第18話 雑音

「似鳥君。言ったでしょ、何をしても、あたしが許してあげるって」

 おれと津田響に向けられる、笑い声。

 笑い声。笑い声。笑い声。

 下卑た好奇心。

 無責任な拍手。

 偽善的な祝福。

 無関心。

 あとは、あとは……?

 箱を被っていても、いなくても、みんな根っこは同じだ。

 大人も中学生もなにも変わらない。

 安全な場所から、コソコソと観察しているのだ。

「似鳥君には水無月を裁く権利がある。みんなもそうは思いませんか?」

 津田響の問いかけに、教室は拍手で包まれた。

「何言ってんだよ、おれはそんなことがしたいわけじゃない!」

「へぇ、じゃあなんですか?」

 津田響の声は、どこまでも冷たい。

「水無月がいじめをやめるならそれでいいって!」

「私、別にやめるって言ってないけど」

 水無月は明らかに反抗的な目つきをした。

「黙っててください」

 津田響が再び水無月の頬をはたく。明らかな上下関係をにおわせた、服従を強いる暴力だった。

「水無月、こんなこと言ってますよ? 許すって言うんですか?」

「許すとか、許さないとかじゃないんだよ!」

「何を言ってるんですか。許すか許さないか、それが問題でしょ?」

「……」

「水無月を許すんですか? もういいよ、水に流そうぜ、って?」

 答えることができなかった。

 嘘でも、「許す」とは口にできなかった。

 水無月をいじめたいとは思わない。

 だけど、許すこともできなかった。

 おれだって同じだ。

 手を汚さず、水無月が痛い目に遭えばいい、と思ってしまった。

 箱女が水無月だとして――彼女を受け入れることが、本当にできるんだろうか?

 水無月を見ていても憎しみしか生まれない。

 津田響はため息をつき、じれったそうにおれを水無月の前から押しのけた。

「もういいです。役に立たないですね、似鳥君は」

 津田響は手に黒板消しを持っていた。それを振りかぶると、水無月の顔に押し当てた。

「どうしていじめなんかしたんですか?」

「……」

「答えてください」

 無言の水無月に、再び黒板消しを押しつける。

 白煙が上がり、水無月は激しくむせ、涙声で嗚咽をしていた。

「……誰かが、目立つのは、よくないって思ったから」

「はい?」

 津田響は過剰に語尾を上げた。

「まるでこの島の大人みたいですね。突出することは、そんなにいけないことですか? それは才能を与えられた人間や、努力を続けた人間の特権では?」

 津田響はその美しく長い脚を水無月の机に乗せた。

「それに、そんなモグラたたきみたいなことをしている水無月さんが、本当は一番おかしいんじゃないですか? 違います? 自分でもわかっているんじゃないですか?」

「だから、私は」

 水無月は、言葉を振り絞る。

 だから、私は?

 水無月は臆病で、弱者を作って安堵することでしか自分を保てず……でも、そんな自分が嫌で仕方なくて。

 ……逸脱を嫌う、自分とは真逆の存在である箱女になった?

 おれの深読みだろうか。

「ま、理由なんてどうだっていいですけどね」

 ドン、と津田響が机の上に乗り、あぐらをかく。

 上履きと靴下を脱ぎ、水無月の顔に向かって脚を伸ばす。

「嘗めて下さい」

「……」

「嘗めても許さないですけど、嘗めて下さい。特に、膝のあたりが気持ちいんで」

 津田響は水無月の髪を無造作に掴んだ。

 水無月は何も言わず、津田響の膝に舌を伸ばした。

 抵抗を諦めたことは明らかだった。

 おれと同じ、抵抗より服従が得策だと、弱い自分を正当化するルサンチマンに溺れて。

 くちゅ、くちゅ、と水音がやたらとうるさく、津田響の短いかすれた声が混ざった。

 水無月の取り巻き立った女子をはじめとし、別の女子もそこから目を背けるふりをして、しっかりとその官能を見つめていた。

 水無月を逃そうとはしない、観察者。

 掌を返した共犯者ども。

「先生にチクったら、どうなるかわかってますよね? あなたが今まであたしや、似鳥君にやったことをバラします」

 水無月は何も言わない。ただ、嘗め続ける。

「選択肢は一つ、ですね?」

 津田響は、口元だけを動かして笑った。

 クラスメイトの中で、彼女を止める者はいなかった。

 にむせ、苦しそうに皆、頷いた。

 みんな思い思いに喋り出す。視界に入っているはずなのに、上手に無視をする。

 おれは呆然と立ちつくしていた。後ろから引っ張られ、よろけて着席する。

 引っ張ったのはSだった。

 おれをニヤニヤと見つめ、「津田とそういう関係だったわけ?」とからかうように笑った。侮蔑は感じ取れなかった。

 むしろ、「あんなイザコザに巻き込まれて大変だったな」という労いさえ見えた。

 Sは水無月のことなどまったく目にも留めず、「似鳥さ、こないだ見せた動画のやつやらね?」とおれにピンポン球を握らせ、机の上にある二つの紙コップを指さす。

「それどころじゃないだろ!」

 おれは思わず大声を上げる。Sは不思議そうにした。

――助けてやってるのに、どうしてわざわざ巻き込まれに行こうとするんだよ、と。

「予行練習すんぞー! ほれ、似鳥、ワンバンな」

 Sはおれの腕を無理やり取って、一つ前の机の上に向かって二球のピンポン球を投げさせる。球はワンバウンドして、両方が綺麗に紙コップに収まった。

「マジかよ、一発じゃん! あー、もうカメラ回しとけばよかったな!」

 Sだけじゃなく、他の男子もおれに笑いかけた。

 ようこそ。お前も、こっち側の住人観察者だ。

 そう手を差し伸べ得られているように見えた。

 Sは笑いかける。

 まるで、おれが友だちであるかのように。誰かを救い、満足した顔だ。

 掌返しに腹が立つはずなのに、同時に強い安心感を覚えてしまった。

 ここは動物園の檻の外のようだ。

 柵の向こうに余計な手出しをしなければ。

 安全に、笑っていられる。

 家に帰ったら兄貴がいて、「箱女のことを諦めた」と言えば、きっと笑いかけてくれて。

 おれは親父の願う通り医者になる。

 そうすれば、おれをずっと包んでいてくれた医務室で、幸せに暮らすことができるんじゃないだろうか?

 この状況をどうにかしなくてはいけないのに、おれ自身の囁きが、ずっとずっと脳内で反響する。水無月を救う気持ち、箱男になる決意が揺らいでいく。

 かち。

 教室のスイッチを切る音。

 突如、教室が暗くなった。黒板前に、シアター用の幕がゆっくりと降りてくる。おれは生ぬるい想像の世界からどうにか抜け出し、モニターを見た。

 モニターには、動画投稿サイトの映像が映し出された。

 タイトルは――。

『放火の犯人は箱女だった件』

 言葉を失った。

 その映像は、ラブホテルの裏口、おれと箱女が覗きをしているところだった。

「……!」

 水無月は立ち上がる。

 薄い暗闇の中、津田響と水無月の取り巻きだった女子の一人が水無月の頭を強引に掴んで座らせた。無理やり映像を見せつけようとしているのだ。

「ここまでやる必要があるか!?」

 おれはたまらず割って入り、声を嗄らす。

「どうして似鳥くんが興奮してるの? 助けられないんだったらどっか行ってくれない?」

 水無月は冷たく呟いた。

 そうだ。今のおれはただの似鳥洋平だ。水無月にとって何の意味もない存在。

 彼女のためにできる最善は放っておくこと。津田響が飽きるまでいじめに耐え抜くしかない。

 誰もがそんな風に思った。

 おれだって、そう思った。

 今、津田響に逆らうことは、水無月にとってマイナスになるから。

 ……だけど、そんなもっともらしい理屈は誰も救わないことはおれ自身がよくわかっている。実際おれは、助けてほしくてたまらなかったから。

 水無月はどうして、「私は箱女なんかじゃない」と言わないんだ?

「おい、水無月も箱女じゃないんだったらはっきりそう言えばいいだろ!」

 すると、水無月は笑った。見たこともないような、どこまでも切なく優しい笑みだった。

「私は、あの人だけは裏切りたくないから」

「!」

 おれはその一言で、確信する。

――箱女の正体は、水無月だ。

 箱女の正体が水無月であることに怯えていたのを恥じた。

 おれにとって、水無月が許せないやつだということは今でも変わらない。

 だけど、箱女が水無月と同一人物であるからといって、水無月の方の人格が本性だとなぜ決め付けてしまったのだろう?

 箱女が水無月として振舞っているだけで、箱女はおれにとっては箱女でしかないのだ。

 絶望の淵に立たされたおれが箱女を求めたように、今こそ水無月――いや、箱女は箱男をより強く求めているはずだ。

 箱女がおれを求めている。

 ……やるべきことは、一つしかないだろ?

 箱女にもう一度会って、話がしたい。

 そのためにはどうしたらいい?

 おれは教室を飛び出ていた。呼びとめる声がしたが雑音にしか聞こえない。

 校舎裏のゴミ焼却場に走った。

 おれは教階段を二段飛ばしで駆け降りる。

 下駄箱正面の裏口を出てすぐの、焼却炉へ向かっていた。

 ゴミにまぎれ、紐で括られた段ボール箱があった。

 ビニール紐を無理やりちぎろうとする。

 指に喰い込んで強い痛みが走る。そんなことは気にならない。

 乱暴に紐をはぎとり、血で滲んだ手で箱を組み立てる。

 おれは急いでそれを被った。もう、「箱」の出来など構うものか。

 内側から、指で目元に穴を開ける。

 光が射す。

 おれは箱男。

 丹精込めて作った箱じゃない。それでもいい。

 上がパカパカと開く。それでもいい。

 おれは急いで教室へと駆けた。息が切れる。それでも足は止まるどころか、今までにないくらい速く走れそうだ。怪我をしていることなど忘れてしまいそうなくらい。

 教室前の廊下にいたSのグループがおれに気付き、驚きと、歓喜の声を上げていた。

 近づくものは誰もいない。

 腐った世界の教育が、順調にしみわたっている証拠だ。

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