第15話 渇きゆく水飲み鳥
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母屋の電話で学校に無事を伝えると、教師から安堵の声が聞こえた。すぐに戻るよう言われたが「どうしても気分が悪いので」と告げ、一方的に電話を切った。
兄貴の元に戻る気が起きない。気持ちの整理をつけるため、家の外を一周歩くことにした。
敷地を出るなり、すぐさま後ろから近づく靴音が聞こえてきた。津田響だ。
ずっと待ちぶせていたのだろう。
兄貴の(彼女にとっては、「姫子」の)行方を訊きにきたんだ。
「あの変態野郎なら、どっか行っちまったぞ」
吐き捨てるように言った。誰かとまともに話せるような気分じゃなかった。
「嘘はつかないでください」
「あいつを庇う意味なんかない。むしろ、巻き込まれて迷惑ってくらいだ」
おれが箱男になるか否かとは別に、兄貴を津田響と会わせてはいけないという使命感が強くはたらいた。
こいつが兄貴を狂わせたんだ。
「そう、ですか」
どうやら、津田響はおれが「姫子」の弟だということは知らないらしい。
兄貴を庇っていると気付いていないようだ。
「作戦は様子を見て決行って言ったのに、あの人は本当にどうしようもない人ですね」と津田響は重く息を吐いた。
「あの姫子ってやつが突入して、水無月の放火をばらす。計算通りじゃなかったのか?」
「あんな風にやりたくはなかったんです。危うく、逮捕されるとこだったじゃないですか」
「で、とっさにおれを人質に差し出したのか?」
「あの人はバカで弱いけど、大切なんで」
「お前、おかしくなってるんだよ。もう何年かして……大人になったら後悔する。どうしてあんなやつ好きだったんだろう。騙されずにすんだのにって」
おれも大人と同じことを言っている。今言ったことは、そのままおれに返ってくる。
箱男に本当になるべきなのか、後悔しないか、と。
「かもしれませんね」
津田響の目は迷っていない。
兄貴の素性や性格に問題があっても、彼女にとっては、自らを激しく欲する「姫子」さえいれば、それで充分だということだろう。
兄貴を信じた先の未来への不安も、それで掻き消しているのだ。
箱女も、そう思ってくれるだろうか?
本当はどんな人間でも、箱男としてのおれを愛してくれるんだろうか?
もし、箱女の正体が……。
いや、やめよう。
踵を返すと、津田響はおれの手をとった。
「ねぇ、似鳥君」
「なんだよ、おれに用事なんかないだろ」
内心動揺しながら素っ気なく答えた。
「困ったとき、また協力してくれますか。独りだと、都合が悪いことが多くて」
「今日だって協力する気はなかったんだよ……」
「準備は整った。明日、水無月リコを完全に墜落させます」
「……」
「あの女に復讐して、姫子の誤解をとけばすべてが収まる。あの人があたしを刺したんじゃなくて、自殺しようとしたのを止めたら、たまたまあたしに刺さっただけなんですよ」
「じゃあどうして、自分が刺したって言い張るんだと思う?」
「悲劇のヒロインぶるのが好きなんじゃないですか?」
彼女の口ぶりは素っ気ないが、そうは思っていないのだろう。温かい好意が強く滲んでいた。
「地盤さえ固まれば、あたしの人生はようやく動き始める。惨めな思いばかりしたくない」
だから協力しろって?
おれは、自分さえよければどうだっていい。
水無月への復讐心など、まったくなかったのだ。
「おれは遠慮しとく」
「不安ですか? 絶対うまくいきますよ。見たでしょう、あの……」
「そういう問題じゃねぇよ! 自分で何言ってんのかわかってるか? お前だっていじめられて苦しかったんだろ? 水無月が醜く見えただろ?」
「はぁ、まぁそうですね」
「お前がやろうとしてることは、水無月と一緒だよ」
津田響はおれの言葉をかき消すように、狂ったような大声で笑い始めた。
「おい」
「あー、なるほど、似鳥君は面白いくらい馬鹿ですね。自分がされたら嫌なことは、人にしちゃいけないってやつですか? 先生から花丸でも貰いたいんですか? それとも、自分で自分が許せないとか言っちゃうタイプですか? あー、おっかしい」
津田響は二歩、三歩とおれに近寄ってきて、息がかかる距離まで詰めてきた。
「自分で自分が許せないなら」
そして、冷たい目のまま、口角だけを上げて微笑むと――。
「あたしが似鳥君を許します。だから、いいでしょう?」
「!」
「ぷは」
津田響はおれから唇を離し、気持ち良さそうに息継ぎをした。
一瞬のことだった。
「自分で自分のことが許せなくたっていいじゃないですか。他の誰かが許してくれるなら」
「意味わかんねぇよ! なんでおれに」
「『なんでキスしたんだ? しかも、好きでもないおれになんか』って?」
「……」
「似鳥君のことは好きでも嫌いでもないけど、復讐のためならなんだってします。ま、今のキスで思ったんじゃないですか? こいつに協力して、水無月をいじめてもいいかなー、なんて」
「そんなこと」
「少しは思ったでしょ」
津田響は、おれから離れていこうとする。そのまま去りかけたところで、振り返った。
「似鳥君、私のこと好きだったでしょう? 気持ち悪い」
笑ったように見えた。哀しみを帯びているようにも見えたが、それさえはっきりとわからないくらい、夕闇は深くなっていた。
混乱のあまり、家の外を何周も歩いたが、鼓動が静まることはなかった。
キスのことなんか、今は忘れろ。
箱女と今日の夜、おれは行く。
もちろん兄貴の話を聞いて、心がまったく揺らがなかったといえば嘘になる。
でも、箱女を見捨てることはできない。
『ごめん、やっぱり、この世界を捨てることはできない』?
そんなこと、どのツラさげて言えんだよ?
24
今日の夜、箱女は虹の橋で待っているはずだ。
頭の中にあまりに色んなことが浮かんでいて混乱していたが、おれが今やらなくちゃいけないことははっきりしていた。
箱男として、箱女に会いに行くこと。
シンプルに考えよう。兄貴が津田響のことを大切に思うように、おれにとっては箱女が大切だ。もう時間がない。
部屋に戻ると、兄貴が立っていた。
息を切らし、とりつかれたような濁った目でおれを見た。
明らかに様子がおかしかった。
兄貴の手には、鋭利なメスが握られ。
そして、足元には。
バラバラになった、段ボール。
おれを新しい自分へと変身させる「箱」――蛹だったもの。
「兄貴、これ……」
声が震えて、兄貴の顔をまともに見られなかった。
膝から崩れ落ちそうになるほどの脱力を感じたが、怒りだけでどうにか奮い立たせた。
「洋平。僕のことをいくら恨んでくれたっていい」
「どうしてこんなことするんだよ!」
「絶対に行かせない。洋平にまで、僕と同じような失敗は味わって欲しくないんだよ」
「失敗失敗って、それは兄貴の話だ。おれがそうなるって決まったわけじゃない!」
冷静に話をしたいと思っていたが、無理だった。
箱を壊されてしまったことは、おれの一番大切な部分を切りきざまれたのと同じだった。
「洋平が自分で言ったんだろう。『兄貴がおれのかわりに生きてくれた方がうまくいく』って。そのシミュレーションをしたのと同じだ。僕が駄目だったんだ、洋平が箱男なんて失敗する」
「それ言ったのは昔だろ!」
「昔? たった三年前だ」
「兄貴みたいな大人と一緒にしないでくれ。おれにとっての三年間は、何もかもひっくり返っちまうくらいでかいんだよ! あのときとは何もかも違う」
嘘だ。兄貴が出ていったときから、体が大きくなるばかりで、何も変わっちゃいない。
「怖いんだろ?」
怒りにまかせて口にしたこの言葉を、今すでに後悔している。
兄貴はおれに対して向けたことのない歪んだ表情を向けた。
けど、止まらなかった。
「兄貴は箱男になりたかった。現実に縛られない、物語の主人公みたいな箱男に! おれが、兄貴がなれなかった箱男になるのが怖いんだ。悔しいんだよ!」
「……」
「結局、ここの大人と何も変わらない! ただおれたちに追い越されることに怯えているだけの、臆病者の大人と!」
兄貴は反論をしなかった。
おれをぼうっと見つめてくる。
口は動いているが、何も声を発していなかった。
かける言葉はもう、何もない。
行こう。
……箱女が、待っている。
箱の欠片を拾い集めた。細かく刻まれてしまっており、復元はできそうにない。
この時間から段ボールを調達し、「箱」を作り上げる?
出来はどうだっていい。
そのへんの段ボールを被って、橋に駆けつけるしかない。
部屋を飛び出ようとすると、後ろから突き飛ばされた。茫然自失の状態だった兄貴が我にかえり、倒れたおれの背にのしかかってきたのだ。
「行くな」
「邪魔しないでくれ! お願いだよ、行かせてくれ、兄貴!」
「行く、な。行くな、行くな……!」
何度も叫び、おれの背中を殴りつける。
そのたび短い息が漏れた。
起き上ろうとするが、兄貴はそれを許さない。
「クソ、頭が痛い。頭が頭が頭がぁ!」
「兄貴」
箱男としての失敗を告白していくにつれ、兄貴の様子は段々とおかしくなっていった。
おれから見捨てられたと思い、自暴自棄となり箱を切り刻むことで、自らの心までもズタズタになってしまったのだ。
おれが壊れそうな兄貴に、とどめを刺してしまったんだ……!
後ろ手におれの右足を取る。
必死に暴れるが、細身の体からは想像がつかないくらいの力で、押さえつけられる。
「行くというなら、足の指を切り落とす」
足の小指にメスの先が触れ、冷たくなる。
声は震えていた。泣いているのだ。
嗚咽を漏らし、浅い息を吐き続ける。
「切れば行かせてくれるなら、いっそやってくれ!」
音は何もしなかった。
ただ、右足の小指の先が、感じたことのないような熱に包まれ――。
「!!」
声にならない叫びがもれた。
熱は一瞬で痛みにかわり、一気に全身を駆け巡っていく。
いや。どこが痛いのかさえ、これが痛みかどうかさえ、わからなかった。
兄貴はおれの顔に枕を押しつけた。もんどり打つ間中、兄貴はずっと泣いていた。
仰向けになったおれの股に乗り、ときどき笑い声をあげた。
もうそれは、兄貴ではなかった。
最初に出会った、「ばきゅーむ☆姫子」だった。おれが好きだった「雪片」はもう、三年前に死んでいたのだ。
淫靡に微笑み、おれの上で腰を振って、笑っている。
意識が遠くなってきた。
箱女は今も、橋の上で待っているんだろうか?
許してくれ。
ごめん……!
薄らぐ意識の中、最後に目の端に留まったのは、バラバラになってしまった箱だった。
おれは、何者にもなれなかった。
蝶になる前に、蛹から出ちまったから。
「眠ってくれ。我が最愛の弟よ……」
きい、きい。
ジャックが水を呑み、呻く音だけが、眠っている間も聞こえていたような気がした。
水は少しずつ蒸発していく。
彼は限られた時間の中で、何を語っているのか。
何も考えず、諦めてこの島で生きろ?
……それとも?
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