第22話 箱男と箱女(なんちゃって)

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 箱女を後ろに乗せ、痛む足の指の感覚なんかぶっ飛んじまえと、うんと強くペダルを漕いだ。

 橋の手すりの向こうで車の排気音が響く。錆ついたチェーンが呻く。

 それだけ。

 おれと彼女の間に言葉はいらなかった。

 だって、この世界にはおれたち二人きりしか、いないみたいだったから。

 ただ月を目指して、自転車を漕いでいくだけだ。

 橋の向こう側に着き、エレベーターを降りた。

 ついに、生まれて初めて護見島を脱出したのだ。

 どうしようもなく、呆気ない。高揚感で足元がふわふわとする。

 目の前には、おれが憧れていた、護見島の外の世界が広がっていた。

 海岸沿いに柵があるが、どれも錆びついていて頼りない。

 橋下には、宿なしの小汚い住処があった。

 街を振り返ると、島の中と同じように無表情な建物が並び、ただ、静まりかえっている。

 一つだけ違うのは、おれと箱女を知っている人間は誰もいないということだ。

 大人の監視の目から、ようやく逃げ出すことができた。

 自転車を漕いでいたのはごく短い時間。たったそれだけの距離だった。

 今まであそこを出ることができなかったのが、不思議に思えるくらいだった。

「まずは人目につかない場所を探そう。大きな公園か、海岸沿いにある無人の船なんかあったら、そこに潜むって手もあるな」

 箱女は頷く。

 おれは、どうしようもなく幸せな気分になって、彼女の手を取った。

――その瞬間。

 頭の右半分が、ひしゃげたような音がした。

 実際は、箱が外からの打撃で潰れたのだ。

 倒れそうになったところをどうにか振り返り、正体のわからない敵に身構える。

 クソ、どうしてこうもおれらは許されない?

 おれだって、お前らと同じ、ただここにいるだけなんだよ。

「というわけで、今日の生放送は『箱男狩ってみた!』、なんちゃって」

 おれを攻撃したのは、片手に金属バットを握っている男。

 その男は。

 段ボール箱を被っていた。

 箱男?

 その隣には、スマホをこちらに向けて撮影している女。同じく、箱を被っている。

 

 

 いや、こいつらとおれらは違う。こっちはただの思いつきや真似ごとじゃない。

 覚悟が違うんだよ。

「あっは、こりゃ再生数かなりイきますね、なんちゃって」

「イマドキなんちゃってはないだろう、なんちゃって」

 男は、今度はおれの隣の箱女にバットを振り下ろす。

 箱の角に当たり、頭には当たってないようだが、かなりの衝撃を受け、地面に伏す。

「やめろ!」

 おれがバットを持つ男に飛びかかろうとすると、もう一人男が出てきて、今度はおれの脇腹に直接何かを押しつける。

 熱い。なんだよ、これ。

「やめないよ、なんちゃって」と、男。

「なんちゃってね」と、女。

 二人とも、まったく声に抑揚がない。

「くそ、なんなんだよお前ら……!」

 おれは叫ぶが、声は切れ切れになっていく。刺された腹が熱くて、指先がねばねばする。

 箱女は男に羽交い絞めにされ、もう一人の男が、箱女の足を持つ。

 二人で箱女を振り子のように揺らし、海へと投げ込んだ。

「俺達、なんちゃって団だよ、なんちゃって」


 なんちゃってなんちゃってなんちゃってなんちゃってなんちゃってなんちゃってなんちゃ。


 おれは箱女を助けに海に飛び込む。

 水を吸って、体が重くて冷たい。箱に浮力があり、かろうじて肩から上は浮き上がっている。

 おれは箱女の方に向かって泳ぐが、腕がうまく使えず、前に進まない。

 箱女は意識がはっきりあるようで、こちらに向かって力強く頷いた。

「大丈夫か!」

 おれは振り返る。さっきまでの男はこちらを窺っていた。

 いつまでもこうして浮かんでいるわけにもいかない。

 箱男として生きていくなんて、無理だったのか?

 いや、今更何言ってるんだよ!

 家にも学校にも戻れない。

「絶対、あいつらをやっつける。お前を護る! 大丈夫だ、大丈夫だ……!」

 おれは箱女の手を両手で強く握り、やつらを睨みつける。

 言葉を失った。

 そこにいるのは、箱を被った男ども。女も混ざっている。

 さっきの三人組どころじゃない。

 ただ、十人、二十人、いやもっと……?

 海沿いの段差に、ひしめくように「箱男」が立っているのだ!

 見知らぬ大量の箱男が、おれを観察している。

 おれと、その中の一人の目があう。

「いいもん見せてもらった。いよっ、若いね、なんちゃって」

 男は言った。そんなはずないのに、それは兄貴かもしれない、と思った。

 確証はどこにもなかった。

 男らはこう続けた。


「でも飽きちゃったな。?」


、じゃね?」


 箱男は、次々に箱を脱いでいく。

 そして、箱を海に向かって投げた。

 ただゴミを捨てるように。

 おれが人生をかけて飛び出してきたこの一連も、全て「若気のイタリ」なんてよくある一言でまとめられちまうってことなのか?

 よりにもよって、こんな会ったこともない、誰かもわからないやつにおれの人生はくじかれちまうのか?

「やめてくれ!」

 簡単に箱を投げ捨てないでくれ。

 箱男であること自体、無意味だってことかよ!

 男たちは半ニヤけで箱を投げ捨て、携帯電話をいじり始める。

 探しているのだ。

 箱男にかわる、暇つぶしを……!

「くそ、やめろ、やめろよぉぉぉぉ!」

 海には月が映っている。

 水面に、おれと箱女を含め、幾多もの段ボール箱が浮かぶ。

 まるで一生、空に浮かぶ月――本当に目指している場所にいくことはできないのだと、嘲笑うようだった。

 兄貴は、今のおれを笑っているだろうか?

 特別だと思っている失敗でさえ、ありふれた失敗の一つに過ぎないのだ、と。

「……」

 違う。

 これじゃあ、箱男になる前のおれと同じだ。

 おれには箱女がいる。四の五の言わず、箱女と生きていくしかないんだ。

 浮かんだ箱の中には、誰ひとり人間が入っていない。

 海岸にいたはずのやつらは、気付いたらもういなくなっている。

 大量の空箱が海に浮かんでいる。海に浸かっているはずなのに、妙に体が熱い。

 燃えるように、頭の芯まで熱くなる。

 どこまでがおれの幻なのか?

 目の前にいる箱女は?


 私も、空き箱だと思う?


 箱女の声は泡につつまれたようにぼんやりとしていた。

「そんなはず、ねぇだろ! 証明してやる!」

 おれは、箱女の……水無月の壊れた箱にそっと手をかけ、上に脱がそうとする。

 箱女は首を振り、自ら段ボールのはげた部分を、指ではがした。

 ラブホテルの覗きを二人でしていたときのことを思い出した。


「ね、してる最中、段ボールの穴から指突っ込んで、表面をゆっくりはがしていってよ。いやらしくじらして、服を脱がすみたいに……」


 箱女は、そう言っていた。

 おれは、彼女が被る、濡れた段ボールの端を爪でひっかいた。

 箱女はくすぐったそうに笑った。

 濡れてもろくなった段ボールは、彼女を強く守る鎧にはならない。

 本当に、中にいるのは水無月なのか?

 箱女が快感の叫びをあげる。

『享楽』?

 くだらねぇよ。あんなのただの絵だ。

 彼女の声はおれの元までうまく届かず、掻き消される。

 海鳥が空を、月を暗く覆い隠すように飛び回り、濁った声で、啼き続けているのだ。

 うるさい。うるさい。静かにしてくれ!

――なんちゃって、ね。

 と、箱女が呟いた、そんな気がした。

 あの鳥の群れみたいに、誰もかれもが似た者同士で、本当は、いてもいなくてもいい存在なのかもしれない。

 特別に感じていたすべては、凡庸なものだったのかもしれない。

 おれだけは特別な存在だって、夢を見させてくれ。

 願ってみても、鳥には言葉が通じないんだ。

 もしかしたら箱女の中身も、さっきのおめでたい観察者たちも、中身なんて入っていないのかもしれない。

 おれは、自らが被っている箱に手をかけ――。

 そうか。

 おれも、か。

 海鳥が飛び去る。

 姿も、鳴き声も、すべてが似通っている。

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