第11話 箱女の登校(重役出勤)

19


 翌朝、教室に入ると、まず女子のデリカシーのない笑い声が聞こえた。

 思わず水無月の席を確認する。

 まだ来ていないらしい。

 ほっと胸をなでおろすが、よく考えればそんなことはどうだっていい。

 だって「似鳥洋平」は、どうせ明日には「死んで」いるのだ。

 にもかかわらず、こうして怯えてしまうのは、今までの日常の残している傷痕がいかに大きいかを物語っていた。

 席に座ると、Sが声をかけてきた。

 恐らく水無月が来たらすぐ、おれを無視するだろう。

 だがこいつは最低なことに、おれにさえあまり嫌われたくない性根の腐ったやつだ。(でもそれはすごく平凡で、おれに似ている)

「これ、知ってるか?」と、Sはスマホの画面を見せてきた。

 また、どこぞの男子高校生の「おもしろ」動画だろうか。

「ここって、うちの学校の近くだよな?」

 Sが見せてきた画面に映ったのは、護見島の海岸沿いの公園だった。

 そこにいるのは、三人の若者に囲まれた「箱男」。

 おれと箱女に違いなかった。

「……」

「シュールだよな、これ。この島の掲示板で、結構話題らしくてさ」

 Sは自分のことのように得意気だ。

「箱の中身については、色々噂されてるけど。今逃走中の……ほら、あの殺傷事件の犯人と被害者なんじゃないかって言われてるみたいで。ラブホの放火事件とも、なにか関係あるとか、ないとか?」

「どうしてこんな動画を。誰が?」

「さぁ。どっかの誰かだろ。国民総メディア化ってやつ?」

 動画を見て、体の底から強い昂りを感じた。

 感情は一言では表せない。

 箱の正体を知らず、見当違いな噂に流されているSへの侮蔑。

 何より、護見島の平凡なやつらとは違う、特別な存在だという激しい優越に襲われた。今までにない快感だ。

「これ流行るぜ? もう何日かしたら、パクるやつがわんさかでてくるんじゃねーかな?」

 Sの軽薄な言葉が、特別に思っていたおれの行為を埋もさせようとする。

 他人がそう簡単に真似できることじゃない。

 おれと箱女は、強い決意のもとに集まっているんだ。

 その複雑な感情をどこまでも噛みしめていたかったが、長くは続かなかった。

 胸につかえる重み。鼻の粘膜がひりつく。

 麟粉をまき散らす笑い声。

 あいつが来たんだ。

「おっはよー、みんな。リコちゃんのご出勤じゃー!」

 水無月は無差別にじゃれるように、男子生徒らの膝の上に次々座って見せた。さぞかし甘い香水の匂いでもするのか、男子は困った顔をしながらも口元が緩んでいた。

 おれが忌々しく見つめていたのが、水無月に伝わったのだろう。

 彼女はかわいらしいアイドルのような、よくできた……よくできすぎていて吐き気がする微笑みを浮かべたまま、黒板まで歩く。黒板消しを手に、こっちにやって来た。

「おはちん、似鳥くん。元気? 上も下も元気ぃ? なんつって乙女に下ネタ言わせんなしー」

 酒に酔ったようなとろんとした顔つきで、黒板消しをそのままおれの顔に押し付ける。

 口と目はとっさに閉じたが、鼻の奥に粉が入り、強くむせかえってしまう。

「え? シカト? 元気かきいてるのに」

「……元気だよ。ナースコスの男にビンビン反応しちまうくらいにな」

 おれが言うと、教室中がわずかにざわめく。

 怖くない。大丈夫だ。

 声は震えていたかもしれない。視線が泳いで、おどおどしているかもしれない。すぐに変われるわけはないよな。

 それでも、一瞬でも水無月の目をしっかり見て、返事をしてやった。

 昨日、もっとヤバいやつにだって、臆せず話ができたじゃないか。

「駄目だなぁ、似鳥君は不真面目で」

 水無月の明らかな苛立ちの感情。教室に緊張が走る。

「ちゃんと歴史の授業聞いてた? えらい人が通るときは、無礼にならないように、町の人は目を合わせないように下を向いてたの」

「偉い?」

「ぶれーものぉ、ひざまづけぃ!」水無月はクスクスと笑った。

「土下座しろってのか?」

「……なーに、怖い声出さないでよ」

 おどけてはいるが、水無月の声には明らかな棘があった。「いいから服従しろ、余計な手間をかけさせるな」という圧力だ。

「おかしいだろ、そんなのクラスメイトに対して言うことじゃない」

 明日には消えて無くなるということが、おれに奇妙な勇気を与えていた。

 いつの間にか、クラス全体が沈黙に包まれていた。こそこそ様子を窺っていたはずが、こちらに注目しているのを隠さなくなった。

 何やってんだ、早く服従しろ。飛び火するだろ。

 そういう沈黙だ。

 水無月の圧力に勝る激しいプレッシャー。

 うるさいくらいの静寂。

「……」

 逆らえず四つん這いになった。

 そうすることしかできなかった。ここにいる全員が、教室の秩序のため、おれが水無月のいいなりになることを望んでいる。

 水無月にじゃない。

 観察者の吐き気がするほどの強制力に、逆らうことができない。

 それは、どうせ明日ここにいないのだからどうにでもなれ、などという理屈を超えたものだった。

 何の力も持たないはずのやつらが束になった瞬間、あり得ないほどの力を持つ。

 力とは、数だ。量だ。

 おれは力と闘うためではなく、そこから逃れるために箱男になる。

 ゆるやかに箱男になるためには、決して、「一矢報いる」なんて余計なプライドを発揮してはいけない。

 いいんだよ、今日でもう終わりなんだ、終わりなんだ……!

「さぁ、お散歩にいきましょー」

 水無月はおれの脇に片膝立ちになり、こちらの首に手を回す。

「動かないでね?」

 首にビニール紐が巻きつけられる。

 喉が圧迫され、強い吐き気に襲われる。

 その光景を見て、湿った笑いを浮かべるものと、気の毒だと言わんばかりに目線をそらすもの、大体その二種類に分かれた。

 おれは四つん這いで廊下を進んだ。

 水無月は、「あらま、自主性がある子だね」と甘い甘い声で言った。

 恥辱にまみれるどころか、清々しい気分だ。

 こんな最低の日常、なんの未練もないじゃないか。抵抗なんかしない方がいいと、はっきりわかる。

 ただ、津田響がもしこの立場なら、傍観者のおれは助けに入れるだろうか。

 そのことばかりを考えていた。

 一心不乱に、そのまま歩いた。

 人気のない男子トイレに入る。この体勢だと、小便の臭いは立っているときよりもずっと強く感じられた。

 水無月が何かを言っていたが、ぼうっとして、しばらく聞きとることができなかった。

 よくやく内容がわかったのは、水無月がおれの頬を上履きで蹴りあげ我に返った瞬間。

 おれがむせるのを見て、水無月は満足そうにしている。

「……お前、ホントに人間なのかよ?」

「は? は? なーに?」

「おれと同じ人間なのかって、きいてるんだよ」

 やめろ、おれ。こんなことを言って何になる?

 口が勝手に動く。

 言うだけ、みじめになるのに。大人しく過ごして、消えたいのに。

「大切な人だっているだろ? こんな姿見てどう思うかって、考えたことないのかよ」

 水無月は頷き、見たこともないような恍惚の表情を見せる。

「私のおじいちゃんの絵。『享楽』は見たことあるよね?」

「……」

「その絵はね、『箱男』って小説が、イメージにあるんだって」

「なんでそんな話」言いかけたところで、水無月はおれの口元を蹴り上げる。

 唇が歯に当たり、濃い血の味がした。

「おじいちゃんがその絵を描いている間、ずっと一緒にいた。すごく私のことを大切にしてくれて……私が絵のモデルなんだって言ってくれてた。たくさんの鳥に囲まれて……」

「……?」

「完成した絵を見て、驚いたけど。モデルって言ってたのに、私の顔じゃないんだもん。みんな同じ、顔のない生き物たち」

 彼女は一体、おれに何を伝えたいんだろうか?

 おれを虐げながら、過去の温かい想い出のようなものを語る水無月。

 お前だって、おれと同じ人間なんだろう?

 そう問いかけた。

 彼女は今、暴力に伴って想い出話をすることで、きっとこう答えている。


 私にも大切な人はいて、人間の心もある。そうに決まってんじゃん。

 でも、それとこれとは違う。

 ……


 と。

 彼女は両手を広げる。

 

「こないだおじいちゃんが死んだとき、ずっと『享楽』を見ていた。おじいちゃん、すごく哀しい目をして、絵を描いていた。私はこの絵と同じことをしていると、伝えたかったんだと思う。絵の中でいやらしく笑ってる生き物は私で、こんな世界で満足してたら、こんな風にみじめな人間になるぞって。出る杭を打って満足する毎日でいいのかなって……何度も迷った。でも、護見島で暮らしている限りそれをやめるのは難しい」

「……悲劇のヒロイン気取りかよ」

「私がいなくなったら嬉しい?」

「え?」

 水無月はグッとリードを引き、おれは強制的に上を向かされた。喉が閉まって息がつまり、熱い涙が滲んでくる。

 水無月は、涙で視界がぼやけるおれの目を覗きこんだ。

 彼女の目は、あまりにも透き通っていて美しい。ちょうど、『享楽』で描かれていた月みたいだった。

 騙されるな。目は、人の心など映しはしない。

。ちょっとドキッとした? 私、近くでも見てもカワイイでしょ?」

 水無月はおれの顔に唾を吐きかけ、今日一番の笑みを浮かべた。

 同時に、始業チャイムが鳴った。

「授業サボっちゃ駄目だよ、勉強ちゃんとしてね、不真面目な似鳥くん。きみの日常は学校を卒業してからも続くのさ!」

 水無月が言い残して去る瞬間、誰かを一瞥し、苦い顔をしたのがはっきりと見えた。

 彼女と入れ違いで入ってきたのは……津田響だった。

 唾にまみれ、跪いたままのおれを無言のまま見下した。

「見世物じゃねーぞ。……いや、見世物だわな」

 自虐的に言うと、彼女は歪んだ笑みを見せた。

「似鳥君って、そんな感じでしたっけ? キャラかわってないですか?」

「お前の顔見たら、箱男モードになっちまったんだよ」

「ホントに、そうなんですね。今朝のことなんか、夢みたいにしか思えないけど」

「学校にはもう来ないんじゃないのか?」

「価値はないとは言いましたけど、用事はあるんで」

「相方の変態女装野郎はいないのかよ?」

「あたしが用意したビジネスホテルで寝てると思いますよ。昼間は大抵寝てるみたいで、いくら寝ても足りなくて、頭が痛いんだって言ってましたから」

「あんなメンヘラ好きになるなんて、お前も相当イカれてるな」

「似鳥くんも同じじゃないですかね」

 この悪意はおれに向けられたものではないだろう。

「箱女の悪口を言いにきたのか?」

「いえ。単にもうやめた方がいいと思いまして」

「一緒にいるのをやめろってことかよ?」

「昨日いたのは、ただの箱を被った水無月なんです。それとも似鳥君は、かわいいかわいい水無月のオモチャかなにかで、ごっこ遊びにでも付き合わされてるんですか?」

「だから違うって言ってるだろ! 箱女が水無月なはずがない」

「おめでたいですね。ま、好きにそう思ってて下さいよ。あの女はともかく、どうして似鳥君は箱男なんかやってるんですか? 毎日のうさ晴らしの悪ふざけ?」

「おれなんかどうだっていいんだろ?」

「うるさいんですよ、『姫子ちゃん』が。君のこと、気にしてますから」

「あんな変態野郎に心配される義理ねぇよ」

「箱男なんて、要は逃避でしょ? しんどい現実から逃げようとしてる」

「……それは」

 言葉に詰まる。

 津田響は少し黙った後、静かに口を開いた。

「その毎日から脱出する方法があるとしても、興味はないと?」

 表情こそ崩さなかったが、彼女の声から、強い確信が感じられた。

「そんな都合のいい話、期待するだけ無駄だろうな」

「水無月からいじめられなくなれば、日々に窮屈さを覚えなくてすみますよね?」

「そうできないから、お前だってクラスからいなくなったんだろ」

「……水無月の地位を失墜させる方法があるって言ったら?」

 ドン、と心臓が強く鳴る。

 その一番の解決方法を、おれは試したことがない。どうせ無理だと決めつけ、怯えていたからだ。

「今まで水無月をどうすれば撃ち墜とせるか、考えていたんです。そして昨日。ついに、とんでもないボロを出した」

「どんなネタがあっても一緒だ。お前と水無月。みんなどっちの言葉を信用すると思う?」

 今のおれには、話を混ぜっ返すのが精いっぱいだった。

「誰もがきっかけを待ってますよ。水無月の『麟粉』から、逃れる瞬間を」

 麟粉。

 津田響は、おれと同じ感覚にあるのか?

 ひとりきりの世界を捨てようとして、やっと叶う瞬間がやってこようというのに。

 どうして決意を揺るがすような、おれを現実に繋ぎとめようとする出来事がこのタイミングでやってくるんだ?

 水無月をから排除し、平穏な学校生活を送る。(その場合、もはや、箱女が水無月であろうがなかろうが同じだ)

 津田響の案に乗り、成功すれば。箱男として人生を送ることより現実味のある、ささやかでも理想的な生活が、送れるかもしれないのだ……。

 便所の外、誰かが廊下を走る音がする。

 一人二人じゃない。

「あそこにいるのって、絶対、あの動画の箱男だよな!」「いや、スカートはいてるぞ! 女の方じゃね?」

 口々に、生徒の声がする。笑い声と不躾な好奇心が渦巻いている。

 津田響は短く驚きの声をあげ、便所を出た。おれもその後に続いた。

 生徒は走り、階段を降りていく。教師が止めようとしているが、従うのは一部の生徒だけで、ほとんどの男子は間をすり抜けていく。

 みな、グラウンドに向かっているようだ。

 二階の窓から校庭を見下ろした。

 そこには。

 ……?

 箱女が、グラウンドの中央にぽつんと立ち、きょろきょろと校舎を見回している。誰かの名前を叫んでいるようだが、聞きとれない。

 窓からグラウンドを見下ろしている生徒の中には、水無月の姿もある。

 グラウンドには箱女がいて、おれの数メートル先に水無月がいるということは。

 やっぱり、箱女は水無月じゃない。

 津田響はおれと、水無月を交互に見た。

 どうにか歓喜を抑えこみ、おれは津田響に小声で誇る。

「言っただろ。やっぱり箱女は、水無月なんかじゃない」

「箱さえ被れば、誰だって箱男にも箱女にもなれますよ。

 津田響は、落ち着いた様子だった。箱女が学校に訪れることを事前に知っているかのようだった。

「ちょっと遅いくらいですね。重役出勤ですか」

 津田響は、ため息をついた。

 おれは震えていた。

 この世界に、おれだけが箱男として存在していることが覆ってしまう。

 でも、箱さえ被れば、いつでも……誰でも。

 息を切らし、グラウンドに向かった。

 あれは、おれが運命の相手と信じる箱女だろうか?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る