第9話 あーあーあーあー(もう、何も聞きたくない夜に)
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床から湿った絨毯のにおいが立ちのぼる。
おれと箱女は、ナース服の女の指示で、ラブホテルの部屋で跪かさていた。
誇り臭い部屋は、清潔に保たれているとはとても言えなかった。沈黙の中、冷蔵庫の唸りが妙に大きく感じられた。
箱女は息遣いさえ殺し、黙っている。
虎視眈々と女の隙を窺っているのか、怯えているのか、箱越しに察することはできなかった。
部屋には、ナース服の女しかいないようだ。
胸元のネームプレートに「ばきゅーむ☆姫子」と丸文字で書かれていた。
クソ、ふざけてやがる。
こいつ――「ばきゅーむ☆姫子」は、おれたちを捕まえて何を企んでいる?
箱を被った人間に対する、黒い好奇心だろうか?
「姫子」はおれと箱女を交互に見た。
表情は変わらないが、身ぐるみはがされたような気持ちにさせる目つきだった。
「君たちは、私のこと……事件について、どれくらい知っているんだ?」
姫子は取り澄ましていたが、明らかにハイなのが伝わってきた。唇が動くたび、印象的な赤い口紅に見入ってしまう。
「事件っていうのは?」
「知っていて窓の外で張っていたんだろう? んー、違うか?」
女は大きく張った胸を突き出して伸びをし、けだるく吐息を漏らす。
「貴方のことは何もわからないけど。とりあえず、その見栄っ張りの胸がニセモノってのはわかるわ」箱女は挑発的に言い、姫子の胸の先端を指さした。
姫子は苦笑いをし、自ら掌で胸を押して見せる。
胸はぺこんとへこんだ。おれは思わず、小さく驚きの声を上げてしまう。まったく気付かなかった。女同士だと作り物の胸など、お見通しと言うことなのだろうか。
「ふぅん。要は、何も知らないってことだな」
姫子は余裕のある調子ではあるが、メスでこちらを牽制することは忘れていなかった。
「そうだよ、何も知らない。だから解放しろ」
おれは虚勢を張りながらも、冷や汗が止まらなかった。
姫子はこちらの訴えに答えるそぶりもなく、見下ろしてくる。
「箱男か。青春のルサンチマンから産まれた、哀しきコスプレイヤーといったところかね。適応できない現実を見下した結果だ。……あの絵を、『享楽』を知っているか?」
箱女が、ピクリと反応する。
「話を逸らすな。あんたは何をしたいんだ? もしあんたがここにいるのを黙っていて欲しいなら、約束する」
「……昔々あるところに、箱男になれば、この窮屈な世界から逃げ出せると信じた男がいた」と、姫子はこちらの話など聞かず、演技がかった調子で続けた。「しかし、失敗に終わった。それでも、男は『仕方がなかったんだ』と自己肯定を続けながら、箱庭の中で人生を送っているようだがね」
「何が言いたいんだ?」
「どうだ。君は変われたかい、兄弟? なんちゃって」
姫子はおれに刃の切っ先を向けた。
「馴れ馴れしく呼ぶな、なにが兄弟だよ」
「親しみを込めて。ぷふ」
姫子は吹き出した。笑みからは、寂しさが垣間見えた。
「あまり不安にさせてしまってはいけないね。実はな、私はさっき君らに助けてもらった者だ」
「さっき? 助けた?」
「海岸で、不良どもに殴られていた」
あのホームレスだっていうのか?
あのときは、男だとしか思っていなかった。男女の性差が、いかにあやふやで、化粧や服装に依存しているのかよくわかる。
化粧と箱を被ることは、どこか似ている。
「着替えが見つかったのはいいが、生憎、ここには服がこれしかなくてね。そそるかい?」
ナース服のスカートの裾を掴み、姫子は冗談めかす。
「……そそられたよ。その立派な胸とかな」
皮肉をいうのが精いっぱいだったが、姫子が魅力的な女であるのは確かだ。
「イジワル言わないでくれ。偶然また会えたんだ、礼が言いたい」と、姫子は箱女に握手を求めてきた。
「私は貴方に礼を言われるようなことはしていない」
箱女は手を取らなかった。
「うん、君のキックはかなりキいたよ。でも、助かったことには変わりない」
「女だったのか。化粧ってのは本当に詐欺だな」
「わかってるじゃないの。君たちのおかげで、私はここにたどり着くことができたわけさ……」と姫子は悦に入り、演説するように語り続ける。
さて。こんな雑談に本気で花を咲かせるわけにはいかない。
おれは穴から僅かに手を出して、隣に座っている箱女の箱を、指先で小さくノックした。
姫子は自己陶酔的に語り、自らの世界に浸っている。注意が散漫になっている。
チャンスは今しかない。
箱女は何も喋りはしないが、こちらに耳を傾けているように見えた。
「逃げろ」
おれは囁き、窓を指さす。幸いにも姫子は、害意がそこまであるようには見えない。単なる愉快犯気取りの女といった感じだ。何者か見当がつかず気味は悪いが。
逃げるなら今だ。不思議なほど恐怖感が無い。
決意を固め、立ちあがった。
「逃げろ! 早く!」
叫びながら、姫子に向かって突進をした。彼女は驚いた声を短くあげ、咄嗟にベッドに向かって倒れ込んでおれを避ける。
「おれのことはいい! 行け!」
一瞬箱女の方を振り返った瞬間、姫子が箱の側面に体当たりを喰らわしてきた。おれはベッドに向かって倒れる。箱の内側の金具が脇腹に喰い込み、息を漏らしながらも、女の脚にしがみついた。
姫子は抵抗せず、ただ、窓の外をぼうっと見ていた。窓から逃げ出す、箱女の姿をはっきりと確認できた。
「自己犠牲か。美しき愛だね。ピュアすぎて、笑っちゃうくらい」
姫子はおれの背中に馬乗りになった。あくまで柔らかい口調は崩さなかった。
よし、箱女はどうにか逃がすことができた。
……で、おれはどうする?
「かわいいやつだな。女の子と、したことあるかい?」
一瞬言葉に詰まると、姫子はすぐに「ないだろうね。さっきの子が好きなんだろう? 貧乳を見下して笑うあんな女はやめておいて、私にしないか?」とからかうように尋ねた。
頭の芯から熱くなり、彼女から目が離せなくなる。胸は偽物かもしれないが、目の前の肢体はあまりに魅力的だった。
……駄目だ、おれには箱女がいるんだ!
「どうしてみんな、おれたちのことを構うんだよ! 放っておいてくれ。あんたが誰なのかわからないけど、ここにいるのは言わないって。だから……」
おれが言いかけたところで、姫子が愛おしそうに箱の頭を撫でてきた。
驚いて振り払おうとするが、一瞬、温かい懐かしさみたいなものを感じてしまった。
最後に頭を撫でられたのは、いつだった?
「私の事件のこと、本当に知らないのかい? 知らないなら、特別に教えちゃおうかな」
「だから何の話なんだよ!」
そのとき。ドンドン、と激しく扉をノックする音がした。
空気が張り詰め、おそるおそる扉の方を振り返る。
姫子の仲間だろうか?
「頭痛いの治りましたか、姫子ちゃん? 薬、買ってきましたよ」
扉の向こうから、若い女の声。ドアがゆっくり、窺うように開く。
「あぁ、ありがとう。入っていいぞ」と姫子。妙にすました様子だ。
「すみません、あと一時間くらいで家に戻らないと。抜け出してきたのばれちゃうんで」
ビニール袋を提げた女が足早に部屋に入ってくるのが、窓ガラスに反射して見えた。
その女は、目深にかぶったニット帽子を脱いだ。
露わになった白に近い灰色の髪を見て、思わず驚きの声が漏れそうになる。
……津田、響?
間違いない。
絶対にそうだ。
津田響は、「なんですか、その箱は?」と姫子に尋ねた。
そして、箱からおれの脚が伸びていることに気付き、「誰」と冷たい声でこちらを威圧した。
どうして津田響がここにいる?
このナース服の女と、どういう関係なんだ?
「大丈夫。問題ない。彼とお友だちになってね。現代の箱男さ」と、姫子は答えた。
「バカなこと言ってないで……痛っ」
津田響は顔をしかめる。脇腹を気遣っているようだった。
「ふざけてなんかいない。君は知らないの、安部公房の『箱男』」
「知ってますけど! どうして箱男がここにいるのか訊いてるんですよ!」
津田響はじれったそうに声を荒らげた。
その姿は、物静かな彼女のイメージとかけ離れていた。
「ふぅん、知ってるんだね。君は何も知らないと思っていたのに」
「ていうか、『箱男』はあんたが教えてくれたんでしょうが!」
姫子の津田響に接する態度は、おれに対するものは明らかに違っていた。素っ気ないのだが、むしろ甘えからくる尊大さに思えた。
津田響は、おれのことを汚いものを見るような眼で見下ろした。
「貴方は誰ですか? あたしたちを脅しにきたんでしょう? それとももう、警察に通報したんですか?」
激しくまくしたてられ、答えに窮していると、姫子が口を挟んできた。
「誤解しないでやってくれよ。『箱男』のシーンになぞらえたんだろう。彼はこの部屋を覗いていただけだ」
「だけって。こっちの立場わかってます? ふざけてると殺しますよ」
津田響は明らかな苛立ちを隠そうともしなかった。
「はっは、君は私に刺されておいて、よくそんなこと言えるもんだな」
「あれはわざとじゃないでしょう、自分のこと悪く言うのはやめてください」
二人の痴話喧嘩まがいの言い合いに呆気に取られ、閉口していた。
姫子は津田響から視線を外し、おれに向かって微笑んだ。
「私は『チジョーのモツレ』でこの子を刺し、警察に追われているんだ」と津田響を指さした。
「!」
思い出した。
昨日の新聞に載っていた記事。
たしか、『ネット上で出会った男に少女が刺され、男は行方不明』という事件だったはず。
少女というのが津田響だとしても?
「男……?」
思わず凝視してしまう。
姫子はこちらの呟きに対し、あっさりと、「そうさ」と答えた。
えーっと。姫子は男?
さっき、おれ、こいつに欲情してたような……。
「え、でもかわいいからいいだろう? ほれ」と彼女……いや、彼は言い、口元を指さした。「私の『バキューム』をお見舞いしてやろうか? なんちゃって」
「そのなんちゃってってやめて下さい。バカっぽしムカつくんで」
津田響は深いため息をつく。
「バキュームって」
「あーん」
姫子は大きな口を開け、わざとらしく舌舐めずりをしてみせた。
姫子が男とわかった今でも、唇を正視することはできなかった。
こいつは、中学生と駆け落ち中の女装変態野郎。
そして、その中学生が津田響?
ちょっと待て、わけわかんねーって!
「あ、ほら、ドキッとしてるじゃないか」
「くだらないことやってんじゃないですよ!」
津田響はたまらず叫び、姫子を突き飛ばし、おれに向かってつかつかと歩いてきた。
「脱いでください。その箱」
「……」
どうする。相手は二人だ。
部屋から逃げ出すのは難しい。
と思いきや、姫子は津田響を制止した。
「脱がさなくていい。姿を無理やり暴くのは美しくない」
「そんなわけにはいかないですよ。こんな得体の知れないままにしておけないですから」
「私は見たくないし、正体も聞きたくない。君ひとりで好きにやってくれ、頭痛い」
姫子は耳を両手で塞ぎ、ベッドにもぐりこみ、厚い布団を頭からかぶって丸まった。そして、「あーあーあー」とこちらの話が聞こえないように喚いた。
あまりに子供じみている。
先ほどのまでのおれに対する態度とは、やはり違っていた。
「ちょっ。自己完結しないでください」
津田響は布団を引っぺがそうとするが、姫子は一向に布団から出てくる気配がない。
「ガキかっての」
彼女は呆れたように失笑した。間違いなく、好意が含まれた笑顔だった。
「箱はどうしても脱げない。だけど」とおれは津田響に向き直る。
このまま正体を明かさず、ごねているのは危ない。
姫子はふざけたことばかり言っているが、津田響を刺した狂気を持ち合わせている。
何をしでかすかわかったもんじゃない。
さっきまでみたいな、緊張感のない空気はいつ壊れるかわからないのだ。
今できる、無事に帰るための最善。
それは津田響にだけ、おれがクラスメイトだと正体をばらしてしまうことだった。
クラスメイトだと分かれば津田響も手荒なことはできないだろう。
それでも、箱だけは脱いじゃいけない。蝶になる前に蛹から出てしまっては、いけないんだ。
「おれ、似鳥洋平だよ。津田、お前のクラスメイトだ」おれは声を顰めた。
「クラスメイト?」
津田響は、突然のおれの告白に驚きの色を示す。
「名前、もう一回いいですか」
「似鳥洋平。……わからないよな、話したことなんかほとんどない。ほら、クラスの中で一番背がでかい、いつも後ろの席に座ってる」
「あぁ、あのでかいのにいつも挙動不審で縮こまってる人ですか?」
そうだ、とはとても言いたくないが、認めざるを得ない。
でかいくせに挙動不審で縮こまっているやつ。その通りだ。
でも今は違う。
新しい人生がやっと、始まりかけている。
箱男を、ただ一時の逃避なんかで終わらせたくない。
おれは箱男。
箱女が待ちこがれていた、運命の男にならなきゃいけないんだ。
「じゃあ本に影響されて、箱かぶって社会から逃亡ってわけですね? うわ、イタイですね」
「……信じてくれるのか?」
「咄嗟の嘘にしちゃ具体的すぎるし、似鳥って名前騙るってのも突拍子がなさすぎる。そういや、膝の感じが似鳥君に似ていますよ」
「膝?」
「あたし、人の顔って全然覚えられないんですけど……膝はすごく印象に残るんです。男子はスラックス越しだからぼんやりしてますけど、女の子ならはっきりわかる。モデルやってるから、膝にはつい目がいくんです。モデルは膝でやるんです」
膝で人を見分けるなんて、にわかには信じがたい話ではあるが。
クラスメイトだと信じてもらえるなら、もうそれでいい。
「事情はわからないけど、お前らがここにいるってことは絶対言わない。だから、解放してくれないか。おれなんかここにいたって、お前らの特にもならないだろ?」
「それはこっちで判断します」と、津田響は冷たく言った。「動画かなんか配信するんですか? 『箱男になってみた』的な?」
「……そんなことするかよ」
「学校も行かないで、こんなことしてて大丈夫なんですか?」
「……」
「なんですか」
「お前がそれ言うのかよ」
おれは思わず悪態をつく。
学校。
その単語を聞くだけで、箱男から、「似鳥洋平」に戻ってしまったような感覚さえあった。
鼻の奥まで水無月の麟粉に浸食されている。
箱男として非日常的なピンチに陥っている今でさえ、それはまだ強くにおうんだ。
「お前が来ないから、おれが水無月にいじめられてるんだよ」
思わず口からこぼれる。これは、おれの……箱男の言葉じゃない。
似鳥洋平の叫び。
こんなことを言って何になる?
単なるやつあたりだ。
クラスでいじめが起きているのは、水無月と、それを無視しているクラスメイトや、教師の責任。見て見ぬふりをしながら粘着質に監視する、この島の構造そのものだ。
今はそんな話をしている場合じゃない。理性ではわかっている。
なのに今、それまで誰にも(自分自身にさえ)ぶつけることができなかった醜い不満が、体の毛穴中からとめどなく吹き出してくるようだった。
「水無月は自分の立場を固めるために、誰かれ構わずクラスメイトを利用しているんだ。お前がいなくなった途端、たまたまおれが選ばれて……」
「じゃあ、どうしたらいいですか? 謝ったらいいですか?」
こんなことは、言うべきじゃなかったんだ。自己嫌悪で胸がいっぱいになる。
「それとも学校に行って、元通りあたしがいじめられればいいですか? 世界がどんなに学校に行くのが正しいと言っても、そうは思いません。学校はあたしに一つでも何かしてくれるんですか?」
津田響は、姫子がいる膨らんだベッドを指さした。その間も姫子は「あーあーあーあー」と喚き続けていた。
「あたしね、こいつのことが本当に好きなんです。へらへら他人を見下してるくせに、ときどきすごく脆くて弱くて。あたしを誰より必要としてくれていますから。唯一、あたしがこの世界にいてもいい理由」
「おかしいと思わないのかよ。こいつは女装してる変態なうえに、お前みたいな中学生をネットで探してるようなやつなんだぞ。必要とされたからなんだってんだよ!」
本当に言いたことはこんなことじゃない。だけど、気持ちがまとまらないんだ。
「知った口きかないでくださいよ。社会的な常識を押しつけられたくない気持ちは、そんなカッコしてる似鳥君が一番わかるんじゃないですか?」
津田響の言葉は、おれがずっと思っていたことそのままだった。
「違いますか?」
言葉が出なかった。
津田響は、他人から見たら「女装趣味のロリコン男に騙され、催眠状態に陥っている被害者」に映る。この男から救い出すのが彼女のためで――救い出せばあとは催眠から醒めるのを待つだけ、と大人は胸をなでおろす。
でも、そうなのか?
本当に大人が正しくて、おれたちは中学生だから世間知らずで、正しい判断を下せない未熟な存在だろうか?
おれは箱男になった。他人から見たら奇怪に映り、子どもの遊びか悪ふざけだと「常識的」には思われるだろう。
でも、おれにとっては違う。絶望的な生活に射した一筋の光。
箱男として過ごすことがおれのすべてだ。箱女が、おれを強く求めている。「箱」と箱女を失ったら、生きる希望が完全になくなってしまう。
津田響とおれは、実は似た状況にあるのだ。
箱女はうまく逃げられただろうか?
どこで落ち合うかは話しあえなかったけど、もしかしたらあの橋にいるのか?
大丈夫だ。
おれと箱女は絶対、またどこかで会える。
「なぁ」
津田響が言ってることは、本当にその通りだ。手助けはできないけど、二人のこれからを応援してるよ。
おれは多分、そんなことを言おうと思ったんだろう。
しかし、それは叶わなかった。
ジリリリリリリリリ!
……?
段ボール越しでも頭の底にひびくような警報音が、けたたましく鳴った。
部屋の中に、大粒の雫が降り注ぐ。
火災用の消火装置が作動したのだ。
隣の部屋のドアが強く閉まる音がして、廊下から誰かのざわめき、叫び声がした。
気付けば姫子が布団から出ていた。
「一階でよかった」と呑気に言ってのけ、我先にと窓から飛び降りようとした。が、姫子は一瞬思いとどまったようにこちらを振り返った。
「また会える気がするよ、兄弟」
言い残し、こちらの反論も許さず、窓から飛び降りた。
おれは津田響と一瞬顔を見合わせた。
彼女は訝しげにはしたものの、特におれに何も言わず、姫子に続いて窓に足を掛けた。
廊下の煙がドアの隙間から入り、充満する。
早く脱出しなきゃと思う反面、ある考えが頭を過った。
このまま死ぬなら、その方が楽かもしれない、と。
こんな閉鎖的な島で箱男をいつまで続けられるだろう?
外の世界でも厳しいだろう。
今、死ねば。おれは箱男として死ぬことができる……。
まだ息は苦しくないが、もう数分もここにいれば火が回ってくるはずだ。
津田響の背中をぼんやり見ながら、「お前ら、うまくいくといいな」と、小さく唱えた。
だが彼女は脱出するどころか、部屋に戻ってきた。
「え、え、ちょっと!」
津田響は叫び、背中からこちら側に落ちる。
戻ってきたんじゃない。窓から誰か別の人間が入ってきて、中に押し戻されたんだ。
部屋に入ってきたのは――。
「どうして、戻ってきたんだよ」
「貴方が死んだら、誰が私を助けるのよ」
箱女は言った。
彼女はぼうっとするおれの手を取り、窓に向かって駆け、背中を押した。
そうだ。なにが疲れただよ。
おれには彼女がいる。
津田響は、驚いたように箱女を見つめていた。
彼女の視線は箱女の膝に向いていた。
津田響の口はぱくぱくと言葉を探し、ようやく一言、絞り出した。
「……水無月」
水無月?
何を言ってるんだ?
呆然としていた津田響は、自分の声で我に返ったように正気に戻り、箱女に激しく迫った。
「あんた水無月でしょ? くだらないことやってんじゃねぇよ! バカにするのも大概にしろ!」
「箱女が水無月!? そんなわけないだろ!」
津田響を羽交い絞めにし、箱女を助ける。箱女は彼女の問いには何も答えず、ただおれをまっすぐに見つめ、頷くだけだった。
わけもわからぬまま、転がり出るように窓から外に脱出した。
続いて出てきた箱女の手を取り、建物から離れるように走り出す。古い建物とあってか火の回りは想像以上に早く、全体が炎に包まれつつあった。
建物をぼうっと眺めるカップル、中には、おれのじいちゃんくらいの年齢の夫婦らしき人もいた。軽い火傷を負ったようで、肩のあたりが赤くなっている。
皆、たいがい下着姿だったり、片一方の靴下を穿いたような間抜けな状態だった。
おれをいつも「常識」で縛ろうとしている、立派なふりをした大人どもだとは思えなかった。
誰もが、火事と、箱を被ったおれと箱女に目を遣った。
人々の視線の間を縫い、建物から離れるため無我夢中で走る。息が切れ、喉が激しく傷んでも、走り続けた。
箱女はおれの手を繋いだまま、「ゴキブリを煙であぶり出したみたいね」と笑った。
頭の中に、津田響の言葉がずっと残っていた。
水無月?
箱女の正体が、水無月だってのか?
そんなはずない。
なのに、今はそうとしか思えなかった。
考えがまとまらない中、おれたちは人気のない場所を探して走った。
「ちょっと、そんな強く握らないでよ」
自然と、箱女の手を握る力が強くなってしまったらしい。
「私は、どこにもいかないわ」
あの日、家を駆け出してがむしゃらに走ったときから、結局何も変われていないんじゃないか……。
結局おれは水無月と、この島という箱庭から逃れられていないのではないかと。
そんな不安を掻き消すために今も、走っている。
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