、問題はそう信じている者が室長のみに留まらない可能性があることだ」

 屈託を隠そうともせずにホルストは言う。

「どういうことですか」

「君を妙な目で見ているのは一人ではないということだ」

「なにそれ怖い」

 ミハルは両腕で自分を抱えるようにする。彼の白々しい動作を完全に黙殺すると、ホルストはミハルから視線を外し、右足を一歩引いて退室しようという意思を見せた。

「ともあれ第七師団としても君を失うわけにはいかない。明日目標地点へ向かい事実確認をしてもらうが、手に負えないようなら言え。政庁に丸投げすることにする」

 腕をぱっと開いてミハルはそのまま腰に手を置いた。

「丸投げできるなら最初から」

「君が一度でも動いたという事実さえあれば、ということだ。素振りすら見せずに丸投げはできん」

「了解です」

「詳細な座標等、資料はウェスリー准尉に渡るようにしておく」

 そう言うとホルストは引いた右足から踵を返し、来た時と同じように静かに扉を開けると部屋から出て行った。彼が退出して少し経ってから、ミハルはふーっと細く息を吐いた。

 左手で後頭部を意味無く掻くと呟く。

「……死霊とか冗談だろ」

 ドラゴンの方がましだ。

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