第16話 『箱男になってみた』

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 やわらかい、かぼちゃの味噌汁の匂い。懐かしい香りで目が覚めた。

「起きたか? いいだろ、こういう目の覚め方も」

 兄貴がボウルに入った卵を箸でとく。カセットコンロで熱されたフライパンに溶き卵を流しこんだ。

「新妻感出てちゃってるかい?」

 おどける兄貴は、昨日の夜の彼とはまるで別の人間のようだった。ご丁寧に、ひよこの柄の可愛らしいエプロンをして、笑いかける。

「は?」

 緊迫感のなさに一瞬寝ぼけ、眠る寸前に何をしていたのか、わからなくなる。さっきまでの兄貴とのやりとりは、夢だったんじゃないか?

 そんな風にすら思えてしまう。

 ……指!

 足の指は!?

 指先を触る。

 ……よかった。

 枕を押しつけられて息ができなかったのと、指を切り落とされたと思い込んだショックで気を失っただけみたいだ。

 指は深く傷ついてはいるものの、兄貴が処置したのか痛みもそこまではなく、歩ける程度の怪我だった。

 安心と共に、箱女のことを思い出す。

 慌てて時計を見る。朝の六時半。

「なんてことしてくれたんだよ!」

 箱女は既に、橋にはいないだろうか?

「……もう、いい!」

 四の五の言わずに行くしかない。

 立つと、足の指の痛みが思ったより大きいことに気付く。歩くのはともかく、走るのにはかなり支障がありそうだ。だがそんなこと言っていられない。

「行くのか? こんな大雨の中」

 兄貴はカーテンを開ける。

 傘が意味をなさないような雨。

 窓を強く叩く雨粒の音に気付けないくらい、焦っていた。

「当たり前だろ!」

「わかった。僕が付き添うって条件を飲むなら、行ってもいい」

 兄貴はおれの手を取り、肩を貸すように回した。

「なんだよ、あれだけ行くなって言っておいて」

「いないのを確かめれば気がすむだろ? もう、絶対にいないよ」

「箱女は、待ってくれている」

「女はそこまで従順じゃない。幻想さ。僕の方がいい奥さんになるんじゃないかね」

「絶対にいる……」

 兄貴にあしらわれても、自分に言い聞かせるように何度も繰りかえした。



26


 橋が近づくにつれ、痛いほど動悸が強く、早くなる。

 橋のたもとのエレベーターに乗る頃には、ピークになっていた。

「もし箱女がいたら。そのまま行かせてくれるか」

「箱はかぶらなくていいのかい?」

 兄貴はおれの手を握る力を強くする。

 家を出てから、逃げないよう、ずっとおれの手を握り続けていた。

 嫌になるくらい、柔らかく包み込むように。

「いい。わかってくれるはずだ。おれたちは、見た目で相手を選ぶような関係じゃない」

「見た目を気にするからこその、箱男じゃないのか?」

「……」

 答えられない。兄貴は優しい目を向けてくるが、瞳の奥には光が宿っていなかった。

 橋の入り口に出る。車が水しぶきを上げる、ざらつく音が耳触りだ。

 歩道の先には、誰もいない。

「おい、おれだ! いるんだよな、箱女!」

 返事はなく、彼女の姿はどこにもない。

 それでも呼ばずにはいられなかった。

「誰もいないよ。見ればわかるだろう」

 兄貴に駆け寄り、華奢な肩を掴む。足の指が強く痛んだ。

「なんだよその言い方は! 兄貴のせいでこうなったんだろ!」

「どこかで安心してるんじゃないのか?」

「!」

 兄貴の一言に、思わず言葉に詰まってしまう。

 無意識に安心した?

 未知の世界に飛び立ち損ね、現実世界に留まれたことに?

 そんなはずない。

「見てくれ、洋平」

 兄貴はスマホで、動画サイトをおれに見せた。

 六人ほどの「箱男」と「箱女」に扮した若者が、ケラケラと笑いながらふざけ合い、町を闊歩する様子だった。

 『箱男になってみた』

 そんな風に銘打たれていた。

 胸がちりちりと熱くなる。ハラワタが煮えくりかえる怒りと……。

 そいつらの見た目が、おれと変わらないことへの焦り。

 箱男になることの簡単さを示されているようだった。

「箱男なんて特別じゃないんだよ、洋平。世界を捨てるとか、大層な話でもない」

「そんなことはない。おれの決意はそんなもんじゃない!」

「ここにいないっていうことは、彼女だって今いる世界を捨てるかどうか揺らいでいて……君との逃避行を諦めたんだよ。重く考え過ぎていたが、我にかえったんだろう。本当に君のことを信じているなら、ここで待っているはずだ」

「兄貴は、おれのことを想ってこうしたって言ったよな? だったら、頼むからいなくなってくれ」

「……」

「兄貴が帰ってきてくれて、本当に嬉しかったんだよ。でも、もう兄貴をずっと待っているだけのガキじゃない!」

「お前は子どもだよ、洋平」

 柔らかく微笑む兄貴は美しく、おれが求めた母親のようだった。

 見ていられない。

「これ以上邪魔をするなら、警察に兄貴のことを言う。その姿だから、足がついてないだけだ」

「……お兄ちゃんを脅すのかい。洋平も生意気になったね」

 兄貴がおどければおどけるだけ、哀しくなった。

 多分、兄貴も同じ気分だろう。そうすることでしか、おれと喋ることができないんだ。

「仮に僕から解放されたとして、今からどうする? 君のカノジョはいないんだよ」

「学校に行ってくる」

「え?」

 箱女が、水無月。

 あのとき絶望し、そんなはずはないと自らに言い聞かせたが、それは逃げだ。

 疑念に蓋をし続けることができないのはわかっている。

 箱女が水無月かどうか、確かめなくちゃいけない。

「箱女はまだこの島にいるはずだ。絶対に見つけ出す」

 兄貴はパッと、おれの手を離した。

「え?」

「そこまで言うなら、一度会ってきてごらん。ただし、必ずまた僕のところに帰ってくるさ。君はまだ子どもだよ。現実を捨てて生きるなんて無理だ」

 もちろん兄貴を恨む気持ちもあった。

 でも、今はそんな気持ちにかまけている場合じゃない。

 箱女を見つける。

 それだけが、おれを強く動かした。

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