第13話 重要ではない話
21
校門をくぐり、人気のない住宅街に出た。
箱女はおれの少し前を歩き、周囲に警戒している。
おれは隙を窺い、一気に箱女に躍りかかった。メスはしまってあるし、正体がわかっている。さして怖くはない。
「あ、ちょっと、いやん」
箱女は言葉の上ではおどけながら、慌てておれを引きはがそうとする。
おれは箱を両手で掴む。箱はおれや本当の箱女のものとは違い、最低限ガムテープで補強したようなちゃちな代物だった。
力ではこっちが上だ。箱を無理やり引きはがす。
中から出てきたのは……やはり姫子。
「あーあー、もう」
箱を脱がされても大してショックを受けていない様子に、内心腹が立った。
本当の箱女も箱男も、誰にだってそう簡単になれるもんじゃないはずなのに。
おれが睨んでいると、振り向いた姫子と目があった。
彼女……いや、彼はずいと顔を寄せてくる。
箱男のイメージとは程遠い、優しいせっけんの香りがした。
「なんだよ」
おれは昨日と同じ調子で、素っ気なく言った。その対応に自ら肝を冷やす。
よく考えれば、姫子は昨日の箱男がおれだとは知らないんじゃないか?
あまり反抗的な態度はとらず、ふつうの人質にされてしまった中学生らしい態度を取った方がいいかもしれない。
姫子はこちらの顔をまじまじと見ながら、驚いたように言った。
「ようへい?」
は?
なんでこいつに呼び捨てにされなきゃいけないんだ?
「洋平だよな! いや、デカくなりすぎだよ、わかんなかった!」
姫子の声が途端にワントーン低くなる。中性的な要素が薄れ、男の声になってしまっていた。
「わけわかんねぇよ、お前なんかと知り合いじゃねぇよ」
「私……いや、僕だ」
「ぼく?」
「雪片!」
ゆきひら?
「あ?」
兄貴?
この女装ロリコン誘拐犯が、雪片だってのか?
「ウソだろぉぉおぉ! 兄貴はお前みたいな変態野郎じゃない! 誰が信じるか!」
すると、姫子は少し考え、ぽつりとこう零した。
「ジャックは元気か?」
と。
ジャックは、おれの家の医務室にある、水飲み鳥の名前。
水飲み鳥の存在も、ましてやその名前も、誰にも語ったことがなかった。
ジャックの存在を知っているのは、おれと兄貴だけだ。
「水、毎日かえてやってるか?」
赤の他人が、我が家の「水飲み鳥のジャック」を知るはずがない。
姫子が雪片であると断定するには、十分だった。
兄貴が女顔だとは思っていたけど……。
いや、こんなことで信用していいのか?
おれがそんな風に、疑いながらも恐る恐る「兄貴」と呼ぼうとした瞬間、兄貴は……(もう、兄貴と呼んでいいだろう)おれの口を塞いだ。
パトカーのサイレンの音が鳴り響く。彼に手を引かれるがまま、セイタカアワダチソウの茂った空き地の草叢へと連れていかれた。
おれたちは背中を合わせて座り込んだ。背中の感触だけで、兄貴の細い体躯を思い出した。
空き地のすぐ外を、二人組の警察官が歩いて行くのが見えた。足音がするたびに胸が締め付けられる。おれは息をするのも忘れ、その姿を目で追った。警察官は、一瞬こちらを向いた――。
が、こちらには気付かなかったのか、通り過ぎて行った。
「僕が雪片だって、信じてくれたか?」
おれと同じように警察官を観察していた兄貴が、小声で言った。その優しい喋り方は、ジャックのことを知っていたという根拠より、はっきりと兄貴だと思わせてくれた。
「兄貴はなんで出ていったんだよ? てっきり何か事故に巻き込まれたんじゃないかって」
おれは安心したんだろうか?
死んでいても仕方ないと思っていた兄貴が、急に目の前に現れたのだ。
……いや、正確には、昨日の時点で再会をしていたのだ。
おれは箱をかぶり、兄貴は完ぺきなまでの女装をすることで、互いを偽った形で出会ってしまっていただけで。
安堵したからこそ、兄貴に対する今までの疑問や、憤りが止まらなくなった。
家をどうして出ていったのか?
家を出た後、何をしていたのか?
百歩譲って津田響と出会って恋に落ちたのはいいとして……なんで女装してるんだ?
彼は津田響を刺した男として警察に追われており、さらに中学への不法侵入と、罪を重ねている。
今、おれは何に巻き込まれているのか?
兄貴のこれまでを知らないおれには、今から何が起きるのか、想像さえできなかった。
「それは今あまり重要じゃないよ、洋平」
呑気な軽い調子で振舞っているが、肝心な部分、奥底の大切な部分には触れてくれるな、という雰囲気をいつも出している。
「洋平はまだ医務室を使っているよな? 少しの間でいい、そこにいさせてくれないか?」
「ごまかさないでくれよ!」
「洋平が飯を用意して、黙ってくれればバレないだろ。頼むよ、弟よ!」
おどけて、話を強引に逸らそうとしているのだろう。
顔の距離がほんの数センチというところまで迫られ、一瞬だけ体が強張ってしまう。
キメの細かい綺麗な肌と、濡れた優しい瞳。
落ちつけ、ぱっと見は女だけど、こいつはあくまで兄貴なんだ。
「……おれ、ずっとはいられないんだよ」
「もちろん母屋に帰ってくれていい。お兄ちゃん寂しいけど、我慢するぜー?」
「じゃなくて。家を出なくちゃいけないんだ」
「どういうことだ?」
「おれは――」
「?」
兄貴には、やっぱり言わないと駄目だ。
「おれは、箱男なんだ」
兄貴は困ったように笑い、頭を掻く。
「昨日ホテルで僕が会ったのは……洋平だっていうこと?」
「……」
おれは無言で頷いた。
「また会えたな、兄弟。……なんちゃって」とは冗談交じりに握手を求めてくる。声も、姫子のときのハスキーボイスに一瞬戻る。
そうだ。あのとき姫子は確かに、「兄弟」と言っていた。
「さっきグラウンドにいるときも、兄貴はわかってたんだよな、おれが箱男だって。ラブホで会ったときも、すぐにおれだってわかったのか?」
「いや、『なにか懐かしい感じがする』って程度さ。……あの箱女と、一緒に行くのかい? 島の外へ?」
「約束したんだよ」
「やめておけ。そこから、どうやって生きていくんだ?」
彼の言うことは真っ当だったけど、正直がっかりしてしまった。
兄貴だったら、おれの気持ちを理解し、賛同してくれると思っていたからだ。兄貴までつまらない大人と同じことを言うのは我慢ならなかった。
「今の生活に不満があるんだろう? じゃないと、箱男になろうなんて思わないはずだ」
彼は、少し迷ったように切りだす。
「響から聞いている。要は水無月リコが問題なんだろう? 今日の告発は、響を救いたい気持ちでやったことだ。洋平だって聞いただろう、生徒達のざわめきを。水無月だって、これまでと同じようには振舞うことはできないはずだ」
「勝手にいなくなっちまった兄貴に、おれの何がわかるんだよ」
「洋平?」
「みんなで、箱男を現実逃避の道具にしてるって決めつけないでくれ!」
「……」
「最初はそうだったよ。でも、今は違うんだ。真剣に箱女のことを好きになって、彼女と生きていきたいって、思ったから」
兄貴は宙を見つめ、懐かしむようにおれの肩に触れる。
「洋平、昔言ったよな。僕に洋平の代わりに生きて欲しい、そうしたらうまくいくのに、って」
確かにそう言って、兄貴はおれのことを「面白い」と褒めてくれ、頭を撫でてくれた。まるで、母親のように優しく。
そんなことばかりを覚えている。
今でも、ずっと。
「これを聞いたら、やめる気になる」
「言ってるだろ、そう簡単におれの意志は変わらない」
「僕も昔、箱男だったと言ってもか?」
え?
「箱男として、失敗をしたと言っても?」
「ウソだろ?」
兄貴が、箱男に?
わけわけんねぇよ、どうしてだよ?
兄貴は言いづらそうに、それでも決意をしたはっきりとした眼差しをおれに向けた。
「ここから話すのは、この過去の三年間で……洋平、君の今から起きることそのものだと思ってくれていい。話を聞いたら、洋平だって箱男になることなんて無意味でしかないと気付くはずだ」
「……おれにそんな説得通用しないよ。もう、決めたんだ」
言葉とは裏腹に、おれは迷っていた。
兄貴が箱男だったということだけでも混乱しているのに、ましてやその失敗談を、おれを引きとめるサンプルとして語ろうと言うのだ。
不安と焦りと、なにより好奇心が溢れ、反論の言葉を失ってしまった。
兄貴の話を、箱男の経験談を聞きたい、と単純に思ってしまったのだ。
「君は頭がいい。今はつらいかもしれないが、耐えて中学を卒業して、高校に進んで。我慢していれば絶対に道は開ける。頼むから、僕と同じ失敗だけはしないでくれ」
兄貴は苦い笑みを見せた。
箱男になったおれを笑うのと、同じ意味を持っていた。
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