第21話 蛹から這い出た後
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逸脱は悪なのか?
図書館の『箱男』の本に挟まれていた手紙で、おれは箱女にそう問われた。
迷わず、「違う」と心で呟いた。
誰しもにそれぞれ自由があって、逸脱をおそれる大人は、自分の失敗やみじめさを受け入れられず子どもに嫉妬しているのだ。そう感じた。
だけど、水無月がいじめられたことをきっかけに、逸脱することの恐怖と、足並みをそろえることの快楽を一瞬知ってしまったのだ。
水無月の祖父の画・『享楽』を思い出す。
蛹から孵ったいきものは、月を――夢に見る世界を目指す。それは叶わず、海に映った月へと墜落する。
ある意味では失敗に思えるだろう。
しかし、水に映った偽りの月を、「本物の月だ」と互いに言い聞かせ、そう思い込んだまま溺れ死ぬことができるなら、月に到達したことと同じことになるんじゃないか?
箱女と世界を捨てるという理想より、海に映った月のような、それなりの生活で満足するべきなんじゃないだろうか?
その揺らぎを、完全に乗り越えられたわけじゃない。
ただ箱女に会いたい欲求だけが、おれを動かすんだ。
優しい本じゃない。感動的な本じゃ駄目だ。
おれが求めていたのは安心なんかじゃない。
『箱男』が箱女と引きあわせてくれた。
波に映った月なんか、波一つでなくなっちまう。
人間は満たされていても、また餓える。半端な幸せじゃまた乾く。
昨日、箱女を裏切ってしまったことを思い出し、胸がきつく痛む。
だけど彼女を哀しませたくない。二人でもう一度やり直す。
水飲み鳥のように生きるおれには、心を満たしてくれるぶっとんだ毎日が必要だ。
おれをここじゃない世界へと連れていってくれる。
そう、箱女だ!
31
遠くから消防車のサイレンが聞こえる。橋から島を見下ろすと、ミニチュアみたいな消防車たちが、おれの家へと向かって行った。
箱越しではあまりに鈍く感じられ、別の世界の出来事みたいだった。
虹の橋の手すりに立つ。
おれはズボンのチャックを下ろす。
月を見上げる。
そして、海に向かって小便をする。
とん、とん。
箱が、ノックされる。おれは振り向く。
水無月が立っていた。
箱女は、水無月かもしれない。
何度、葛藤しただろう。何度、そうじゃなければと願っただろう。
だけど、もうどうでもよかった。
昨日、箱女との約束を破ってしまった。
兄貴のせいなんかじゃない。おれが迷っていたから、あんな風になってしまったんだ。
まだ状況を理解していない水無月が、おれを見つめた。
彼女の眼に、おれは箱男として映っているだろうか?
「きみは……似鳥くん。なんだよね」
水無月は、おれと反対側の手すりに立った。彼女のすぐ後ろでは、車が橋の外をめがけて猛スピードで走り去っていく。
「水無月。いや、箱女。お前の正体なんかどうだっていいんだ。おれと……」
「勘違いしないでね。さよならを言いにきただけだから」
「……」
「私はもう、どこにも居場所がない。そして、箱女としても生きていけない」
「……箱男の正体が、似鳥洋平だから?」
「そう。お互い正体がわかっちゃったんだもん。箱女の正体は、きみが大嫌いな私。箱男の正体は、私が嫌いな……いや、嫌いですらないくらいどうでもいい、似鳥くん。唯一の希望は灰色になったんだよ。私にはもう、偽りの望みすらないんだ」
「……」
「箱男の正体が、よりによってきみなんてね」
水無月は深く息をついた。
「私はね、最初は大好きだったおじいちゃんへの罪滅ぼしに箱女になった。おじいちゃんが望まない、護見島のあり方を具現化したような人間であったことへの償い」
「……」
「だから、そんな自分を捨てたくて箱女になった。でもね、違うんだよ。あの人と出会ってからは本当に生きている理由が見つかった気がして……」
「あの人? そんな言い方しないでくれ。お前の目の前にいるだろ!」
「違う! 箱男が、似鳥くんなんて……」
彼女は目を瞑った。
背から車道に落ちるように、ゆっくりと後ろに倒れていく……!
水無月を一瞬で轢き殺せる、車の波へ、落ちていこうとしている。
「死ぬな! 死んだら……諦めたらどうにもならねぇだろ!」
おれは水無月の手を掴んだ。
箱女と同じ、青白く、頼りなく、美しい指先。
命が助かったことにようやく気付いたのか、水無月は呆然とした顔から急変し、おれに強く迫った。
水無月が、初めてむきだしの感情を見せた瞬間だった。
「憧れて、この人になら人生捧げてもいいって思った人が似鳥くんだったんだよ!? わかるはずでしょ! 箱女の正体が私だってわかって、きみだってがっかりしたでしょ!」
「箱女の正体が水無月なわけないって、思ってた。それだけは絶対に受け入れられないって、ずっと」
「どうして、箱男が似鳥くんなんだろう。箱女が私なんだろう。お互い最悪だね」
水無月は哀しく笑った。
「おれも最悪だって、思ってた。でも、それは違うんだよ」
「……?」
水無月はどこまでも無垢な、不思議そうな顔をした。
「箱女として過ごす水無月は虚構で、学校の水無月が本性だと思ってしまった。でも、おれが好きだと思った箱女には、水無月リコという顔もあった、というだけだったんだよ。箱女は今、おれの目の前にいる」
「私にもそう思えっていうの? 似鳥くんのことも含めて好きになれって?」
「心配いらない。似鳥洋平は、もう死んだんだ」
「……どういうこと」
水無月の声が張り詰める。
「あそこで燃えている家があるだろう。あれは、おれの家だった場所だ」
「……まさか! どうしてそこまでしたの!!」
「決めたんだ。似鳥洋平を捨て、箱男になって……おれを救ってくれたお前を、すべてから護るために生きるって。この島の大人、クラスメイト、外の世界のやつら。そして……お前の中から生まれるかなしさの、すべてから」
ドラマでも浮くような、都合のいいセリフ。
でも、おれの本音だった。
もう戻る場所はない。
箱女のために生きることしか、おれがいる意味なんかなかった。
おれは『箱男』の文庫本を開く。64ページ。空で言えるけど、本を開いて言うという儀式だ。
“もっとも、箱男という人間の蛹から、
どんな生き物が這い出してくるのやら、
ぼくにだってさっぱり分らない。”
それ以上の説明なんか何もせず、小さく、でもはっきり、あの約束の一節を読み上げた。
彼女にとって、今必要なのは。
おれが箱男としてここにいることじゃないだろうか。
これからどうなっていくかなんか、おれにもわからない。
箱男でいる限りは、未来を見据え、生きていこうと思えた。
おれは彼女に段ボール箱を手渡した。
――ありがとう。
彼女の口がそう動いたように見えた。
彼女が箱をそっと被ろうとして俯いた瞬間、月みたいに美しい瞳から、一筋の涙をこぼしたように見えた。
果たして、彼女におれの想いがどれくらい届いたのだろうか。
これからずっと一緒に生きていくという決意はおれだけの中にあり、彼女はただ、こちらの気持ちをある程度受け止めてくれただけなのかもしれない。
誰にも頼れず孤独になり、手を差し伸べてくれるのなら誰だっていいと思ったのかもしれない。
通じ合えてはいない。結局は傷のなめ合いだと思うだろう。
そんなことはどうだっていい。だって、再び箱女になってくれたから。
おめでとう。
彼女の「ありがとう」という言葉に対し、箱女の手紙に倣い、そう返そうかと思ったが、やめておこう。
そのかわり、おれは本を海に投げ捨てた。
小便が流れていった海へと。
水無月もそれに倣って海へと本を投げた。おれたちはその瞬間、蛹から完全に羽化したのだ。
……おれは一体、何になったんだろう?
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