第4話 鳥のように自由に小便くらいはしてみたいもんだ
4
[おれを、助けてくれ]
5
箱女への手紙を走り書きで綴る。この言葉以外、何も思いつかなかった。
もう慎重にいきたいなどと、四の五の言ってられなかった。
誰か。誰でもいい、助けてくれ!
この世界から、おれを救ってくれよ。
公共図書館の中にはもう客はいない。
文庫の棚の前にじっと立っているおれを、カウンターの女が急かすように見ているだけだ。
『箱男』の文庫本に手紙を挟み、棚に戻す。
その前から動くことができない。
本当に返事を出していいのか?
強く選択を迫られ、脂汗が止まらない。思わず再び棚から本を引きぬき、胸に抱く。
どうしよう。本当にいいのか?
手紙が箱女の元に届いたら、もう後戻りできない。
おれは非日常を求めていた。こんな冴えない毎日をすごす自分とは別の、新しい「おれ」が、どうしても欲しい。
だが、箱女と出会うのを保留し続ければ、ずっと幻想を抱いていられる。
館内放送が流れた。
――まもなく閉館の時間です。カウンターをご利用される方は……。
あぁもう、ちょっと待ってくれ!
今後を決める大事なことだ。
人生がこのまま爛れていくか、一発逆転が待っているか。
「似鳥君? それ、借りていきますか?」
係の女に声をかけられる。
図書館の係員一人とっても、常連であるおれの名前を知っている。
護見島には匿名性がない。常に監視されている。
「あ、いや」
肩がびくっと跳ね、不審に思われなかったか不安になる。
言葉にならない言い訳を口の中で唱え、本を棚に戻し、逃げるように立ち去った。
結局、箱女への手紙を出してしまった。
迷いをかき消すため、小走りで図書館を出た。
建物の外には大々的に『追悼――護見島出身の芸術家 水無月慧展』と宣伝されていた。
先月に亡くなった、水無月リコの祖父である。
この島にすむ人間なら、誰でも名前くらいは知っている芸術家だ。
彼の代表的な絵画である『享楽』という作品のポスターが幕になっていた。
月夜に照らされた幾多もの蛹の絵だ。蛹からは次々と様々な生き物が――蝶だけではなく鳥、豚、人間もいる――羽化し、月を目指しているが、ほとんどは墜落し、水面に映った月の上に浮かんでいる。
水に浸かった彼らの顔はのっぺらぼうだが、口元だけに同じ愉悦が浮かんでいる。
幼いときから『享楽』が苦手だった。
シュールな世界観に対する恐怖心だけじゃないなにかが、おれを責めたてるのだ。一〇月のカレンダーにその絵が使われていたときの三一日間の長さを思い出すだけで、今でも重いため息が出る。なにより、水無月のことを思い出してしまう。
その絵をなるべく見ないよう、俯き加減に走った。
6
心がどうしても落ち着かず、家に帰る前に、図書館と家の間にある海浜公園に来た。
背後にはチェーン店ばかりのつまらないショッピングモールがあり、買い物帰りのカップルが夜景なんか見ながら、つまらない愛を囁き合っている。
海沿いにフェンスが張られているが、胸くらいの高さしかないので、すぐに乗り越えられた。
柵の縁に立ち、右手に広がるこの島から本土に向かって伸びる、「虹の橋」を見つめた。
いつも、外の世界で暮らすことに憧れていた。
島は閉塞に満ちている。
ここにいる全員がおれを知り、観察しているような――そんな気がしてしまっている。
島を捨て、箱女と一緒に新しい自分として生きていけたら、どんなにいいだろう?
七色の橋の輝き。
毎晩、海浜公園にこの橋を見に来ていた。
外の世界へと続く橋が消えていないかどうか確認しに来ている。
排気ガスで光が滲んでぼやけて、そのまま消えてしまうそうな気さえするから。
考えをかき乱すように、幾多もの海鳥が音を立てて飛び去っていく。
鳥たちに個性はなく、みんな同じように見えた。
そのうちの一匹が、まき散らすように小便をしていった。
空からこの島に小便をする想像をして、快感を覚える。
島のやつらが慌てる姿を見下ろしながら、街のきらめきに小便が混ざって輝く景色に、うっとりと見入る。
それは、どんなに綺麗だろうか。
鳥のように自由に飛びたい、なんてありきたりの文句は嫌いだけども、鳥のように自由に小便くらいはしてみたいもんだ。
何も考えたくないから、家まで走った。
……いつも、何かから逃げている気がするよ。
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