第10話 水飲み鳥の、嬉しくも悲しくもなさそうな死

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 おれたちは、最初に出会った虹の橋の歩道にたどり着いた。ここなら人気もない。

 空が青白み、もうじき朝になりそうだった。

 最初に出会ったときと同じように胸が強く鳴っているが、高鳴りの質は違っていた。

「火をつけたのは、お前なのか?」

 震えた声で尋ねた。箱女は当たり前のように答える。

「そうよ」

「もし、誰かがあの火事で死んだらどうするんだ!」

「え?」

「そりゃ、おれだって助けて欲しかったよ、でも。でも」

 いざ自分の命が助かり冷静さが戻ってくると、今度は取りかえしのつかないことをしてしまったという後悔の念に責め立てられる。

 火を放ったのは箱女だとしても、責任の一端はおれにある。

「大丈夫。あのホテルは受付に一人、あとは部屋数のカップル。ちゃんと人数が合っていた」

「そうじゃない! もし誰かが逃げ損ねたら、死んじまったらって思わなかったのかよ!」

「思わないわけないでしょう?」

「じゃあ、どうして」

「ただ、貴方を助けたかった」

「!」

「そのためなら、他のことなんてどうだっていいのよ」

 ……箱女の正体が、水無月?

 自分の疑いを恥じた。

 なんで一瞬でもそんな風に思ってしまったんだろう?

 どうして、人の心なんか持ってない水無月が、自分が放火殺人を犯してしまうリスクまで背負って、おれを助けようって思うんだ?

 権力を誇示するために、人の心を踏みにじり、教室中にあの息苦しい麟粉をまき散らすあの女と同じはずはない。

 箱女の今の言葉は、彼女とこれからもずっと生きていきたい、と強く感じさせてくれた。

 生活を捨てるなんて無理だ、と思っていた。

 けど、彼女のためならそうしてもいい。

 家族もクラスメイトも、もう誰もいらない。

 箱女は、おれを必要としてくれている。

 それ以上の何が要るってんだ?

「おれ、お前とずっと生きていきたい」

「そんな当たり前のこと、あらためて言われると恥ずかしいわ」

「でも、どうしても今までの世界を畳む準備をしたいんだ。どうしようもないそれまでの『おれ』は死んだことにして、この世界と別れて……お前と生きていく」

「……島を、捨てられるのね?」

「最後に一つ、この世界がいかなるものか確認をしたい。自分がそこからいなくなると思うと、また景色も変わると思う。最後に一日、お互いにいつも通りの日常を過ごすんだ」

「どうして」

「真の箱男になるためだ」

「……うん」

「明日の夜。それまでに準備をする。ここで待ち合わせてくれないか?」

「また、おしっこしながら待ってるの?」

 箱女ははしゃいだ様子だったが、声は潤んでいるようにも聞こえた。「じゃ、これ」とおれの手を取って開き、そっと重ねた。

 何かを握らされたかと思ったが、何もなかった。

「……?」

「蓋の鍵。渡したから。いつでも開けて」

「性器の、蓋?」

「どうかしらね」

 手には何も握られていない。

 怪訝に思った瞬間、箱女はおれの箱を持ち、顔を近づけた。

「なんて、ね」

 もちろん、箱があるのでそこまで近づくことはなかったが、どんどんと、近づき。

 箱同士が、ぶつかった。

「鍵、開いちゃった……かもね」

 もしかしてこれって、キスなのか?

 生まれて初めての「口づけ」だった。

 よく、ファーストキスはレモン味だとか、いろいろ言うやつがいる。

 ただ今は、どんな味もしない。

 記憶に刻まれたのは――。

 彼女の「鍵」が開いた瞬間の、乾いた温かい音だけだったんだ。



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 彼女がいう「鍵」はきっと、「性器の蓋」の鍵なんかじゃなかったと思う。

 なんというか……心の鍵なんていうのは薄っぺらいかもしれないけど、そういう類のものじゃないだろうか。

 みんな愛なんてものはわからず、セックスをして、無理やり愛を確かめ合う。

 海に浮かぶ月にたどり着き、満足しているのと同じ。

 箱女となら、もしかしたら空にある本物の月を目指せるんじゃないかって、そう思ったんだ。

 彼女のため、いかにして死ぬべきか?

 この世界に「いい死」なんか、あるんだろうか?

 答えはもう決まっている。

 そんなものありはしない。

 水飲み鳥はコップに水が入っている限り、動き続ける。コップが倒れ、水が無くなった途端、動きは止まる。嬉しくも悲しくもなさそうに。

 直前まで死の匂いなんか僅かにも漂わせない。そういう風に死にたい。

 だからおれは、「死ぬ」までの間、表面的には、今までと同じようにみじめに暮らそうと思う。

 遺書も残さない。

 兄貴と同じように、突然消えてなくなって風化していきたい。

 おれの中でゆっくりと整理し、現実世界のおれ似鳥洋平が消えてなくなるだけ。

 箱男の生活を始めるには、まず「似鳥洋平」を殺さなくちゃいけない。

 決意を示す一歩として、家のリビングにあった親父の書置きを読まずにゴミ箱に放り込んだ。もはや、父親は障碍にさえならないちっぽけなものになっていた。

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