第6話 箱女、現る(鳥の顔に、羽ばたきに、個性などあるのだろうか?)
9
ようやく睡魔が訪れ、一瞬目を閉じた瞬間、そのままいつもの時間に目覚ましが鳴った。
朝になった。眠った感覚なんかないのに。
父親に出くわさないよう母屋には行かず、すぐさま手紙の返事をたしかめるため、公共図書館へと走った。怖いけど、見に行かずにはいられなかった。
冷静に考えれば、返事はさすがにまだ来ていないだろうとは思いながらも。
息を切らし、『箱男』の文庫本がある棚へ駆け寄った。
本はいつもの位置におさまっていた。
誰も触っていないように見えた。ひっそり息をひそめている。
本自体が、言いたいことがあると主張しているようにも見えてしまう。
手に取り、おそるおそる開く。
本には紙が挟まっている。歯の奥を噛みしめる。
返事が来たのか?
……いや、違う。
おれが昨日挟んだ紙だ。
だよな、そんなにすぐ返事が来るはずない。
どこかで安心してしまっていた。昨日は頭が熱くなりすぎて、まともな手紙が出せなかった。書きなおして、箱女が痺れるような文章を書かないと。
手紙を開く。
おれが焦って書いた汚い字で、「おれを助けてくれ」と書いてある。
小さく失笑する。独りよがりのひどい文章。
こんな手紙じゃ、向こうががっかりしちまうよな。
手紙を折りたたみかけたところで、手が止まる。
目を疑った。裏にはこう書いてあった。
そうか。
むこうも冷静ではなかったのだ。
[今日の夜、虹の橋でお会いしましょう]
……虹の橋?
おれが書いたんじゃない。
字だって全然違う。その一行を、何度も何度も読みかえした。
――今日の夜、虹の橋でお会いしましょう
そのとき、視界に一気に青空が広がった。
筋雲の隙間から月明かり差し、空気の中の塵一つ一つがきらめく。
どこの国かわからないがここではない、美しい夜空。
そこを大きく羽ばたく音を残し、鳥が飛んでいく。影になり、シルエットしかわからない。
鳥は、月へと吸い込まれていった。
「あ、え、あ」
まるで箱女本人に話しかけられたみたいに、動揺して声を上げてしまう。
これはただの心象風景だ。
箱女の返事は、おれをどこか別の世界に連れて行ってくれる期待を強く煽った。
受け入れてくれたんだ!
おれを引っ張り上げる、救世主。学校でどんな目に遭ったって構わない。
彼女が自分を必要としてくれたなら、きっと、なんだって耐えられる。
おれには箱女しかいない。
その考えで頭がいっぱいだった。
手紙は、『箱男』の64ページに挟まれていた。
ページのこの一節に、ペンでラインが引かれている。
“もっとも、箱男という人間の蛹から、
どんな生き物が這い出してくるのやら、
ぼくにだってさっぱり分らない。”
(安部公房【著】『箱男』)
きっと箱女からのメッセージだ。
日常から非日常へと飛び立つのを、強くイメージさせてくれた。
蛹、か。
蛹という喩え自体は、色んな場面で使われるありふれたものだ。それは少年少女が大人になることのメタファーとして度々使われる。
でも、これは違う。
芋虫から蝶になるのではなく、芋虫から人間になるような――。
成長ではなく、まったく別物への変身を表しているのだ。
どうしようもない現状から、全く別の誰かに変われるチャンスなんだ。
心が、ざわざわとする。
嬉しいのか、怖いのか。自分でもはっきりはわからない。
「あ、」
涙がこぼれた。どうしてだろう。
わからないけど次々と溢れ、俯いて静かに息を殺しむせび泣いた。
10
箱がついに完成した。
箱女に会うのは今夜。
どうにか箱男になる準備が間に合った。深く安堵の息を吐き、胸をなでおろす。
出来あがった「箱」には、奇妙な威圧感があった。
そこにあるだけで空気が張り詰め、中身などないのに、内側から誰かに覗かれているような気がした。
恐ろしくなり、視線から逃げるように自分で被ってみる。
視界は思ったより広い。
顔を悟られぬよう、四角い穴には濃い黄色のカラーフィルムを張っているので、すべてが黄色く見える。いろいろ試した結果、黄色が一番顔色を窺いづらいと思った。
激しい運動でもするのでなければ、過ごすのに困らなさそうだ。
しかし、思ったより暑い。
両側部に腕を出す穴と、光を取り入れるための小さな穴が複数開いているから、風通しは悪くないと思いきや、意外と空気がこもる。これに関しては改良が必要か。
改良。本格的に箱男になった気がして、気分が高揚する。
興奮そのままに、鏡の前に立ってみた。
……熱が一瞬で冷め、背筋が凍る。
箱を被った姿をあらためて自分で確認すると、あまりに異様なムードを感じた。
箱男は、観察者である。
圧倒的優位を誇る、観察者なのだ。
――よ。お前、誰?
鏡の中の箱男となったおれに、尋ねられている気がする。
おれは似鳥洋平。中学二年生。
周りはくだらないやつばっかりなんだ。ピンポン玉なんか投げて何がおもしれぇんだよ。
誰だって、そう思うだろ?
「くそくだらねぇ、なにがおもしれぇんだよ!」
叫んでいた。
今まで言えなかったこと。
面と向かって言えないどころか、独りのときだって言えなかったこと。
おれは蛹の中にいる。少しずつ変身していく。
自分が望む特別な何かに。
おれは変われる!
箱の両脇の穴から腕を出し、本棚から『箱男』の文庫本を取りだした。
鏡の中のおれは、こちらを見つめた。
いや、箱男は箱女が本に線を引いた箇所に目を落とした。
そしてその大切な言葉を、何回も繰り返した。
11
作った「箱」を畳み、脇に抱え、海浜公園を自転車で走る。
箱女との約束の場所、虹の橋に向かっているんだ。
海は穏やかにたゆみながら、橋から発される光を受け止めている。
橋が煌々と光るせいで、月明かりを感じたことは一度もなかった。
護見島の人間はきっと、月の明るさを知らない。
家を出るとき、箱を被って――箱男として出ていきたかったが、家を出るとき父親にその姿を見られると厄介だと思い、そのまま出てきた。
そのせいか、気持ちがふわふわとしている。
準備をし損ねたと言うか、準備ができる前に蛹から出てしまったような。そんな気分だ。
橋が近づいてきた。けばけばしく七色に輝く橋を見上げる。
橋の入り口に行くには、この先の、橋の袂のビルに入ってエレベーターで最上階に昇らなくてはいけない。
ビルは寂れていて、警備員はいない。監視カメラになんとなく会釈してエレベーターに乗った。おれたちはいつも見張られている。
エレベーターの浮遊感は、今の気持ちとあまりにぴったりと寄り添いすぎていた。
ビルの最上階に着き、エレベーターを出た。
橋の左端の歩道に立つ。
二人も横に並べば人とすれ違えないくらい、細い歩道。
橋は外観的には煌びやかだが、いざ中に入ってしまえば、薄暗い橋でしかない。
人は誰もおらず、箱女らしき人はまだいない。
肩すかしを喰らい、がっかりしながらも、どこかホッとしたような脱力が襲った。
フェンスで隔てられた車道では、島の外に向かって車が走っていく。
夜風が冷たくなってきた。
九月にはあった夏の名残が無くなっていた。
もうすぐ夜の一〇時になる。
箱女と詳しい時間まで示し合わせていないから、いつ来てもおかしくはない。早速、準備に取り掛からないと。
歩行者がいないのを確認し、箱を組み立て、そっと頭からかぶった。
箱の中に吊るした懐中電灯をつけると、夜でも思ったより視界ははっきりとする。
箱に貼ったカラーフィルムで目の前が黄色くなる。
歩道の手すりの向こうに、落下防止の金網越しに東京湾と、島の景色が見える。
そのすべてが濁った汚らしい黄色に染まって、いい気味だと笑みがこぼれた。
小便がしたくなってきた。落ち着かず、手すりを掴んだ。
尿意は収まらず、衝動的に海側の橋の手すりに立ち、海を見下ろした。夜景が海に映っている。大嫌いなこの島のあかりが反射しているんだ。
箱の中でにやりと微笑み、フェンスの間から海に向かって小便をしてやった。
今なら躊躇なくできる。箱の力はあまりに絶大だった。マスクをすると、気が楽になるのと同じで。
もちろん島に届くわけはない。失速し、鉄骨にジャバジャバとかかり、滴っていく。
はは。小便が何色かさえ、わかりゃしないね。
小便は途切れることなく、背筋がぞくぞくと震え続ける。
突然ある一匹の鳥が、ぎゃあ、ぎゃあ、と喉が潰れたような鳴き声を上げ、群れ全体が感化されたように騒ぎだす。
橋をアーチ状に覆う鉄骨に、海鳥が十数羽とまっている。
闇が落ち、彼らの顔は似たようにしか見えない。
区別がつかない。そんなの当たり前だ。
声は重なり合わず、わずかにずれた鳴き声がグルーブ感を生み、おれを包む。
――とん。
なんだ?
頭がおかしくなりそうな激しいざわめきの渦の中、誰かが後ろからおれの「箱」を叩いた。
驚きで小便が急に止まる。
とん。とん。
ノックとともに、箱の向こうからくぐもった声が聞こえた。
そこにいるのは……。おれと同じように、腰くらいまで隠れる段ボール箱を被っている女。スカートの裾と、華奢だが柔らかそうな脚でしか「女」と判断しようがないが。
こいつが、「箱女」か。
こちらが声をかける前に、女は『箱男』の文庫本を取り出し、おれを一瞥する。
“もっとも、箱男という人間の蛹から、
どんな生き物が這い出してくるのやら、
ぼくにだってさっぱり分らない。”
そして、あの64ページの一節を読み始めた。
低い調子だが、語尾だけが上ずったような濡れた声だ。
『箱男』を愛し、世界から疎外されたおれたちの、秘密の合言葉。
彼女の声を聞いているだけで、歯茎を舐められたような快感が襲う。興奮を呑む込むことができず、湿った笑みがこぼれる。
箱女は、何度も何度もその一節を繰りかえす。
おれも口の中で同じリズムで唱え続ける。
この出会いが、腐った日常を変えてくれると信じている。
蛹から、飛び出してやるんだ。
おれたちの声に驚いたのか、鳥の群れは飛び去っていった。
その羽ばたきに、その顔に。
それぞれ特徴があるのだろうか?
個性などあるのだろうか?
黄色いフィルム越しでは、わかりようがなかった。
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