第8話 テスト
14
朝方になってくると急激に睡魔に襲われ、瞼が自然と落ちてきた。
公園での一連のやりとりで、かなりの時間を使ってしまったらしい。
「なぁ、今度はどこで待ち合わせる?」と箱女に尋ねた。
すると彼女は、ひどく怪訝そうにした。
「どうしたんだよ?」
「まさか、家にかえるの?」
何かまずいことを言っただろうか?
「何バカなことを言っているの? それだと箱男じゃない。箱男は路上生活をするのよ?」
「いや、でも家を出るって言ったって……」
家族も心配するし、たかが中学生のおれが世を捨て生きていくなんてできるか?
深く考えず、希望に縋るように飛び出てきたおれは、現実に直面させられた。
無理だ。箱女と逢瀬をかわすことは、あくまで日常ありき。つらい日々と孤独を支える糧ではあるが、日常を完全に捨てるなんて考えてもいなかった。
でも、箱女に何も言えなかった。そんな常識にまみれたことを言ったら、どんな風に思われるだろう?
失望されて見捨てられ、またあの孤独な生活に逆戻り?
どうすればいい?
「箱男だって、雨風をしのいだり、賢く生きていくべきだ。泥臭ければいいというものじゃない。現実から離れるのには、現実を踏み台にするべきだ」
全てを捨てるなんて決意もできなければ、箱女とも別れたくはない。
どっちつかずでいたら、大切なものを失うような気がしていた。
今すぐ決断しろというのは無理がある。
父親はもう、おれがいないことに気付いているだろうか?
今月末には中間テストがあるのに、授業を放り出して追いつけなくなったり……。
「現実を踏み台にして抜けだした非現実なんて。かりそめだわ」
「さっきみたいな襲撃があるとなっちゃ、ロクに寝れもしない。この平和ボケした狭い島の中ですら、あのザマだ」
「わかったわ。じゃあ、ラブホテルの覗きだけやって、島の外にいきましょう?」
「……わかった、行こう」
これ以上ごねてしまうと、箱女から失望されてしまう。
大丈夫だ、とりあえずこのままいこう。
細かいことは後で考えればいい。
今は、下らない常識で二人の時間に水を差すのが惜しい。
おれはもう、似鳥洋平じゃない。変わったんだ。
さっきの不良どもに立ち向かったことで、証明したじゃないか。
この世界を捨てて生きていける。
箱女の運命の男――箱男だ。
不安に蓋をして、自分に必死に言いきかせる。迷いを閉じ込めた箱を施錠し、鍵を海に捨ててしまいたかった。
15
島の外れにある、海沿いの安いラブホテル。
そこの駐車場に二人で身を構えることにした。建物は何度も見たことがあったが、近づいたことはなかった。
入口付近は高い石垣に囲まれており、二、三階だけが頭を出していた。
古びたゴムの暖簾をくぐり、駐車場へと入る。
「監視カメラに映っちまうんじゃないか?」と不安を悟らせないよう、淡々と尋ねた。
「何度も下調べしたの。ここはカメラが本館の入口にしかなくて、駐車場入口は何もない」
だだっ広い、湿っぽい駐車場。隅には何か月もそのままなんじゃないかという水たまりに、タバコの吸い殻が溶けている。
箱女いわく、客は駐車場を利用しないという。呑気に車なんか使うと、噂になりかねない。公共機関を使って利用するそうだ。カメラなど必要ないというのも納得がいく。
たしかに、ここならしばらくは誰にも見つからなさそうだし、若者から襲われる心配もないだろう。
「どうしたの? 少し眠る?」
「……大丈夫だ」
箱女は膝を抱え、コンクリートの車止めに腰かけた。膝小僧は美しくなめらかで、いつか触れられるかと思うだけで、彼女と離れたくなくなった。
しばらく俯いて座っていると、箱女は隣にそっと寄り添うように座った。
湿った段ボールのにおいと、わずかだがシトラスの制汗スプレーの香りがした。
「早速、覗きとしゃれこもうじゃないか」
駐車場を出てすぐ、コーンや廃材が置いてあるスペースで身を寄せる。
客室のある本館にほどなく近く、部屋の窓から五メートルくらいの距離。
廃材の中に混ざり、覗こうというわけだ。
「あの部屋よ。あそこの窓だけ、穴があいているでしょう?」
擦りガラスの窓に、拳大のひび割れた穴が開いていた。
「敢えてこの部屋を選んで、のぞかれるスリルを楽しむカップルさえいるらしいわ」
平静を保とうとしたが、箱女に出会った瞬間と同じくらい、緊張していた。
おれはセックスを知らない。
もちろん、何をするのかはなんとなくはわかっている。でも、どんな手順で何が行われ、どんな感情が取り交され、どんな息遣いで行われるのかはまだ知らない。
正体がわからない、矛先の向けようのない好奇心と恐怖が胸に渦巻いていた。
ホテルの部屋の灯りはついているが、窓ガラスの割れ目からは人の姿は窺えない。ちょうどベッドが見える。
おれは箱男。
観察者であることが、箱男のあり方だ。
不規則に鳴り響く鼓動を抑えるため、何度も反芻した。
なかなか、誰もベッドに乗ってこない。
人影は何度か窓の前を横切るが、色からするに洋服を着ている状態らしい。
「……なかなか、はじまらないな」
ベッドは皺一つない。まだ事は行われていないようだ。
「もしかしたら、ベッドの下でしているのかもしれないわね」
「へ?」
ベッドの下?
「ね、するとしたら、貴方はどこでしたい?」
「するって」
言いかけて、無粋だと思い黙る。
箱女は、どういう想いで尋ねているんだろう?
想像はまったく形にならなかった。
ただ、おれは思わず箱女の膝の頭を見つめていた。
「そう簡単には教えられない」と誤魔化すように答えた。
箱女は「ずるい」とおれの尻を触った。
「でも、さ」
「?」
「するときは、この箱を被ったまましよう」
「それ最高!」箱女は珍しく大声をあげた。「ね、してる最中、段ボールの穴から指突っ込んで、表面をゆっくりはがしていってよ。いやらしくじらして、服を脱がすみたいに……」
もう、こうしているだけで充分だった。今、共有している時間は肉体関係なんかより、強い結びつきなんじゃないだろうか。
だって、そうだろう?
世界中にセックスをする男女はたくさんいても、雁首並べてラブホテルの情事を覗こうなんて二人は、おれたちくらいだろうから。
ふと部屋の明かりが消えた。
突如、緊張が走る。
箱女と小さく頷きあい、部屋の中を見た。
瞬間、窓が開いた。
「!」
顔を出したのは、右目に眼帯をした背の高い女だった。濡れ烏の羽根のような艶やかな黒髪をしている。薄いピンクのナース服がミスマッチだ。
まさか、もうバレてしまったのだろうか?
彼女は咥え煙草のまま、眩しそうに何かを太陽にかざしていた。小さなナイフ……いや、医療用のメスのようだった。
声を押し殺していたが、無駄だった。
女が視線を下ろしたとき、はっきり目が合ってしまったのだ。
おれは背を向け走った。箱女は一瞬反応が遅れ、躓く。
「逃げて!」
箱女は叫んだが、おれは足を止めた。
ナース服の女が、メスの先をこちらに向ける。
距離は離れているのに、喉元に突きつけられたような錯覚に陥った。
あまりに突然の窮地。打開策を考えようとしているのに、いつもは聞こえない耳の血流の音がうるさくて、何も考えられない。
「待たないと殺すよ?」
女の声はハスキーな中性的なもので、どこまでも穏やかだった。穏やかさが、恐怖を強く煽った。
逆らうと、箱女に危害を加えられるかもしれない。女に従わざるを得なかった。
ひとたび非日常に足を突っ込んだ途端、この島が平和だという認識が、かりそめだったことを痛感させられた。
やっぱり箱男として生きていくなんて、無謀だったのか?
……ごっこ遊びだって認めれば、許される?
一瞬過ったその発想に、おれは胸を痛めた。
ごめん、箱女。
そんな考え、許されるはずはない。
この危機は、おれに課されたテストなのかもしれない。
箱女を愛する権利があるかどうか、試されている。
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