第3話 腐った日常
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この手紙は昨日、学校の傍にある公共図書館で手に入れた。
文庫本のコーナーにある『箱男』に、手紙が挟まっていたのだ。おそらく、瓶に手紙をいれて海に流すような感覚で、どこかにいる誰かに助けを求めたんだろう。
逆に言えば、箱女は身近な人には相談できず気丈に振舞っているが、本当はこの世界が息苦しくて窒息寸前の女なのだ。
おれは、手紙で箱女が書いていたような、『箱男』を愛する男の一人である。
『箱男』は、安部公房という作家が書いた小説だ。
段ボール箱を被り、路上生活を送る男の物語。
おれは兄貴が読んでいるのを見て、真似をして読んだのだが、読むなり衝撃が走った。
圧倒されるような厭世的なムード。
ありふれた人間の心の機微ではなく、社会と箱男の対立を描くことで、読者に「この世界は――何よりお前は、このままでいいのか」と強く問いただしているんだ。
すぐに虜になった。
『箱男』を読んだことがある人間は、兄貴以外そばに誰もいなかった。(その兄貴も、もう家にはいない)
もどかしく、おれはこの悦びを分かち合える人間がいないことを悲しみ、同時に、周囲がとても愚かしく思えた。
今流行の小説や映画ではなく、『箱男』が好きなまだ見ぬ誰かに焦がれて、いつも公共図書館に足を運んでいた。
この本を手にとっては、もしかしたら誰かが「貴方も、その本が好きなの?」と声をかけてくるんじゃないかと、淡い期待を抱いていたのだ。読書履歴は個人情報だとかで、過去に一体誰が『箱男』を読んだのかわからないのが残念だ。
いるのかわからない人間に、血のつながり以上の濃い親愛の情を感じていた。
本に挟まれていた手紙を見つけたときは震えが止まらなかった。夢じゃないだろうかと、疑心暗鬼になってしまうほどだった。
箱女はおれの心を知って、同調してくれているようにすら感じた。
世界に覚える閉塞と違和感。
会ったことも意志を交わしたこともないが、この二つで強く結びついている。(ただのイタズラで、彼女の身の上は全て作り話であり、女ですらないかもしれない。そんな可能性に必死に蓋をした)
箱女と繋がれるかもしれない予感だけが、水無月に怯える日常を明るく照らしてくれた。
おれを求めてくれている。
ネットでの恣意的な出会いなんかじゃない邂逅。
「これ以上ないチャンスじゃないか、すぐ返事を出したらいい」と誰しもが思うだろう。
しかしおれは、興奮と同時にひどく恐れてもいた。
おれが一介の中学生、それもクラスでも限りなく存在感のないちっぽけな子どもに過ぎないと知ったら、失望しやしないかと。(しかもおれはクラスで、いわゆる「陰キャラ」だ)
最初に手紙を読んだ瞬間から、美しく儚い女性像が浮かび、美化は急速に進んだ。手紙を読んでまだ十五分も経たない今、すでに顔にモヤがかかってしまっていた。
彼女だけが希望だ。
腐った日常からおれを救う。
だからこそ、そうやすやすと踏み切れることじゃない。
3
鱗粉をふりまく笑い声。
水無月が、津田響のことを笑っているのだろう。
学校を休んでいることの、何がそんなにおかしい?
なぁ、箱女。お前の言う通りだ。大人だけじゃない。水無月みたいな中学生でさえもう、逸脱という杭を打つ、観察者に成り下がっているのだ。
ほんの一瞬だけ、水無月を盗み見た。
非難めいた目つきをしてしまったかもしれない。
それが間違いだった。
水無月と完全に目があった。
彼女は「かわいく」欠伸をしながら立ちあがり、こっちに近づいてきた。
頭皮から汗が瞬間的に滲み、机に雫が滴り落ちるほどだった。
体から自分で感じたことがない不快なにおいがした。
水無月は、おれに笑いかけた。
満面の笑み。
むしろ恐怖を強くさせた。
「津田さんのこと、心配してんのかな?」水無月はきゃぴきゃぴとした作り声でおれに言った。
「あ、え、」
「ずっと休んでるもんね? 体調悪いのかな? やっさしいんだぁ、似鳥くん」
「そういう、わけじゃ、ない……けど」
「けど? けどぉ!?」
無意識の抵抗からつけたたった二文字の「けど」に対し、水無月は大げさに騒ぎたてる。よせばいいのに、黙ってはいられなかった。
「多分、体調が悪いわけじゃないと……」
「ね。津田さんのこと、すき、なの?」
水無月は言葉を遮り、おれを指さし、目を回させるように指先をくるくるとさせた。
「へ?」
「愛してるの?」
「あ、あいしてるって?」思わず声が裏返った。
「似鳥くんは不真面目だなぁ。先生が言ってたでしょ? どう、きみは誰かを愛せるかな?」
水無月は常に酔っぱらいが甘えるような調子でありながら、同時にひどく攻撃的だった。
「愛する女の子のため、戦う勇気があるのかなー?」
ビシ。
くるくると回していた指が止まり、はっきりとおれを指さした。
ロックオン。
そう言われているのと同義だった。
おれを責めたてようとしているのは明らか。教室中の注目が集まるのを感じる。
――あー、ご愁傷さま。津田の次はお前か。余計な抵抗しなきゃよかったのに。出る杭は打たれるんだよ、デクノボウくん。
そんなSからの眼差しに苛立つ。
「あ、いや、そんなわけないって! 全然! あぁ、えっと」と必死に言葉を探したが、もはや手遅れだと、おれの中の何が言っている。生まれてから刷り込まれている、この島の常識。
目立ってしまってはいけないのだ。おれみたいなクラスの端っこでさえ、ちょっと出っ張ると打たれてしまう。
箱女の手紙のことが思い出された。
逸脱は悪なのか?
逸脱を擁護する箱女と水無月リコは、まったく逆の考えを持っている。
水無月にとっては、目立つことこそ一番の悪であり、その津田響に好意を寄せるおれは同罪というわけだ。
「すっごい汗かいてんじゃん。だ・い・じょ・ぶぅー? ぶいじょうだぁー?」
「あ、う、うん」恐る恐る顔を上げる。
「汗臭いとモテないぞ?」
「っ!」
瞬間、目に強い刺激を受け、反射的に瞼を閉じた。
顔に何か霧状の液体がかかったのだ。
人工的な柑橘系のにおいがして、直後、目に激痛が走った。
激しくむせた。
目が、膨らんで弾けてしまいそうだ。
痛い。いてえ、なんだよ、これ!
立ちあがり、目を無理やりこじ開け、教室を出ようとした。
視界が狭くなって、机に何度もぶつかりながら走った。
おれがよろめくたび、水無月の笑い声が教室中に広がった。
「すきなら、すきって言えばいいのにな」と水無月は笑った。
廊下を走っている最中も、そこにいる全員がこっちを見ている。
そして、あぁ、よかったと安堵の息を漏らしている。
俺は/私は観察者でいられるのだ、と。
水無月よりこいつらに腹が立った。自分がよければそれでいいって魂胆だ。
便所には誰もいなかった。
蛇口を激しくひねり、声を押し殺しながら目を洗った。
制汗スプレーをかけられたんだと、途中でようやく気付いた。
おれが何をしたんだよ?
津田響が、ちょっとかわいそうだって、思っただけじゃないか。
クラスの誰もが、絶対そう思っているはずなんだ。
おれだけじゃない。あいつら全員そうなんだ。
だから、おれだけにこんなのおかしいよ。
水無月だって、よく考えたら津田響がかわいそうだって思うんじゃないか?
お前だって人間なんだ。おれと同じように考えられるはずだろ?
目の痛みは少しだけおさまってきたが、鼓動は激しくなる一方だった。
……あれ?
おれは鼻をひくつかせる。
ここは男子トイレだぞ。
なんで、麟粉のにおいがするんだよ。
どうしてあの、忌々しいざらつくにおいがするんだ?
「ね、バカッコイイ動画ってーの、あたしもやりたいんだけど?」
水無月。
熱くなった血が、一気に醒めていく。
彼女は男子便所だということなど気にせず、ずけずけと入ってきてこちらを一瞥する。
そして腕を振り下ろした。
何が起きたかわからないが、口の端に痛みを感じ、かんかかん、と硬質な音がした。
床には、投げつけられたピンポン玉が落ちていた。
「ダ・メじゃーん。ほら、早く拾って!」
水無月はピンポン玉を蹴り、笑った。
球は、小便器の端に寄りそうように転がった。
「口で拾ってね」
「え?」
「ね? あーん」
嘘だろ?
さすがに、ここまでさせないよな?
「あー、ん♪」
甘えたような声。有無を言わさず服従を強いる。逸脱は許されない。
彼女の麟粉を吸いすぎていて、彼女の考えに躾けられてしまっている。
おれは歪んだ笑いを浮かべ、口を大きく開けた。
小便の煮詰まったにおいがした。
殴り合えば絶対に勝てるこの女を、どうして殴れないんだろう?
泣き叫ぶまで殴り続け、「二度とこんなことをするな」と言えばいいじゃないか。
なのに、できない。
おれは生まれてから、なにかと戦ったことが一度もない。もちろん、自分自身とも。
なぜ、おれは従うのか? 従ってしまうのか?
水無月は、人を使うことに慣れている人間だ。臆病なおれは、「従った方が波風が立たない」と、言い訳することに慣れ過ぎている。
水無月も肌で感じているんだ。
強者と弱者。いじめる人間と、いじめられる人間。
ただ、それだけ。
水無月が気に喰わないと思った津田響。
彼女を好きなおれ。
それだけでこんなことに。
余計な抵抗はやめたほうがいい。事態は悪化する。今できるのは愛想笑いを浮かべ、小便の臭いに慣れ、少し早く訪れるようになった夕暮れをそっと待つだけだった。
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