第6話 箱女、現る(鳥の顔に、羽ばたきに、個性などあるのだろうか?)

 ようやく睡魔が訪れ、一瞬目を閉じた瞬間、そのままいつもの時間に目覚ましが鳴った。

 朝になった。眠った感覚なんかないのに。

 父親に出くわさないよう母屋には行かず、すぐさま手紙の返事をたしかめるため、公共図書館へと走った。怖いけど、見に行かずにはいられなかった。

 冷静に考えれば、返事はさすがにまだ来ていないだろうとは思いながらも。

 息を切らし、『箱男』の文庫本がある棚へ駆け寄った。

 本はいつもの位置におさまっていた。

 誰も触っていないように見えた。ひっそり息をひそめている。

 本自体が、言いたいことがあると主張しているようにも見えてしまう。

 手に取り、おそるおそる開く。

 本には紙が挟まっている。歯の奥を噛みしめる。

 返事が来たのか?

 ……いや、違う。

 おれが昨日挟んだ紙だ。

 だよな、そんなにすぐ返事が来るはずない。

 どこかで安心してしまっていた。昨日は頭が熱くなりすぎて、まともな手紙が出せなかった。書きなおして、箱女が痺れるような文章を書かないと。

 手紙を開く。

 おれが焦って書いた汚い字で、「おれを助けてくれ」と書いてある。

 小さく失笑する。独りよがりのひどい文章。

 こんな手紙じゃ、向こうががっかりしちまうよな。

 手紙を折りたたみかけたところで、手が止まる。

 目を疑った。裏にはこう書いてあった。

 そうか。

 むこうも冷静ではなかったのだ。



 ……

 おれが書いたんじゃない。

 字だって全然違う。その一行を、何度も何度も読みかえした。

――今日の夜、虹の橋でお会いしましょう

 そのとき、視界に一気に青空が広がった。

 筋雲の隙間から月明かり差し、空気の中の塵一つ一つがきらめく。

 どこの国かわからないがここではない、美しい夜空。

 そこを大きく羽ばたく音を残し、鳥が飛んでいく。影になり、シルエットしかわからない。

 鳥は、月へと吸い込まれていった。

「あ、え、あ」

 まるで箱女本人に話しかけられたみたいに、動揺して声を上げてしまう。

 これはただの心象風景だ。

 箱女の返事は、おれをどこか別の世界に連れて行ってくれる期待を強く煽った。

 受け入れてくれたんだ!

 おれを引っ張り上げる、救世主。学校でどんな目に遭ったって構わない。

 彼女が自分を必要としてくれたなら、きっと、なんだって耐えられる。

 おれには箱女しかいない。

 その考えで頭がいっぱいだった。

 手紙は、『箱男』の64ページに挟まれていた。

 ページのこの一節に、ペンでラインが引かれている。


   “もっとも、箱男という人間の蛹から、

       どんな生き物が這い出してくるのやら、

            ぼくにだってさっぱり分らない。”

                         (安部公房【著】『箱男』)


 きっと箱女からのメッセージだ。

 日常から非日常へと飛び立つのを、強くイメージさせてくれた。

 蛹、か。

 蛹という喩え自体は、色んな場面で使われるありふれたものだ。それは少年少女が大人になることのメタファーとして度々使われる。

 でも、これは違う。

 芋虫から蝶になるのではなく、芋虫から人間になるような――。

 成長ではなく、まったく別物への変身を表しているのだ。

 どうしようもない現状から、全く別の誰かに変われるチャンスなんだ。

 心が、ざわざわとする。

 嬉しいのか、怖いのか。自分でもはっきりはわからない。

「あ、」

 涙がこぼれた。どうしてだろう。

 わからないけど次々と溢れ、俯いて静かに息を殺しむせび泣いた。



10

 箱がついに完成した。

 箱女に会うのは今夜。

 どうにか箱男になる準備が間に合った。深く安堵の息を吐き、胸をなでおろす。

 出来あがった「箱」には、奇妙な威圧感があった。

 そこにあるだけで空気が張り詰め、中身などないのに、内側から誰かに覗かれているような気がした。

 恐ろしくなり、視線から逃げるように自分で被ってみる。

 視界は思ったより広い。

 顔を悟られぬよう、四角い穴には濃い黄色のカラーフィルムを張っているので、すべてが黄色く見える。いろいろ試した結果、黄色が一番顔色を窺いづらいと思った。

 激しい運動でもするのでなければ、過ごすのに困らなさそうだ。

 しかし、思ったより暑い。

 両側部に腕を出す穴と、光を取り入れるための小さな穴が複数開いているから、風通しは悪くないと思いきや、意外と空気がこもる。これに関しては改良が必要か。

 改良。本格的に箱男になった気がして、気分が高揚する。

 興奮そのままに、鏡の前に立ってみた。

 ……熱が一瞬で冷め、背筋が凍る。

 箱を被った姿をあらためて自分で確認すると、あまりに異様なムードを感じた。

 箱男は、観察者である。

 圧倒的優位を誇る、観察者なのだ。

――よ。お前、誰?

 鏡の中の箱男となったおれに、尋ねられている気がする。

 おれは似鳥洋平。中学二年生。

 周りはくだらないやつばっかりなんだ。ピンポン玉なんか投げて何がおもしれぇんだよ。

 誰だって、そう思うだろ?

「くそくだらねぇ、なにがおもしれぇんだよ!」

 

 今まで言えなかったこと。

 面と向かって言えないどころか、独りのときだって言えなかったこと。

 おれは蛹の中にいる。少しずつ変身していく。

 自分が望む特別な何かに。

 おれは変われる!

 箱の両脇の穴から腕を出し、本棚から『箱男』の文庫本を取りだした。

 は、こちらを見つめた。

 箱女が本に線を引いた箇所に目を落とした。

 そしてその大切な言葉を、何回も繰り返した。


11

 作った「箱」を畳み、脇に抱え、海浜公園を自転車で走る。

 箱女との約束の場所、に向かっているんだ。

 海は穏やかにたゆみながら、橋から発される光を受け止めている。

 橋が煌々と光るせいで、月明かりを感じたことは一度もなかった。

 護見島の人間はきっと、月の明るさを知らない。

 家を出るとき、箱を被って――箱男として出ていきたかったが、家を出るとき父親にその姿を見られると厄介だと思い、そのまま出てきた。

 そのせいか、気持ちがふわふわとしている。

 準備をし損ねたと言うか、準備ができる前に蛹から出てしまったような。そんな気分だ。

 橋が近づいてきた。けばけばしく七色に輝く橋を見上げる。

 橋の入り口に行くには、この先の、橋の袂のビルに入ってエレベーターで最上階に昇らなくてはいけない。

 ビルは寂れていて、警備員はいない。監視カメラになんとなく会釈してエレベーターに乗った。おれたちはいつも見張られている。

 エレベーターの浮遊感は、今の気持ちとあまりにぴったりと寄り添いすぎていた。

 ビルの最上階に着き、エレベーターを出た。

 橋の左端の歩道に立つ。

 二人も横に並べば人とすれ違えないくらい、細い歩道。

 橋は外観的には煌びやかだが、いざ中に入ってしまえば、薄暗い橋でしかない。

 人は誰もおらず、箱女らしき人はまだいない。

 肩すかしを喰らい、がっかりしながらも、どこかホッとしたような脱力が襲った。

 フェンスで隔てられた車道では、島の外に向かって車が走っていく。

 夜風が冷たくなってきた。

 九月にはあった夏の名残が無くなっていた。

 もうすぐ夜の一〇時になる。

 箱女と詳しい時間まで示し合わせていないから、いつ来てもおかしくはない。早速、準備に取り掛からないと。

 歩行者がいないのを確認し、箱を組み立て、そっと頭からかぶった。

 箱の中に吊るした懐中電灯をつけると、夜でも思ったより視界ははっきりとする。

 箱に貼ったカラーフィルムで目の前が黄色くなる。

 歩道の手すりの向こうに、落下防止の金網越しに東京湾と、島の景色が見える。

 そのすべてが濁った汚らしい黄色に染まって、いい気味だと笑みがこぼれた。

 小便がしたくなってきた。落ち着かず、手すりを掴んだ。

 尿意は収まらず、衝動的に海側の橋の手すりに立ち、海を見下ろした。夜景が海に映っている。大嫌いなこの島のあかりが反射しているんだ。

 箱の中でにやりと微笑み、フェンスの間から海に向かって小便をしてやった。

 今なら躊躇なくできる。箱の力はあまりに絶大だった。マスクをすると、気が楽になるのと同じで。

 もちろん島に届くわけはない。失速し、鉄骨にジャバジャバとかかり、滴っていく。

 はは。小便が何色かさえ、わかりゃしないね。

 小便は途切れることなく、背筋がぞくぞくと震え続ける。

 突然ある一匹の鳥が、ぎゃあ、ぎゃあ、と喉が潰れたような鳴き声を上げ、群れ全体が感化されたように騒ぎだす。

 橋をアーチ状に覆う鉄骨に、海鳥が十数羽とまっている。

 闇が落ち、彼らの顔は似たようにしか見えない。

 区別がつかない。そんなの当たり前だ。

 声は重なり合わず、わずかにずれた鳴き声がグルーブ感を生み、おれを包む。

――とん。

 なんだ?

 頭がおかしくなりそうな激しいざわめきの渦の中、誰かが後ろからおれの「箱」を叩いた。

 驚きで小便が急に止まる。

 とん。とん。

 ノックとともに、箱の向こうからくぐもった声が聞こえた。

 そこにいるのは……。おれと同じように、腰くらいまで隠れる段ボール箱を被っている女。スカートの裾と、華奢だが柔らかそうな脚でしか「女」と判断しようがないが。

 こいつが、「箱女」か。

 こちらが声をかける前に、女は『箱男』の文庫本を取り出し、おれを一瞥する。


   “もっとも、箱男という人間の蛹から、

       どんな生き物が這い出してくるのやら、

            ぼくにだってさっぱり分らない。”


 そして、あの64ページの一節を読み始めた。

 低い調子だが、語尾だけが上ずったような濡れた声だ。

『箱男』を愛し、世界から疎外されたおれたちの、秘密の合言葉。

 彼女の声を聞いているだけで、歯茎を舐められたような快感が襲う。興奮を呑む込むことができず、湿った笑みがこぼれる。

 箱女は、何度も何度もその一節を繰りかえす。

 おれも口の中で同じリズムで唱え続ける。

 この出会いが、腐った日常を変えてくれると信じている。

 蛹から、飛び出してやるんだ。

 おれたちの声に驚いたのか、鳥の群れは飛び去っていった。

 その羽ばたきに、その顔に。

 それぞれ特徴があるのだろうか?

 個性などあるのだろうか?

 黄色いフィルム越しでは、わかりようがなかった。

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