第17話 革命
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兄貴と別れ、学校に向かった。雨は止み、雲の隙間からは陽光が漏れていた。
おれが教室に入ると、教室がひそひそとざわつく。そういえば、おれは誘拐されたことになっていたのだ。
とはいえ、日頃話もしないおれに、わざわざ近寄って来る奴もいなかった。
まぁいい。
それより、何かがおかしい。
教室に入っても息苦しくないのだ。
水無月はぽつんと席に座っている。
いつもとは、まるで景色が違った。彼女の周りにいつもいた取り巻きがいないのだ。
クラスメイトはそれぞれ別の誰かと話をしているが、水無月には誰も話しかけようとはしない。
彼女はつまらなさそうに外を見ているだけ。こんな表情を見るのは初めてだった。
いつだって、人を見下し、蔑むいやらしい笑みを浮かべていたから。
彼女はおれに気付いたようだが、やはりつまらなさそうにするだけ。いじめるどころか、興味を示しさえしなかった。
一体、どう切りだしたらいいだろう?
「おはようございます」
誰に言うでもなく挨拶をし、教室に入ってきたのは津田響だった。
視線が一気に津田響の方へと集まる。彼女が学校に来たのは久しぶりだった。そのまま、水無月の方へと歩いていった。
教室に緊張が走る。ついこないだまでは、彼女は水無月に一方的に虐げられていたのだ。
津田響が、明らかな怒気を孕んだ歩みで、臆せず水無月に迫っていく。
そんな予感が、教室中に充満した。
「……よくもまぁ、のこのこ学校に来られましたね。放火魔のくせに」
パン。
津田響が水無月の頬を鋭く打った。
「何やってんだよ!」
思わず止めに入る。
みな、「なんで似鳥がここに割って入るんだ?」という顔をしている。
おれの中では津田響との関係が変わりつつある。それでも、クラスメイトからしたらおれはこう映っているはずだ。
――似鳥洋平は水無月にいじめられていて、いてもいなくてもいいけど、とりあえず便利な盾になってるヤツ。
クラスの中で、おれはひとりの愚図に過ぎないのだ。
津田響はおれの手を振りほどき、教室中を見回した。
「みんなは、放火をした水無月を放っておくんですか? 報復が怖い?」
彼女は嘆かわしいと言わんばかりに声を張り上げた。
誰もが親しい友人と顔を見合すだけで、何も答えはしない。
「あんなのデタラメかもしれないだろ!」
「本人が否定してないじゃないですか。ねぇ?」
津田響が問いかけても、水無月は口を開くことはなかった。
「わからないんですか? 間違ったことをしていたのは、水無月の方ですよ? 彼女は裁かれるべきじゃないですか?」
水無月の取り巻きの中で、一番地味で大人しそうな女子が立ち上がる。Mという生徒だ。
こんなことはやめてくれと言うのかと思いきや、「ずっと、リコが津田さんをいじめるの見てて……本当はつらかったんだけど、止める勇気がなくて」と、泣きじゃくり始めてしまった。
何を言ってる?
水無月がいじめているのを安全な特等席から観察しながらも、自分の手は汚さない。
そんなポジションにいたお前に、なんで泣く権利がある?
信じられないことに、教室はMの涙で揺らいだ。
あまりに安い、自己愛に満ちた涙で。
「リコ。津田さんと、似鳥君に謝りなよ」
水無月の取り巻きの別の女子が、勇気を振り絞るように言った。
当の水無月は、Mが泣き始めたことにしばらく呆気に取られていた。
が、急に笑いだした。
いつもの水無月とは違う、甘えた感じのない乾いた笑い声だった。
「えー、私が謝るの? なーんで?」
「今までずっと言えなかったけど……。あれはさすがに津田さんが可哀想だよ」その女子はMを、津田を、そして教室中の人間を振り返った。
「どーして急にそんな風に言うの? みんなで仲良くしてたじゃーん?」
津田響が後ろから「水無月さん。もう、粉は効いてませんよ」と言った。
「粉?」
Sをはじめとする生徒は騒いでいた。
おれはたしかに、感じていた。
水無月の麟粉――すなわち、クラスを支配する効力が失われている、と。
「あたしも……やりすぎてるって、思ってた」
おれが口もきいたこともない、名前さえわからない誰かが、さも世界の中心にいるかのように呟く。「正しさ」という後ろ盾がある、安全な場所から訴える。
「俺も、水無月ばっかり威張ってんのはおかしいと思ってたんだよな」
今、呟いたこいつもそうだ。
「うちも」
こいつも。
「オレも」
こいつもそう。
誰もが自分が中心。さも自分が温めてきた考えを吐露するように言うのだ。
こんなの卑怯じゃないか?
教室中の空気が更に変わっていく。
おれや津田響がいじめに遭っていたことを嘆いていたかのように、賛同の声が上がる。
一生続くとさえ思っていた、水無月の支配。
津田響が反旗を翻し、「水無月が放火をしたのではないか」という根拠薄弱な噂程度のことで、揺らいでいる。
革命が起きる。
おれが立っている世界はあまりにも不安定で脆く、頼りなかったのだ。
こんな現実がずっと続くかもしれないと、絶望していたかつてのおれ。
あのときのおれが今の状況を見たら、どう思うだろう?
「似鳥君だって、水無月さんのやり方はおかしいと思いますよね?」
津田響はおれの顔を覗きこむように言った。
――あたしが似鳥君を許します。だから、いいでしょう?
昨日、津田響とキスをしたときの言葉がはっきり蘇る。
彼女に押され、俯いて座る水無月の前に立たされた。
水無月は顔も上げずに、「復讐したいなら、どうぞ。できるんなら」と、早口でおれに言った。
何と応えていいかわからず、彼女を見下ろす。
拳を握りしめる。水無月が憎い。それは確かだ。
「女子をブン殴るんですか? いいですね、こういう機会じゃないとできませんよ! 今なら、似鳥君に正義がある!」
津田響はおどけた。姫子のようだった。
正義?
おれが一番憎く思っていたものだ。
つまらなくて、くだらない、偽善的な大人どもの言い分だ。
そんなことを考えているうちに、自然と握られた拳は力を失っていった。
「おれが水無月を殴るのが正しいってのか? そりゃぶん殴ってやりたいよ! でも、そんなことして何の意味がある?」
「似鳥君。今までされたことを思い出して下さい。ただ、自分の気持ちに正直になった方がいい。今まで、どんなことをされました?」
おれは水無月に、
黒板消しを顔に押し付けられ、
便所で四つん這いの状態でピンポン球を口で拾わされ、
首に紐をつけられて犬のように散歩をさせられ……。
彼女にいじめられて、箱男になる決意をした。
「似鳥君」
津田響は背伸びしておれの頭の後ろを掴み。
「!」
また、おれにキスをした。
教室中が凍りつく。どよめきさえない。
驚きこそあれ、好意がないことはわかっていた。だから、ただ唇が重なっただけとしか思わなかった。
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