第20話 さようなら
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焦って帰ってきた箱男姿のおれを見ると、兄貴は冗談めかしてため息をついた。
相変わらず女にしか見えない。
医務室の外に、津田響を待たせてある。「お前に会わせる前に兄貴と少しだけ話がしたい」と告げると、津田響は「いいでしょう」と短く答え、大人しく立ち止まった。ずいぶんあっさりと許しが出て、面食らった。
おれにとって、これが最後の兄貴との時間だということを感じ取ってのことだったのだろうか。
兄貴はおれの元に歩み寄り、箱をそっと撫でた。ガキの頃、頭を撫でてくれたみたいに。
「洋平って、そういうプレイが好きなんだな? お兄ちゃん、応えてあげられる自信ないぞー」
「おれ、やっぱり箱男になる。これで、さよならだ」
彼はヘラヘラした表情のまま、「今度は、足の指じゃすまなくなるぞ」と言った。
「兄貴はずっとここにいるつもりなのか? 津田響が今、どうなってるか知ってるか?」
「なんで、響のことを」
兄貴に明らかな動揺が見られた。
「津田響が水無月にいじめをしているんだ。黒板消しを顔に押し付けたり、脚を嘗めさせたり……」
「!」
「いいのかよ」
「響がそう望むなら、それでいい」
「あいつは本当にあんなことを望んでいるのか? このままじゃ、津田響の人生はぐちゃぐちゃになっちまう。そうは思わないのかよ!」
「……」
「兄貴は逃げてるよ。ここは居心地がいい。兄貴はあいつに手を差し伸べるだけ差し伸べておいて、困ったら耳を塞いで隠居気取りか」
挑発しているわけじゃない。
ただ、兄貴に奮い立って欲しかった。憧れていた兄貴に戻ってほしい。
それがたとえ、身勝手だとしても。
「おれは本当に兄貴が好きだ。だからもう、逃げていて欲しくない。津田響のために自首するんでもいいよ。あいつと逃避行だっていいさ。でも、ここにいたってどうしようもないだろ」
「洋平にはわからないんだ。白か黒か、是か非か、どっちかに決めればいいってもんじゃないんだよ。ただ今は、響に会わない方がいいって思っている」
「津田響が、兄貴に会うために来ていると言ってもか?」
「!」
おれの言葉を聞くなり、兄貴はすぐに出口に走った。
津田響が入ってきた。二人は言葉を探し、見つめ合う。先に口を開いたのは兄貴だった。
「出ていってくれ。響」
「兄貴、何言ってんだよ!」
「姫子ちゃん? あたしのこと、もう嫌いになっちゃいました? あたしが嫌な子だから」
津田響は、見せたこともない怯えた顔を浮かべた。
「これ以上僕といると響の人生がメチャクチャになる。僕だってどうしたらいいかわからないんだよ、放っておいてくれ!」
兄貴はまるで、蛹からかえるのを拒む蝶みたいだった。
もしかしたら、自分は美しい蝶にはなれていないかもしれない。そんな不安から逃げ、醜い現実を先延ばしするように。
おれは布団のシーツを掴んだまま、ずるずると引きずりおろした。二人はそれを訝しげに見つめていた。
「覚悟があるかって、兄貴は言ってたよな?」
おれが懐から出したものを見て、兄貴が表情を一気に厳しくする。
海岸沿いの公園で箱女から手渡された、打ち上げ花火を握っていた。
勇気を振り絞ったおれの、ちっぽけな勲章。
「出ていくのは兄貴の方だ」
「どうするつもりだ?」
「この小屋を燃やす。そうしたらもう兄貴はいる場所がないし、おれだって戻る場所がなくなるからな」
「退路を断つのはそりゃ大層ロマンチックさ。でもね、リスクとリターンがつりあってないと思わないか、洋平。無意味だよ、はっきり言って」
「おれは本気だ。邪魔するなら、おれの人生からもう出ていってくれ!」
さようなら、親父。
さようなら、兄貴。
さようなら、ジャック。
さようなら、訪れるかもしれなかった、温くて優しい毎日。
ライターを点火しようとする。指先が震えて、なかなか火がつかない。
「イカれてますよ、似鳥君」
「世界がイカれてるんだから仕方ねぇだろ」
「ここに姫子ちゃんがいるとわかっただけで、あたしは充分です。姫子ちゃんが落ち着くまで、あたしはいくらでも待つんで」
「そんな悠長なこと言ってていいのか? いつまでお前に興味があるかわからないんだぞ」
「あたしにだってわかりません。でも、姫子ちゃんの言うとおりですよ、退路を断つなんて意味がない」
「うるせぇ! いいか、死にたくなかったら出ていけ。ここはおれの部屋だ! 兄貴、こんなとこで人生過ごすのだけはやめてくれよ!」
箱の中から兄貴を見る。カラーフィルムがなくても、黄色く見えた。こんなおんぼろの箱でも箱男になれる。おれは芯から、箱男になっている。
観察者?
もう、そんなことはわからないし、どうだっていい。
花火の先に火をつける。
打ち上げ花火はすぐに火花を吐き、鋭い音を立て飛んでいく。
兄貴の頬をかすめ、棚のガラスを割る。津田響だけが声を上げ、おれと兄貴は言葉を発しなかった。
布団のシーツに火の粉が移った。部屋が熱く燃え始めている。
箱男になったその日、ラブホテルの部屋で火が回ってきたとき。
あのまま人生を終え、箱男として死ねるなら本望だと思った。
でも、今は違う。死ぬわけにはいかない。
まだ始まってもいないんだから。
「お前……本当に洋平か?」
兄貴はおれを歪んだ顔で見つめた。
暴力的な炎の輝きは、兄貴を恐ろしいほど美しく見せた。
「何言ってんだ」
空気がちりちりと燃え、頭がぼうっと熱くなる。意識が遠のく。
おれの想い出が記憶の奥の方から燃え尽き、灰になっていくようだ。
「洋平?」
「違う。似鳥洋平は死んだ」
「洋平!」
「おれは、箱男」
屋根が落ち、おれと兄貴の間に降ってくる。
もう二人の人生は交わらない。がれきの向こうから、津田響の叫び声が聞こえた。
空を見上げた。
記憶の中にある景色が焼け野原になり、自分が誰だかさえ、わからなくなろうとも。
煌々と輝く月の明るさだけは、確かだった。
おれは蛹から羽化し、月に向かってはばたいてゆく……。
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