赤い目事件

森 久都

第1話 冬の或る日

 それは冬の或る日。リパロヴィナの深い森が新雪で覆われた朝のことである。

 オチ第七師団の各大隊が日朝点呼を終わらせた後、防寒着に身を包み雪中訓練の準備に勤しむ箒兵第二大隊隊員の内の一人が、早朝だというのに底抜けに明るい声で喋っている。

 クジマ軍曹である。

 ミハル班のムードメーカー、頭髪をつるりと剃り上げた頭の青々とした青年だ。

「だから山羊の乳っていうのは牛の乳より優秀なんだって! ちょっと賢くなっただろぉ」

 隣で眠そうにうんうん頷くのはユーリー。太くて濃い眉の吊り上がった、いかにも男性的な男である。今は目が半分閉じている。

「でもそんなに優秀ならよ、兵食に出しちゃくれねえかなぁ。俺あ牛の乳飲むと腹がどうもね」

 代わりに返すのはヴェンデル。髪の毛を洒落た風に横に流した伊達男だが、少し顔が縦に長い。クジマは返事を寄越したヴェンデルに向き直る。

「なんでよ、牛の乳美味いじゃん」

「いや美味いよ? でも腹がね」

「土石流? ヴェンデル土石流なの?」

「土石流ってなんだよ! ちょっと腹が下るだけだ」

「ヴェンデルのうんこは土石流! あっははは!」

「初等学校生か!」

「朝から元気だねお前らは……」

 もはや完全に瞼が塞がったユーリーがうんざりしたように口を挟む。

「てめえは何だユーリィー! 何年軍人やってんだこらあ! だらしねえんだよぉ!」

 何故かユーリーに当たりのきついクジマが怒鳴る。ユーリーはびくっと震えて目をぱっちり開いた。まあまあ、とヴェンデルが適当になだめていると、何やら話し込みながら三人の男が雪の積もる練兵場を歩いてくる。

 ミハル、ウェスリー、オットーの三人である。彼らは点呼後、士官のみで行われる軍議に参加してきたのだ。真面目くさった顔で話しているが、その実ミハルの好きな菓子の順位を下二人が聞き流しているだけだったりする。作業をするクジマらにもミハルの声が聞こえてきた。

「だからーそこのチーズケーキは山羊の乳から作ったチーズを使ってて……」

「たいちょおおぉ! 山羊の乳ぃ‼」

「あ? なんだよクジマびっくりさせんじゃねえよ」

「優秀な男だから! 流石っすわ!」

「意味が分かんねえ」

「土石流にならなくて済むしね!」

「クジマてめえぇ!」

 どさくさに紛れて土石流を定着させようとするクジマにヴェンデルが声を荒げる。ミハルは訳が分からん、と呟いて話を切り上げた。今から訓練の指示をしないといけないのだ。馬鹿みたいなことばかりやっているが一応大隊長である。訓練は実戦のつもりで死ぬ気でやる。ミハル流に言うと殺す気でやる、だ。

 ミハルはそのまま彼等のいる場所を通過して他の大隊員の作業する方へ歩いていく。

「皆さん、他の将兵の目もあるのであんまり大っぴらに私語をされますと……」

 ウェスリーがクジマやヴェンデルに近寄って行って言う。階級ではウェスリーが上だが、彼は未だに班員全員に丁寧な言葉遣いで話す。ミハル班所属では他の者が先輩になるから、ということらしいが、その割にはミハルにぞんざいな物言いをすることが多い。謎である。

「あっはは、悪ぃ悪ぃ」

「喋っちゃいるが準備はしっかり進めているぜ」

 クジマ、ヴェンデルは注意されても気にしない様子だ。ユーリーは真顔になって口をつぐむ。

 この間オットーはひたすら無言である。

 ウェスリーは溜息をついた。吐く息が白い。

「早く終わらせましょう。寒いんだし」

「でも巡回はもっと寒いぜウェス准尉ぃ」

 笑いながら言うクジマはあくまで楽しそうだ。


 一日の業務が一八〇〇に終了すると、食事の後は自由時間である。自由とは言え装備の点検・補修や特殊技能の学習など、しなければならないことは多々あるのだが、素早く済ませることができれば二二〇〇の消灯時間までは自由時間を満喫することもできる。

 その日の自由時間、ウェスリーはミハルとヴェンデルが何やらもそもそ話している姿を見つける。たまにちらちらウェスリーを窺うのは何故だろう。

 談話室に来たはいいものの、二人の様子に気持ち悪いものを感じたためウェスリーは自室に戻ろうと踵を返した。すぐにミハルが捉まえに来る。

「ウェス、お前暇だろ」

「暇じゃないです」

「暇じゃないなら何でここに来たんだよ」

「来たけどやることを思い出しました」

「嘘くさーい」

「黙れ」

 掴まれた腕をほどこうと身をよじる。しかしがっちりと掴まれているため中々ほどけずウェスリーは腹が立ってきた。

「何なんですか。ヴェンデル曹長も、なに笑って見てるんです」

「ウェスリー准尉ぃ」

 妙に粘着質な声音でウェスリーに呼びかけるとヴェンデルが二人のところへ近寄ってくる。にやにや笑いながら口髭を指で撫でつけている。

「今隊長と話してたんですがね」

「あ、聞きたくないです」

「今から花街に繰り出そうって」

「ぱっと行ってぱっと帰ってくる。お前も連れてくからな」

「はぁっ? はぁ⁉」

 二度見ならぬ二度聞きしてしまうウェスリー。ミハルは表情を変えず続ける。

「お前もいい加減その頑なに守ってる純潔捨てちまえよ」

「男が純潔守ってても別にいいことあるわけじゃなし。いい店知ってますからさ」

 ヴェンデルも後押しする。ウェスリーは顔面蒼白となり後ずさった。

「いや……俺は……」

「どんな子が好みで? お見受けするに清楚なお嬢さん系?」

「清楚なお嬢さんは花街で働かねえよ。いいんだよ好みなんて。どっちにしたって最初はそれどころじゃねえだろ」

「それって隊長が初めてはそれどころじゃぁなかったってことでいいんですよね?」

「初めてで余裕ぶれる奴なんていんの? お前だってそうだろ」

「俺あね、結構準備に準備を重ねましたからね」

「あーそれ独りよがりってやつだー」

「女は良かったって言ってました」

「女はみんなそう言うの」

「そら隊長相手なら女はみんなそう言いまさぁな」

 二人の会話が盛り上がっている内に立ち去りたい。立ち去りたいのだがミハルの握力が凄くて立ち去れないウェスリーである。青ざめたまませめてもの反抗をする。

「……俺はそういうことは好いた相手と」

「いるの? 好いた相手が」

「おぉ⁉ ウェスリー准尉のお相手気になるねぇ!」

 二人が目の色を変えてずいと顔を近付けてきて、ウェスリーはしまったと己の安易な発言を後悔した。今までの人生で惚れた相手などいない。顔が可愛いと思う女性ならいたが、何かしようと思うわけでもなくここまで来ている。

 だがもしかして、いると答えれば見逃してもらえるのだろうか。

「……だ、誰かは言いませんが、います」

 嘘をついてしまった。ミハルとヴェンデルは気色ばむ。

「じゃあなおさら童貞捨てとけ!」

「その子も童貞は御免だって言いまさぁ!」

「なんでそうなる‼ でかい声で言うな‼」

 ひとしきり揉めたが、結局ウェスリーは二人に引き摺られて花街へ足を踏み入れることになったのだった。


「たまにいるけどさ、あんたみたいなお客。こっちは楽で助かるけどそれでいいの?」

 小綺麗な娼館の広くはない個室に通されて、ウェスリーは部屋に入って以降備え付けられた椅子に座ったまま動かずにいた。

 ウェスリーとさほど年齢の違わないであろう娼婦は呆れた顔をして、寝台に腰かけている。少し痩せ過ぎかと思われる身体に、形ばかりの薄衣を纏った女は、今にも露わになりかねない乳房を隠そうともしない。

 膝に両手をついて顔を伏せたまま返事をする。

「俺は上官に無理矢理連れて来られただけで……」

「じゃあお代も払ってもらえるんじゃないの? 折角なんだから楽しんじゃえばいいのに」

「……俺はこういうところは向いてないと言うか」

「ああ、そういうこと。まあ商売女なんて嫌だよねえ、お上品そうだし」

「いや、その、別に貴女方を嫌悪しているというわけではなく……」

 俯いたまま変に焦って弁解を始めるウェスリーを見て女は笑い出した。

「あはは、嫌悪! もし“嫌悪”されてたって怒ったりしないよ。こういう仕事だしねぇ」

「いえ、だから」

「まあそんなに一生懸命になってくれてありがとね。なんか飲む?」

 軽やかに言うと寝台から立ち上がって、女は茶箪笥の前に蹲って中を覗き込む。酒の瓶や茶器が置かれているようだ。それを横目で見ながらウェスリーは言葉を返す。

「茶を頂きたいです」

「はーい。冷めたのしかないけどいいよねぇ」

「はい」

 女が茶器をかちゃかちゃ鳴らしながら用意する様をぼんやり見ながら、ウェスリーは虚しい心持になってくる。ウェスリーを強引にここに連れ込んだ二人は今、各々別の部屋でやることやっているのだろう。二人のそれを想像しそうになってウェスリーは軽く頭を振った。

「どしたの?」

「いえ……」

 問いながら盆に茶の入った器を載せて運んできた女は、ウェスリーの向かいに置かれた椅子に座ると茶を彼の目の前の茶卓に差し出した。頭を下げて受け取り、茶を口に含む。冷えた菩提樹茶だ。女が言う。

「もしかして童貞?」

「ぐふっ」

 茶が喉の奥の変なところに入った。顔を真っ赤にしてむせるウェスリーを、んふふっと含み笑いしながら見つめる女は、自分も茶をすすって心地良さそうに飲み干した。

「はーっ。暖房効いた部屋にいるとお茶がおいしいね―」

「げほ、えほ、うぅ」

「だいじょぶ? ゆっくり息しなー」

「はい……」

 ようやく呼吸が落ち着いてくる。ウェスリーは泣きたい気持である。何故今日はこんなにも自分の心中のやわなところを突かれまくらねばならないのか。好きで守ってきたわけではない純潔である。無理に捨てたいとも思わないが捨てられるものなら捨てたい。

 そんなウェスリーの胸中など知る由もない女は茶卓に片肘を突くと身を乗り出す。

「なんもしないんなら何かお話する? 悩み事とかある? 好きな子いないの?」

 ぐいぐい来る。

 ウェスリーはたじろいでしまう。先程から気になっていたが、何だかこのふわふわしつつも押しの強い感じ、誰かに似ている。

「……俺は面白い話はできないです」

「そう? 別に面白くなくても普通の悩み事とか、上司のむかつくとことか。ここは出すもん出してすっきりするところなんだからさぁ」

「出すもん……いや大丈夫です」

 上司のむかつくところ、と言われてミハルの顔が思い浮かんだが人に愚痴を言うような不満は無い。というか不満は本人に言っている。黙り込むウェスリーには構わず女は自ら話し出した。

「上官ってさっき一緒にいた人なんでしょ? あの人よく来るよねぇ」

 そんなに来てるのかあいつ。

「すっごい女の子口説くの。お店以外でも付き合おうよ、とか」

 マジかよミハル。

「でも接客した子は優しくしてもらえた、って言ってたなー」

 何だろうあんまり知りたくないそういうの。

「ちょっと顔長いけど割とイケてるしねー」

 うんうん顔長い……ってそうか。今までの話全部ヴェンデル曹長の話か。

 何故かがっくり来てウェスリーは頭を垂れた。年齢的には確かにヴェンデルが上官と判断するのが普通なんだろうから女の勘違いも止む無しか、と彼は思う。敢えて訂正する気も無い。気力が無い。

「……貴女の面白いと思う話をして頂けると俺は助かります」

 俯いたままで懇願するようにウェスリーは言う。

「あたしの? 頭悪いしあんたが気に入るような話しできるかなー」

「何でもいいですよ」

 時間が過ぎさえすれば。

「そう? うーん、じゃあ怖い話してあげようか」

 真顔になって女は話し始めた。

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