第14話 外の様子を見てくるよ

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 兄貴を連れ、自宅の離れの医務室へとやってきた。

 彼は、部屋の隅で畳まれた段ボールを組み立てて眺め、「よくできてるじゃないか」と相好を崩した。色っぽく目を細める姿は、いくら兄貴だとわかっても、やはり男に思えなかった。しなのある所作の一つ一つが、根本的に男のそれではないなのだ。

 彼の心は、ここにいた三年前とはまるで違うものなのだろうか?

 兄貴が過去について話すのを躊躇っているのがよくわかった。

 促そうかと思ったが、気配に兄貴は気付いているようだった。腹をくくったように、空白の三年間について、ゆっくりと語りだした。

「僕は何も、突然思い立って家を出たわけじゃない。耐え忍ぶつもりだったが、父親の言うことをきいて大人しく生きることに限界を感じた。でも闘う勇気もなかった。その末路が……現実からの逃避……いや、逃走だった」

「親父が病院のあとを継げっていうのが原因なのか?」

「それもある。でも一番は、僕が男で、男であることに付随するすべてを押しつけられるのが、たまらなく嫌だった。後継ぎ、結婚、長男としての責任、そんな前時代的なもの」

 古臭い考えは、閉鎖された島で残り続けていた。表面的には時代が進んでいても、住人の心は外界と遮断され、進歩していなかったのだ。

「母さんがいなかったのも原因かと自分で色々考えてみたけど……こればっかりは、わからないね」

 おれは兄貴に母親の像を重ね、求めていた。

 そのこともプレッシャーになっていたのかもしれない。おれまで、兄貴を追いこんでしまっていたのだろうか?

「誤解しないでくれというのも難しいかもしれないが。男が好きだとか、女になりたいっていうのも、どこか違うんだよ。僕は狭間で揺れ続けていて……ただ、男として生きることを強要されるのが、すごく嫌だった。父親だけじゃない。世界のルールに則って生きる限り、性別からは逃れられない」

「……それで、出ていったのか。この世界から」

「そうだ。性別から何から、何にも属さない箱男として。もちろん、箱男というからには男、ということになってしまっているけど」

「わかるよ。箱男ってのは箱を被る人間の総称でしかない。男でも女でも、本来は箱男だよな」

 兄貴は「よくわかっているな」と笑ってみせたが、見ているだけで痛々しい哀しい笑みだった。

「今まで三年間、箱男として生きていたのか? そんなこと、本当にできるのか?」

 興奮していた。いくら三年とはいえ、箱男として生きている経験があるということだけで、羨ましくてたまらなかった。

「箱男になって、島を出て二日目。浮浪者ともめ事を起こしてしまい、襲われた。箱男は世間的には浮浪者と似ていながら、そこですら逸脱した存在だからね。排除されたんだ」

「逸脱」おれはたまらず呟いた。

「そうだ。それだけ」

「たった二日? その後は?」

「何度も挑戦はしたんだけど……」

 そのまま口を噤んだ。駄目だった、ということだろう。

「じゃあ、今までどうやって生きてきたんだよ?」

 兄貴は初めて、おれから目を逸らした。

「ネット喫茶を転々としていた。父親から、密かに銀行に金を振り込んでもらってね」

「親父が?」

「あぁ。僕が自暴自棄になって死ぬことだけは避けたいみたいだったし……僕のワガママを理解したフリをして、気が変わるまで待とうと決めたんだろう」

「箱男をやめたんなら、どうして帰ってきてくれなかったんだよ? おれにだけでも、こっそり会いに来てくれればよかったのに」

「君にだけは、恰好悪いところは見られたくなかった」

「そんなこと気にしてたのかよ!」

 兄貴はどう返事をしていいのかわからないようだった。おれは「ごめん」と短く謝り、話の続きを促した。

「どこで生きていても、結局父親に生かされているのは変わらなかった。医者になることが僕のすべてで、それ以外の生き方がわからなかった。毎日がごちゃごちゃとくっついていて……。ただ、僕の中に最低な考えが生まれた。現実には戻る気力はないのに、誰かには必要とされたい、なんてさ」

「何が最低なんだよ。当たり前だろ」

「責めないのか?」

「誰かから必要とされたい気持ちは、痛いほどわかるんだ」

 兄貴は更に逡巡した様子で、話を続けた。

「ネットの、ゲイが集まる掲示板を眺めていた。僕は、この人たちと同じだろうか? 会って、セックスでもして仲間になって、なにかに自分を無理やり当て嵌め、カテゴライズされれば……違和感が解消され、安らぎをえられるんだろうか、と」

 どんな言葉をかければいいのか、わからなくなっていた。

「僕は、『ばきゅーむ☆姫子』と名乗り……決心をして、掲示板にいた男と会った。慣れない化粧をしてね。会ったのは芸能界のメイクの仕事をしているという男だった。まだ化粧も下手だった僕に、『こうした方がいいよ』と、かわいく化粧を直してくれた」

 兄貴の迷い。

 性別の間で揺れる不安定な心を、一番わかりやすく安らかにしてくれるのは「俺はホモだ。/いや、ヘテロだ」とどちらかに決め込むことだろう。

 兄貴にとって、「僕はゲイだ」と自分で決め、踏み込むことが、彼の不安への対処方法だったのだ。

 兄貴が救われるならなんだっていい、とは思いたいが、だからといって簡単にその出来事を受け入れることはできなかった。

 これは懺悔だ。もはやおれへの説得から外れてしまっている。

 こちらが何を言えばいいか迷っていることを察してか、兄貴は間をあけず、語り続けた。

「鏡に映ったのは、僕じゃない、不安そうな僕によく似た女の顔。そう見えた。僕は泣きだしてしまった。そこにいるのは僕じゃない。一体何をやっているんだろう? 父親の言うことをきいて生きていた方がよかったんじゃないか、取りかえしのつかないことをしているんじゃないかと……」

 それは、おれが箱男に最初になったときに感じた恐怖と同じだろうか。

 鏡の中におれが求めた姿がある。

 だけどそれが自分には思えなくて、心がバラバラになってしまいそうな。

 そんな、脆い気持ちと。

「その男はね、一緒に泣いてくれて、『大切な人はいないのか?』と僕に訊いた。僕は、君のことを話したんだ。護見島に弟がいると……」

「……」

「彼は、洋平と同い年だからと、メイクを担当しているという響のことを話してくれた。お前がどうしているのかを知りたくて、響に合わせてくれるように頼んだんだ。最初はね」

 兄貴と津田響はネットの出会い系で知り合ったのだと、なんとなく思っていた。

 だが実際、兄貴はおれのことを考えて津田響に会ったのだ。それだけでも、おれの気持ちは、少しだけ柔らかくなった。

 こんな状況じゃなければ、もっとよかっただろうけど、

「響はね、不思議な子だった。愛想の欠片もない。芸能界に入りたての女の子って感じで、お高くとまっている。でもね、すごくキラキラしていた。先が楽しみで仕方がないんだ。中学を出たら高校にはいかずにモデルになると言っていた。そんな話をしていると、僕にもまだ、すべてがむきだしでヒリヒリとして、すべてが怖くて同時に楽しみな……そんな時期があったな、と思わせてくれたんだ」

「想像できないな、あの津田響が楽しそうになんて」

「心を開くのに、そんなに時間はいらなかったんだ。彼女は、学校には行っていないと言った。だから僕らは二人で、過ごしていた。『僕はとびきりのホモで、性欲を持て余して男娼をしている』と語ると、頷いて、話を聞いてくれた。丸っきりの嘘なのにね。彼女は、誰が誰を好きでも構わない、ましてや僕が男でも女でもどっちでもいい、と初めてそう言ってくれた。男女の問題に拘り、僕を縛りつけていたのは自分自身だったとわかったんだ。大人がわからないことを、子どもはよく知っている」

 いつかおれは大人になり、今の十四歳のおれの気持ちを忘れてしまい、まぶしく感じてしまう瞬間が来るのだろうか?

 そんなのはごめんだ。大人になんか意地でもならない。

 世間体に怯えて生きる大人にだけは。

「今は男女がどうじゃない。ただ、響が好きなんだ。だけど、今度は僕の中にこんな考えが浮かんだ。今こうしている間、彼女の人生を僕が無駄にしてしまっているんじゃないか? 僕は本当に必要なんだろうか? と。だから僕は彼女を試すようなことをしてしまった。響の目の前で、自殺しようとして……彼女と揉み合い、刺してしまったんだ。通行人に見つかって、咄嗟に別れた」

 それから兄貴は、ホームレスに変装してやりすごし、あのラブホテルで津田響と待ち合わせをしたのだ、と語った。

 あのときの兄貴は(いや、姫子は)愉快犯ぶってはしゃいでいたが、それが虚勢だということは、今ならはっきりとわかる。

「彼女の人生のためにも、僕は自首をすべきだと思っている。僕が自首をすれば、彼女はただの被害者でいられるからね。でもね、整理がつかないし、彼女が許すとは思えない」

「許すとか、許さないとか、そういう問題なのかよ。兄貴は大して悪いことしてないじゃないか。刺したのだって事故だし、怪我は大したことなかったんだろ?」

「僕に心を開いているなんて思われたら、彼女がどんどん世間から疎外されてしまう。彼女のために自首することが、彼女を傷つけるかもしれない。でも、このままでいるべきでもない。僕はね、正直もう何もかもが嫌になってしまっているんだよ」

 当然、津田響よりも兄貴の方が大切だ。

 でも、自首にせよ、逃げ続けるにせよ、どっちを選んでも明るい未来は待っていない。

「これが、僕の失敗のすべてだ。今話したこと全部、『なんちゃって』ですめばいいのにね。……ごめん、がっかりしただろう。でも、洋平に僕みたいな失敗をしてほしくないんだよ」

 がっかりしたとすれば、兄貴に対してではなく、自分自身に対してだった。

 優秀で優しい兄貴に母親を重ね、包み込んでくれる存在として憧れていただけだった。

 彼の弱いところ、独りよがりで、迷いやすいところ。

 男と女の狭間で揺れていたこと。

 気付きもせず、わかろうともせず。

 ときたま、その脆さが見え隠れしたら……。

 憧れという都合のいい言葉で、蓋をしてしまっていたんだ。

「この顛末は、あくまで箱男の失敗の一例にすぎない。ただ、世界を捨てて生きるというのは、息苦しい世界で生きることの何倍もつらいことなんだよ」

 兄貴は絞り出すように言った。

「……とりあえず、学校に連絡しておくよ」

 おれは目を背け、もう話は終わりだと言わんばかりに立ちあがった。

「洋平?」

「おれは無事で、犯人はどこかに逃げたって言えば、兄貴も少しの間は安心だろ。箱女と兄貴を結びつけるやつはおれと津田響以外いない。親父にだけ気をつけて、しばらくは好きにここにいてくれ」

 整理できなかった。話を先延ばしにしているだけだ、とおれ自身がよくわかっていた。

 おそらく津田響は、兄貴を探しているだろう。

 兄貴を彼女とこれ以上会わせてはいけない。彼の人生の狂いを助長させる存在だ。

 津田響とさえ関わらなければ、まだ元に戻れるとおれは思った。

「おい、どこに行くんだ」

 兄貴の声は震え、明らかに焦燥していた。

「……外の様子を見てくるだけだよ」

「本当か? 僕の話を聞いていなかったのか、箱男になろうってまだ考えてるんだろ」

 兄貴は、懺悔を受け入れられなかったことに怯えているように見えた。

「わかんねぇよ、そんなの! どうしちまったんだよ、兄貴らしくねぇよ!」

「僕、らしい?」

「昔の兄貴ならおれが箱男になることだって、応援してくれたはずだ。失敗して怖くなったのか? それとも、兄貴の心はそんなに変わっちまったのか? これじゃ親父と同じだ」

 こんなことが言いたいんじゃない。ずっと焦がれていた再会を喜びたい。

 でも、憤りを抑えることはできなかった。

「津田響のせいじゃないのか? 兄貴は失敗して心が弱ったところを、あいつに利用されてるんだよ!」

「響のことを悪く言うな」

 兄貴は大きな目を更に見開き、迫ってくる。こんな風に威圧する姿は見たことがない。

「今日の水無月への告発だって、津田響の都合のいいようにことが運んでいるじゃないか!」

「僕は響を助けたいだけだ」

「復讐の手伝いなんて、助けるなんて言わねぇよ。それで兄貴が捕まったらどうしようもない。もうあいつの言うことを聞くな。会うのはやめてくれ!」

「洋平に彼女の何がわかる!」

 兄貴はおれの胸ぐらを掴んだ。乱暴な態度をとられ、ひどくショックを受けた。兄貴も、しまった、という顔をした。

 おれにはその行動より、兄貴の一言がより重くのしかかった。「彼女の何がわかる」という言葉は、彼にとっておれよりも津田響が大切だ、ということを示していた。

「……!」

 おれは逃げるように医務室を出た。兄貴はおれではなく、「箱」を見つめていた。

 過去を話したことで、向き合いたくなかった心の奥底と対峙してしまい、余裕を失っているのだ。見たこともない危うさが、兄貴の茫洋とした表情に現れていた。

 強く触れたら壊れてしまいそうな、羽化する前の柔らかい蛹のようだった。

 兄貴の過去について知り、混乱していた。

 クソ、今は自分のことを考えろ!

 人のこと気にしてる場合か?

 ……仮に、おれが兄貴の後追いの分身に過ぎないとしたら。

 箱男になって生きるという決断の先には、失敗しか待っていない。

 もし明日学校で、津田響の企み通り水無月がクラス内での権力を失い、おれをいじめなかったら?

 平穏な暮らしが待っているとしたら?

 箱男になる意味は本当にあるんだろうか?

 迷っている時間はない。今日の夜、あと数時間もしないうちに橋に行かないと……。

 兄貴にだけは、どうしてもわかってもらわないといけないんだ。

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