第5話 狂った渇き
7
『箱男』を読みながら寝がえりを打つと、パイプのベッドがきしむ音がした。
消毒液臭いシーツ。何十回洗濯しても、そのにおいは抜けることはない。
小さな部屋にベッドが三台並び、扉がなくそのまま繋がっている隣の部屋にはテーブルと、薬品の瓶がしまわれている棚がある。
この小屋は、おれの家の敷地内にある「離れ」である。(という言い回しでわかってもらえるとは思うが、うちは無駄に金持ちだ。目立ちたくないというのに)
父親は内科医として開業している。
ここは元々、医師である祖父が診察室として使っていた。彼が亡くなったのを境に、古くさい医務室はつかえないと、父は家のすぐ近所にこぎれいな医院を開業した。
今となってはただのボロい空き小屋でしかない。
現在、父親に許可を得て、自分の部屋として使っている。大人になるまで、おれを守ってくれる蛹みたいな存在だ。
もし世界に拒まれても、この部屋だけはおれを追いだそうとしないから。
きいきい。
〈ジャック〉が水を呑む音だけが響く。
コップの水を吸うことで、半永久的に振幅運動を続ける科学装置――いわゆる、水飲み鳥だ。(そんな大げさなもんじゃなく、鳥のオモチャ、という感じだけど)
水が切れ、ジャックは制止したまま壁の一点を見ていた。
コップに水を入れてやった。
また動き始めた。勤勉なことだ。
ジャックを見ていると兄貴のことを思い出す。
こいつをくれたのは、一〇歳も年が離れた兄貴・雪片(ゆきひら)だった。
彼は、おれが物心つく前に亡くなっている母に代わり家事をこなしていて、面倒を見ていてくれた。おれにとっては彼が母親のような存在だった。
幼い頃からの役割と中性的な容姿からか、兄貴から男らしさを感じることはほとんどなかった。いつも華奢な体に沿う細身の服を纏い、髪を背中まで伸ばしていた。
いわゆる「兄」という雰囲気とは全く違っていた。兄貴の友人が、彼を「カマくさい」なんて揶揄して笑っているのを聞いたりして、胸が痛んだこともある。
それでも父親よりも兄貴を慕っていた。兄貴がホモやオカマだなんて、全然思っていなかった。むしろ、おれの面倒を見るために母親のような役割を担っていたために悪い印象を抱かれていると思うと、罪悪感さえあった。
不安定な感情に蓋をし、兄貴と接していた。
彼とは、いつもここで話をしていた。
……それは、彼が失踪をする三年前までの話ではあるが。
雪片がいなくなった理由は明らかになっていない。
父親も「わからない」と言葉は少なく、ただ「死んではいない」くらいなのだ。
何かに巻き込まれたのではなく、自分からいなくなったのではないか、というのがおれの見解だった。
兄貴は度々父親と揉めていた。医学部に通っていて、将来は長男として(古臭い因習だ)父親の後を継ぐように毎日、偏執的に言いつけられていた。彼の女性的な容姿や物腰が気に喰わないのか、「そんなナヨナヨしてたんじゃあ後継ぎとして恥だ」と兄貴の話も聞かずに抑えつけていた。何を話していても、結局そこに舞い戻る。食卓は父親が兄貴に厭味をいう場所、というイメージしかない。
兄貴は恐らく、生きていてそのことを忘れられる瞬間などなかっただろう。
明らかに兄貴にばかり親の目がいき、蚊帳の外という状態を心苦しく思ってはいたが(なにせ兄貴は「雪片」と気合の入った名前、おれは「洋平」と平凡を強要されるような名前だったから)、兄貴のことを想うと、そんな不満は些細なことだと胸にしまい込むほかなかった。
毎日しつこくかけ続けられたプレッシャーが、兄貴を追いこんでしまっていたのではないか。
父親に対しては、彼は色白で華奢な女顔に合わない乱暴な口調で争っていたが、おれにはいつも柔らかい笑顔を向けてくれていた。
母親を知らないおれにとって、唯一触れたことがある母性でもある。
自分にとっての「おふくろの味」は、兄貴が作ったかぼちゃ入りの味噌汁だ。
写真でしか見たことのない母親ではあるが、少し寂しげで目尻が下がった眼差しは、彼とよく似ていた。
兄貴はジャックをくれたとき、こう言っていた。
「僕はこんな風に働きたくないから、こいつにかわりにあくせくやってもらっているのさ」と、ジャックをつついた。
「じゃあ兄ちゃん暇だろ」
「ん?」
「おれのかわりに生きてよ。おれ、もう嫌だ」
――三年前、十一歳だったおれは、ぽつりとそう呟いた。
きっとその頃、今より身長が二十センチも低い頃からすでに、兄貴がおれのかわりに生きてくれたら、どんなにいい人生になるかって、思ってたんだ。
そのころはまだいじめられてはいないが、兄貴の予備のような存在として生きるのがつらかった。顔も父親似の地味な顔で、勉強以外何の取り柄もないおれ。
性格も内向的でひがみっぽい自分と、兄貴は全然違った。
勉強だけではなく会話からも知性が滲み、綺麗な顔をしていて、何よりとても優しい心を持っていた。
兄貴は、「洋平は面白いな」と笑い、頭を撫でてくれた。
「面白い」と兄貴に褒めてもらえたこと。
優しい指先の感覚は、今でもずっと残っている。
普通なら、「お前の人生はお前のもんだろう、何を甘えているんだ」と諭したくなるだろうが、兄貴はそんなことは言わず、微笑んでくれたのだ。
津田響との想い出といい……おれはなんとまぁ、ちょろいやつなんだろう。
兄貴はその一言で今でもこんなに喜んでいることを、知る由もない。
まったく、一体どこでなにをやってるんだ?
今こうして、兄貴がよく読んでいた『箱男』のおかげで今、人生が変わろうとしていることを伝えたい。
そもそも兄貴に憧れて、この本を読み始めたんだ。
なぁ、兄貴。もしかしたら、すっげぇ運命の出会い果たしちゃったかもしれないんだよ。
でも、会うのが怖いんだよ。箱女がおれのこと嫌いだって言ったらどうすればいい?
こんな体ばっかりでかいのに気の小さいおれを、好きになってくれんのかな?
おれのことを好きになる女の子なんて、この世界にいるのか?
〈そんなこと心配する前に、やることがあるんじゃないか?〉
兄貴が言っている気がする。
そうだよな。もう、会うって決めたんだ。
絶対に、こんな世界から脱出してやる。
8
立ちあがり、「箱」を抱えて持ってくる。
『箱男』に書いてあった要領で作りかけている、箱男に変身するための箱だ。
被ると腰まで隠れるくらいの、表面のコーティングがしっかり残っている段ボール箱。
目元にあたる部分をカッターで七センチ四方に切りぬき、視界を確保してある。
小型の懐中電灯を中につりさげ、防水のためビニールテープで補強したら完成なのだが、今それが手元にない。使い切ってしまっていた。
いてもたってもいられず、コンビニに買いに行くことにした。
夜露に濡れた芝生を踏み、家の庭を歩いていると、母屋の窓が開いていた。
父親が洗面所に立っている。
洗面所の引き出しを開け、鼻毛切り用のハサミを取り出し、まぬけ面で毛の処理を始めた。どうしようもなくだらしない顔。おれにそっくりな、間延びした顔。
どうして鼻毛を切るのに、そんな口を開けなきゃいけないんだ。
寝巻のTシャツは首がダルダルで、歯磨き粉のしみだらけ。用を足した後で手も洗わない。もはや悪。ダサいのは最大の悪徳だ。
鼻毛に集中しているだろうとたかを括っていたが、父親はすぐこちらに気付いた。
「どこに行くんだ?」
明らかにおれが外に出ることをよく思っていない様子だった。
親父は、テレビはくだらないから見るなと言い、ネットは悪影響だとおれに携帯すら持たせない。メディアに触れさせないようにしている上に、夜にコンビニに行くことすら苦い顔をする。(読書に耽るのは必然ともいえる)
息が詰まってたまらない、この島の象徴のような人間だった。
「コンビニに行くだけだよ」
おれは愛想笑いを浮かべた。父親にする表情ではないだろう、と自分で失笑さえ漏れそうになる。
「フラフラ遊びまわっていると思われたらどうするんだ、近所の目もあるんだぞ」
どうして世間体ばかりを気にするんだろう。
たしかにここは、ろくに匿名性もない閉鎖的な場所だ。
だからこそ、こんな風に監視ばかりしなくても十分じゃないか。
「今日中に要るものなんだよ。学校の宿題に使う……」
言いかけると、親父は窓から新聞を差し出し、ある記事を指さした。
「最近物騒だぞ。これを読んでみろ、洋平。この島で起きたことらしい」
記事によると。
護見島のすぐ外の区で男が、インターネットで出会った少女を刺し、殺人未遂を犯したという事件らしい。「ネットを介して出会った男に親身に相談を受けてもらっていた」少女が、相談者の男に呼び出され、そのまま刺されたようだ。
現在も男は逃走中。犯人の姿は載っておらず、姿を特定する情報も載っていない。
被害者の少女の傷は浅く、肉体的には大事がないが、今も容疑者を庇う供述を繰りかえしており、洗脳をされている可能性もあるとのことだ。実際、傷も家族が気付くまで隠し通そうとしていたという。
「別に俺だってお前のことを縛りつけたいわけじゃない。ただ、お前だって周りからおかしく思われるのは嫌だろう? この島でお前が一人前に医者をやるには、まず信用が第一だからな」
違う。結局、親父はおれを兄貴の代用品として見ているだけだ。後継ぎ候補というだけ。
それも質の下がった代用品。おれを息子として見たことなど、ろくにないだろう。
もう、父親の話など聞いてはいなかった。
箱女に出会えたとして。
彼女が、この新聞の犯人のようなプッツン野郎だったら?
会った瞬間「運命の貴方と心中」とか。
だからといって箱女を諦める?
頭の中で、後悔と恐怖と焦りが一気に押し寄せ、何も考えられなくなった。
「……嘘つかないでくれ! 兄貴がいなくなったから、おれを代わりにしようってだけなんだろ! おれはおれなんだよ、そういうのやめてくれよ!」
声が漏れた。実際発したのは、もっと意味のない言葉。なにも、まとまらないんだ。
思わず走る。父親が怒鳴る声が背後からするが、どうだっていい。
どうしようもない世界。その世界でも、おれは落ちこばれている。
こんなの、いやだ。
いやだ、いやだ、いやだ、いやだ!
誰か、助けてくれ!
その夜、ずっと眠れなかった。後味の悪さをずっと感じていた。
体の芯がいつまでたっても熱く、狂ったように喉が渇き、夜中に水を何杯も飲んだ。
飲んでも飲んでも、渇き続ける。喉を潤したいという欲求、欲望は満たされない。
すべて小便になり、吐きだされた。
明日が来るのがこんなに怖いと思ったのは、初めてだった。
ジャックは今日も一晩中、文句一つ言わず働き続けていた。
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