第9話 あーあーあーあー(もう、何も聞きたくない夜に)

16

 床から湿った絨毯のにおいが立ちのぼる。

 おれと箱女は、ナース服の女の指示で、ラブホテルの部屋で跪かさていた。

 誇り臭い部屋は、清潔に保たれているとはとても言えなかった。沈黙の中、冷蔵庫の唸りが妙に大きく感じられた。

 箱女は息遣いさえ殺し、黙っている。

 虎視眈々と女の隙を窺っているのか、怯えているのか、箱越しに察することはできなかった。

 部屋には、ナース服の女しかいないようだ。

 胸元のネームプレートに「ばきゅーむ☆姫子」と丸文字で書かれていた。

 クソ、ふざけてやがる。

 こいつ――「ばきゅーむ☆姫子」は、おれたちを捕まえて何を企んでいる?

 箱を被った人間に対する、黒い好奇心だろうか?

「姫子」はおれと箱女を交互に見た。

 表情は変わらないが、身ぐるみはがされたような気持ちにさせる目つきだった。

「君たちは、私のこと……事件について、どれくらい知っているんだ?」

 姫子は取り澄ましていたが、明らかにハイなのが伝わってきた。唇が動くたび、印象的な赤い口紅に見入ってしまう。

「事件っていうのは?」

「知っていて窓の外で張っていたんだろう? んー、違うか?」

 女は大きく張った胸を突き出して伸びをし、けだるく吐息を漏らす。

「貴方のことは何もわからないけど。とりあえず、その見栄っ張りの胸がニセモノってのはわかるわ」箱女は挑発的に言い、姫子の胸の先端を指さした。

 姫子は苦笑いをし、自ら掌で胸を押して見せる。

 胸はぺこんとへこんだ。おれは思わず、小さく驚きの声を上げてしまう。まったく気付かなかった。女同士だと作り物の胸など、お見通しと言うことなのだろうか。

「ふぅん。要は、何も知らないってことだな」

 姫子は余裕のある調子ではあるが、メスでこちらを牽制することは忘れていなかった。

「そうだよ、何も知らない。だから解放しろ」

 おれは虚勢を張りながらも、冷や汗が止まらなかった。

 姫子はこちらの訴えに答えるそぶりもなく、見下ろしてくる。

「箱男か。青春のルサンチマンから産まれた、哀しきコスプレイヤーといったところかね。適応できない現実を見下した結果だ。……あの絵を、『享楽』を知っているか?」

 箱女が、ピクリと反応する。

「話を逸らすな。あんたは何をしたいんだ? もしあんたがここにいるのを黙っていて欲しいなら、約束する」

「……昔々あるところに、箱男になれば、この窮屈な世界から逃げ出せると信じた男がいた」と、姫子はこちらの話など聞かず、演技がかった調子で続けた。「しかし、失敗に終わった。それでも、男は『仕方がなかったんだ』と自己肯定を続けながら、箱庭の中で人生を送っているようだがね」

「何が言いたいんだ?」

「どうだ。君は変われたかい、兄弟? なんちゃって」

 姫子はおれに刃の切っ先を向けた。

「馴れ馴れしく呼ぶな、なにが兄弟だよ」

「親しみを込めて。ぷふ」

 姫子は吹き出した。笑みからは、寂しさが垣間見えた。

「あまり不安にさせてしまってはいけないね。実はな、私はさっき君らに助けてもらった者だ」

「さっき? 助けた?」

「海岸で、不良どもに殴られていた」

 あのホームレスだっていうのか?

 あのときは、男だとしか思っていなかった。男女の性差が、いかにあやふやで、化粧や服装に依存しているのかよくわかる。

 化粧と箱を被ることは、どこか似ている。

「着替えが見つかったのはいいが、生憎、ここには服がこれしかなくてね。そそるかい?」

 ナース服のスカートの裾を掴み、姫子は冗談めかす。

「……そそられたよ。その立派な胸とかな」

 皮肉をいうのが精いっぱいだったが、姫子が魅力的な女であるのは確かだ。

「イジワル言わないでくれ。偶然また会えたんだ、礼が言いたい」と、姫子は箱女に握手を求めてきた。

「私は貴方に礼を言われるようなことはしていない」

 箱女は手を取らなかった。

「うん、君のキックはかなりキいたよ。でも、助かったことには変わりない」

「女だったのか。化粧ってのは本当に詐欺だな」

「わかってるじゃないの。君たちのおかげで、私はここにたどり着くことができたわけさ……」と姫子は悦に入り、演説するように語り続ける。

 さて。こんな雑談に本気で花を咲かせるわけにはいかない。

 おれは穴から僅かに手を出して、隣に座っている箱女の箱を、指先で小さくノックした。

 姫子は自己陶酔的に語り、自らの世界に浸っている。注意が散漫になっている。

 チャンスは今しかない。

 箱女は何も喋りはしないが、こちらに耳を傾けているように見えた。

「逃げろ」

 おれは囁き、窓を指さす。幸いにも姫子は、害意がそこまであるようには見えない。単なる愉快犯気取りの女といった感じだ。何者か見当がつかず気味は悪いが。

 逃げるなら今だ。不思議なほど恐怖感が無い。

 決意を固め、立ちあがった。

「逃げろ! 早く!」

 叫びながら、姫子に向かって突進をした。彼女は驚いた声を短くあげ、咄嗟にベッドに向かって倒れ込んでおれを避ける。

「おれのことはいい! 行け!」

 一瞬箱女の方を振り返った瞬間、姫子が箱の側面に体当たりを喰らわしてきた。おれはベッドに向かって倒れる。箱の内側の金具が脇腹に喰い込み、息を漏らしながらも、女の脚にしがみついた。

 姫子は抵抗せず、ただ、窓の外をぼうっと見ていた。窓から逃げ出す、箱女の姿をはっきりと確認できた。

「自己犠牲か。美しき愛だね。ピュアすぎて、笑っちゃうくらい」

 姫子はおれの背中に馬乗りになった。あくまで柔らかい口調は崩さなかった。

 よし、箱女はどうにか逃がすことができた。

 ……で、おれはどうする?

「かわいいやつだな。女の子と、したことあるかい?」

 一瞬言葉に詰まると、姫子はすぐに「ないだろうね。さっきの子が好きなんだろう? 貧乳を見下して笑うあんな女はやめておいて、私にしないか?」とからかうように尋ねた。

 頭の芯から熱くなり、彼女から目が離せなくなる。胸は偽物かもしれないが、目の前の肢体はあまりに魅力的だった。

 ……駄目だ、おれには箱女がいるんだ!

「どうしてみんな、おれたちのことを構うんだよ! 放っておいてくれ。あんたが誰なのかわからないけど、ここにいるのは言わないって。だから……」

 おれが言いかけたところで、姫子が愛おしそうに箱の頭を撫でてきた。

 驚いて振り払おうとするが、一瞬、温かい懐かしさみたいなものを感じてしまった。

 最後に頭を撫でられたのは、いつだった?

「私の事件のこと、本当に知らないのかい? 知らないなら、特別に教えちゃおうかな」

「だから何の話なんだよ!」

 そのとき。ドンドン、と激しく扉をノックする音がした。

 空気が張り詰め、おそるおそる扉の方を振り返る。

 姫子の仲間だろうか?

「頭痛いの治りましたか、姫子ちゃん? 薬、買ってきましたよ」

 扉の向こうから、若い女の声。ドアがゆっくり、窺うように開く。

「あぁ、ありがとう。入っていいぞ」と姫子。妙にすました様子だ。

「すみません、あと一時間くらいで家に戻らないと。抜け出してきたのばれちゃうんで」

 ビニール袋を提げた女が足早に部屋に入ってくるのが、窓ガラスに反射して見えた。

 その女は、目深にかぶったニット帽子を脱いだ。

 露わになった白に近い灰色の髪を見て、思わず驚きの声が漏れそうになる。

 ……津田、響?

 間違いない。

 絶対にそうだ。

 津田響は、「なんですか、その箱は?」と姫子に尋ねた。

 そして、箱からおれの脚が伸びていることに気付き、「誰」と冷たい声でこちらを威圧した。

 どうして津田響がここにいる?

 このナース服の女と、どういう関係なんだ?

「大丈夫。問題ない。彼とお友だちになってね。現代の箱男さ」と、姫子は答えた。

「バカなこと言ってないで……痛っ」

 津田響は顔をしかめる。脇腹を気遣っているようだった。

「ふざけてなんかいない。君は知らないの、安部公房の『箱男』」

「知ってますけど! どうして箱男がここにいるのか訊いてるんですよ!」

 津田響はじれったそうに声を荒らげた。

 その姿は、物静かな彼女のイメージとかけ離れていた。

「ふぅん、知ってるんだね。君は何も知らないと思っていたのに」

「ていうか、『箱男』はあんたが教えてくれたんでしょうが!」

 姫子の津田響に接する態度は、おれに対するものは明らかに違っていた。素っ気ないのだが、むしろ甘えからくる尊大さに思えた。

 津田響は、おれのことを汚いものを見るような眼で見下ろした。

「貴方は誰ですか? あたしたちを脅しにきたんでしょう? それとももう、警察に通報したんですか?」

 激しくまくしたてられ、答えに窮していると、姫子が口を挟んできた。

「誤解しないでやってくれよ。『箱男』のシーンになぞらえたんだろう。彼はこの部屋を覗いていただけだ」

「だけって。こっちの立場わかってます? ふざけてると殺しますよ」

 津田響は明らかな苛立ちを隠そうともしなかった。

「はっは、君は私に刺されておいて、よくそんなこと言えるもんだな」

「あれはわざとじゃないでしょう、自分のこと悪く言うのはやめてください」

 二人の痴話喧嘩まがいの言い合いに呆気に取られ、閉口していた。

 姫子は津田響から視線を外し、おれに向かって微笑んだ。

「私は『チジョーのモツレ』でこの子を刺し、警察に追われているんだ」と津田響を指さした。

「!」

 思い出した。

 昨日の新聞に載っていた記事。

 たしか、『ネット上で出会った男に少女が刺され、男は行方不明』という事件だったはず。

 少女というのが津田響だとしても?

「男……?」

 思わず凝視してしまう。

 姫子はこちらの呟きに対し、あっさりと、「そうさ」と答えた。

 えーっと。姫子は男?

 さっき、おれ、こいつに欲情してたような……。

「え、でもかわいいからいいだろう? ほれ」と彼女……いや、彼は言い、口元を指さした。「私の『バキューム』をお見舞いしてやろうか? なんちゃって」

「そのなんちゃってってやめて下さい。バカっぽしムカつくんで」

 津田響は深いため息をつく。

「バキュームって」

「あーん」

 姫子は大きな口を開け、わざとらしく舌舐めずりをしてみせた。

 姫子が男とわかった今でも、唇を正視することはできなかった。

 こいつは、中学生と駆け落ち中の女装変態野郎。

 そして、その中学生が津田響?

 ちょっと待て、わけわかんねーって!

「あ、ほら、ドキッとしてるじゃないか」

「くだらないことやってんじゃないですよ!」

 津田響はたまらず叫び、姫子を突き飛ばし、おれに向かってつかつかと歩いてきた。

「脱いでください。その箱」

「……」

 どうする。相手は二人だ。

 部屋から逃げ出すのは難しい。

 と思いきや、姫子は津田響を制止した。

「脱がさなくていい。姿を無理やり暴くのは美しくない」

「そんなわけにはいかないですよ。こんな得体の知れないままにしておけないですから」

「私は見たくないし、正体も聞きたくない。君ひとりで好きにやってくれ、頭痛い」

 姫子は耳を両手で塞ぎ、ベッドにもぐりこみ、厚い布団を頭からかぶって丸まった。そして、「あーあーあー」とこちらの話が聞こえないように喚いた。

 あまりに子供じみている。

 先ほどのまでのおれに対する態度とは、やはり違っていた。

「ちょっ。自己完結しないでください」

 津田響は布団を引っぺがそうとするが、姫子は一向に布団から出てくる気配がない。

「ガキかっての」

 彼女は呆れたように失笑した。間違いなく、好意が含まれた笑顔だった。

「箱はどうしても脱げない。だけど」とおれは津田響に向き直る。

 このまま正体を明かさず、ごねているのは危ない。

 姫子はふざけたことばかり言っているが、津田響を刺した狂気を持ち合わせている。

 何をしでかすかわかったもんじゃない。

 さっきまでみたいな、緊張感のない空気はいつ壊れるかわからないのだ。

 今できる、無事に帰るための最善。

 それは津田響にだけ、おれがクラスメイトだと正体をばらしてしまうことだった。

 クラスメイトだと分かれば津田響も手荒なことはできないだろう。

 それでも、箱だけは脱いじゃいけない。蝶になる前に蛹から出てしまっては、いけないんだ。

「おれ、似鳥洋平だよ。津田、お前のクラスメイトだ」おれは声を顰めた。

「クラスメイト?」

 津田響は、突然のおれの告白に驚きの色を示す。

「名前、もう一回いいですか」

「似鳥洋平。……わからないよな、話したことなんかほとんどない。ほら、クラスの中で一番背がでかい、いつも後ろの席に座ってる」

「あぁ、あのでかいのにいつも挙動不審で縮こまってる人ですか?」

 そうだ、とはとても言いたくないが、認めざるを得ない。

 でかいくせに挙動不審で縮こまっているやつ。その通りだ。

 でも今は違う。

 新しい人生がやっと、始まりかけている。

 箱男を、ただ一時の逃避なんかで終わらせたくない。

 おれは箱男。

 箱女が待ちこがれていた、運命の男にならなきゃいけないんだ。

「じゃあ本に影響されて、箱かぶって社会から逃亡ってわけですね? うわ、イタイですね」

「……信じてくれるのか?」

「咄嗟の嘘にしちゃ具体的すぎるし、似鳥って名前騙るってのも突拍子がなさすぎる。そういや、膝の感じが似鳥君に似ていますよ」

「膝?」

「あたし、人の顔って全然覚えられないんですけど……膝はすごく印象に残るんです。男子はスラックス越しだからぼんやりしてますけど、女の子ならはっきりわかる。モデルやってるから、膝にはつい目がいくんです。モデルは膝でやるんです」

 膝で人を見分けるなんて、にわかには信じがたい話ではあるが。

 クラスメイトだと信じてもらえるなら、もうそれでいい。

「事情はわからないけど、お前らがここにいるってことは絶対言わない。だから、解放してくれないか。おれなんかここにいたって、お前らの特にもならないだろ?」

「それはこっちで判断します」と、津田響は冷たく言った。「動画かなんか配信するんですか? 『箱男になってみた』的な?」

「……そんなことするかよ」

「学校も行かないで、こんなことしてて大丈夫なんですか?」

「……」

「なんですか」

「お前がそれ言うのかよ」

 おれは思わず悪態をつく。

 学校。

 その単語を聞くだけで、箱男から、「似鳥洋平」に戻ってしまったような感覚さえあった。

 鼻の奥まで水無月の麟粉に浸食されている。

 箱男として非日常的なピンチに陥っている今でさえ、それはまだ強くにおうんだ。

「お前が来ないから、おれが水無月にいじめられてるんだよ」

 思わず口からこぼれる。これは、おれの……箱男の言葉じゃない。

 似鳥洋平の叫び。

 こんなことを言って何になる?

 単なるやつあたりだ。

 クラスでいじめが起きているのは、水無月と、それを無視しているクラスメイトや、教師の責任。見て見ぬふりをしながら粘着質に監視する、この島の構造そのものだ。

 今はそんな話をしている場合じゃない。理性ではわかっている。

 なのに今、それまで誰にも(自分自身にさえ)ぶつけることができなかった醜い不満が、体の毛穴中からとめどなく吹き出してくるようだった。

「水無月は自分の立場を固めるために、誰かれ構わずクラスメイトを利用しているんだ。お前がいなくなった途端、たまたまおれが選ばれて……」

「じゃあ、どうしたらいいですか? 謝ったらいいですか?」

 こんなことは、言うべきじゃなかったんだ。自己嫌悪で胸がいっぱいになる。

「それとも学校に行って、元通りあたしがいじめられればいいですか? 世界がどんなに学校に行くのが正しいと言っても、そうは思いません。学校はあたしに一つでも何かしてくれるんですか?」

 津田響は、姫子がいる膨らんだベッドを指さした。その間も姫子は「あーあーあーあー」と喚き続けていた。

「あたしね、こいつのことが本当に好きなんです。へらへら他人を見下してるくせに、ときどきすごく脆くて弱くて。あたしを誰より必要としてくれていますから。唯一、あたしがこの世界にいてもいい理由」

「おかしいと思わないのかよ。こいつは女装してる変態なうえに、お前みたいな中学生をネットで探してるようなやつなんだぞ。必要とされたからなんだってんだよ!」

 本当に言いたことはこんなことじゃない。だけど、気持ちがまとまらないんだ。

「知った口きかないでくださいよ。社会的な常識を押しつけられたくない気持ちは、そんなカッコしてる似鳥君が一番わかるんじゃないですか?」

 津田響の言葉は、おれがずっと思っていたことそのままだった。

「違いますか?」

 言葉が出なかった。

 津田響は、他人から見たら「女装趣味のロリコン男に騙され、催眠状態に陥っている被害者」に映る。この男から救い出すのが彼女のためで――救い出せばあとは催眠から醒めるのを待つだけ、と大人は胸をなでおろす。

 でも、そうなのか?

 本当に大人が正しくて、おれたちは中学生だから世間知らずで、正しい判断を下せない未熟な存在だろうか?

 おれは箱男になった。他人から見たら奇怪に映り、子どもの遊びか悪ふざけだと「常識的」には思われるだろう。

 でも、おれにとっては違う。絶望的な生活に射した一筋の光。

 箱男として過ごすことがおれのすべてだ。箱女が、おれを強く求めている。「箱」と箱女を失ったら、生きる希望が完全になくなってしまう。

 津田響とおれは、実は似た状況にあるのだ。

 箱女はうまく逃げられただろうか?

 どこで落ち合うかは話しあえなかったけど、もしかしたらあの橋にいるのか?

 大丈夫だ。

 おれと箱女は絶対、またどこかで会える。

「なぁ」

 津田響が言ってることは、本当にその通りだ。手助けはできないけど、二人のこれからを応援してるよ。

 おれは多分、そんなことを言おうと思ったんだろう。

 しかし、それは叶わなかった。


 ジリリリリリリリリ!


 ……?

 段ボール越しでも頭の底にひびくような警報音が、けたたましく鳴った。

 部屋の中に、大粒の雫が降り注ぐ。

 火災用の消火装置が作動したのだ。

 隣の部屋のドアが強く閉まる音がして、廊下から誰かのざわめき、叫び声がした。

 気付けば姫子が布団から出ていた。

「一階でよかった」と呑気に言ってのけ、我先にと窓から飛び降りようとした。が、姫子は一瞬思いとどまったようにこちらを振り返った。

「また会える気がするよ、兄弟」

 言い残し、こちらの反論も許さず、窓から飛び降りた。

 おれは津田響と一瞬顔を見合わせた。

 彼女は訝しげにはしたものの、特におれに何も言わず、姫子に続いて窓に足を掛けた。

 廊下の煙がドアの隙間から入り、充満する。

 早く脱出しなきゃと思う反面、ある考えが頭を過った。

 このまま死ぬなら、その方が楽かもしれない、と。

 こんな閉鎖的な島で箱男をいつまで続けられるだろう?

 外の世界でも厳しいだろう。

 今、死ねば。おれは箱男として死ぬことができる……。

 まだ息は苦しくないが、もう数分もここにいれば火が回ってくるはずだ。

 津田響の背中をぼんやり見ながら、「お前ら、うまくいくといいな」と、小さく唱えた。

 だが彼女は脱出するどころか、部屋に戻ってきた。

「え、え、ちょっと!」

 津田響は叫び、背中からこちら側に落ちる。

 戻ってきたんじゃない。窓から誰か別の人間が入ってきて、中に押し戻されたんだ。

 部屋に入ってきたのは――。

「どうして、戻ってきたんだよ」

「貴方が死んだら、誰が私を助けるのよ」

 箱女は言った。

 彼女はぼうっとするおれの手を取り、窓に向かって駆け、背中を押した。

 そうだ。なにが疲れただよ。

 おれには彼女がいる。

 津田響は、驚いたように箱女を見つめていた。

 彼女の視線は箱女の膝に向いていた。

 津田響の口はぱくぱくと言葉を探し、ようやく一言、絞り出した。

「……水無月」


                 水無月?


 何を言ってるんだ?

 呆然としていた津田響は、自分の声で我に返ったように正気に戻り、箱女に激しく迫った。

「あんた水無月でしょ? くだらないことやってんじゃねぇよ! バカにするのも大概にしろ!」

「箱女が水無月!? そんなわけないだろ!」

 津田響を羽交い絞めにし、箱女を助ける。箱女は彼女の問いには何も答えず、ただおれをまっすぐに見つめ、頷くだけだった。

 わけもわからぬまま、転がり出るように窓から外に脱出した。

 続いて出てきた箱女の手を取り、建物から離れるように走り出す。古い建物とあってか火の回りは想像以上に早く、全体が炎に包まれつつあった。

 建物をぼうっと眺めるカップル、中には、おれのじいちゃんくらいの年齢の夫婦らしき人もいた。軽い火傷を負ったようで、肩のあたりが赤くなっている。

 皆、たいがい下着姿だったり、片一方の靴下を穿いたような間抜けな状態だった。

 おれをいつも「常識」で縛ろうとしている、立派なふりをした大人どもだとは思えなかった。

 誰もが、火事と、箱を被ったおれと箱女に目を遣った。

 人々の視線の間を縫い、建物から離れるため無我夢中で走る。息が切れ、喉が激しく傷んでも、走り続けた。

 箱女はおれの手を繋いだまま、「ゴキブリを煙であぶり出したみたいね」と笑った。

 頭の中に、津田響の言葉がずっと残っていた。

 水無月?

 箱女の正体が、水無月だってのか?

 そんなはずない。

 なのに、今はそうとしか思えなかった。

 考えがまとまらない中、おれたちは人気のない場所を探して走った。

「ちょっと、そんな強く握らないでよ」

 自然と、箱女の手を握る力が強くなってしまったらしい。

「私は、どこにもいかないわ」

 あの日、家を駆け出してがむしゃらに走ったときから、結局何も変われていないんじゃないか……。

 結局おれは水無月と、この島という箱庭から逃れられていないのではないかと。

 そんな不安を掻き消すために今も、走っている。

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