第2話 みんなと違うというのは、とても面倒くさいことなのだ。

「夏目漱石は大学で教授をしていた際、『I LOVE YOU』をどう訳するかについて、学生にこう説明した。『愛? そんなの日本人の感覚にない。月が綺麗ですね、とでも訳しておけ』とね」

 現代文の教師が得意気にそう言った瞬間(ぼんやりとしか聞いていなかったが)、終業のチャイムが鳴った。

「ま、新時代に生きる君らは、月が綺麗なんてそんな遠まわしを嫌うだろうね。『愛』という言葉を難なく使いこなしてしまうかもしれない」と、教師は残して去っていった。

 おれは周りの生徒が立ちあがる音でハッとし、焦って手紙を机にしまいこむ。

 箱女からの手紙。

 授業中だということをすっかり忘れ、読み耽ってしまっていたのだ。

 明日からは連休だと、教室中、めいめい充足感に満ちた声を上げ、グループを作り始める。

 おれはじっと気配をひそめ、机の中で手紙を握り締めた。

 クラスの担任が入ってくる。ポロシャツの襟を立てた男の体育教師。

 小さなざわめきを残し、概ね静かになる。

 全員が着席すると、教壇の目の前の一つの空席が嫌に目立った。

 担任はそこに目をやり、「今日も津田は来ていないのか?」と苦々しく言った。

 誰も答えないので、教師が続けて「理由を聞いているものは?」と尋ねる。全員黙ったまま。

 しばらく沈黙が流れた。

 教師はため息をつき、もごもごと終了の合図をして去っていった。

 教師が去った後も、教室には気まずさが残った。

 帰っていいはずなのだが、みな、なんとなく席を立つものの出ては行かない。

 誰かが教室を出るまで、席に座ったまま様子を見ることにした。

 とにかく目立ちたくない。

 おれは中学二年生としては周囲より頭一つ大きく、立った時点ですでに悪目立ちしてしまう。

 みんなと違うというのは、とても面倒くさいことなのだ。

 ふと、教壇の前の空席を見た。

 先ほど担任が話題に出した、津田響の席だ。(彼女を「津田」とも「響」とも呼べる間柄ではなく、「津田響」としか呼べない。距離がわからないのだ)

 彼女はファッションモデルをしている。ここはごく一般的な私立中学校なので、芸能活動をしている彼女はひどく浮いていた。

 実際、身長は高く、肌荒れの目立つほかの女子とは違って垢ぬけていた。綺麗な肌をしており、学校にも整った薄化粧をしてきていた。

 派手な染髪は校則で禁止されているが、モデルの仕事のためという名目で、白に近い灰色のボブカットを許されている。

 おれの腕よりも細いような脚をしていた。太ももから足首にかけてほとんど太さが変わらないので、作り物めいて見えた。(それを見て「踏まれたい」なんて笑い合っているやつもいた)

 表情は常に冷たく大人びていて、別の世界の人間にしか思えなかった。

 この島の中しか知らないおれにとってはあまりに眩しかった。


 一度だけ津田響から話しかけられたことがある。

 およそ半年前、新学期が始まってすぐ。放課後、家に帰る気にならなかったおれは教室で独り、安部公房が著した『箱男』を読んでいた。何周も読んでいるが、本を開くたび落ち着いた。

「『箱男』ですか」

 その日登校していなかった津田響が教室に入ってきて呟いた。(担任に、親と一緒に呼び出されたのかもしれない)彼女は特に笑いかけるわけでもなく、ただ、「『箱男』、ふん、ふん」と頷いていた。津田響は自らの机の中身を鞄に押し込み、教室を去った。

 おれは一言も返すことができず、呆気にとられていただけ。

 たったそれだけの些細な記憶なのに、おれはさも大切なことみたいに反芻する。

 津田響も、『箱男』を読んだことがあるのだろうか。

 それだけで彼女に対し、特別な共感を覚えてしまっていた。


 ……そのうち誰ともなく教室を出始めた。

 おれは我にかえる。今は、津田響のことなんか考えている場合じゃない。じっと彼女の席を見つめていたことを誰かに気づかれた気がして、みんなに続き、急いで教室を出ようとした。

 だが、思わず脚が止まった。

 おれの大嫌いな、あの甘ったるい笑い声がした。

 耳を塞ぎたいくらいだが、たとえそうしても耳以外の穴から滑り込んでくる。

「えー、私、津田さんと仲良くしたかっただけだけどなー、なー、なー、なー」

 甘えたような猫なで声の主は、クラスメイトの水無月リコだ。

 津田響の席への視線を、最も悟られてはいけない相手だった。

 水無月は、校則にギリギリひっかからないようにスカートを短くし、柔らかそうな太ももを露わにしている。栗色の髪を指先でいじりながら大きな目を細め、周囲の女子と談笑していた。

 彼女はいつも、サイズの大きいベージュ色のカーディガンを羽織っている。

 取り巻きの女子たちは、水無月と同じような着こなしをしている。彼女を中心にして、水無月に気にいられようと話しているように見えた。

 水無月は、誰かを試すような目つきで教室を見回して笑った。

 我先にと、賛同の笑い声。

「いや、リコピンやりすぎだって」「でもさ、あの子感じ悪いもんね」「ゲーノージンだからって、あたしら見下してんのミエミエ」などと、女子たちの水無月の気持ちに同調しようとする声が聞こえる。

 それでも水無月は、「だからあ、津田さんとは仲良くしたかっただけだってばぁ」と裏返ったようなハスキーな笑い声をあげる。

 教室中全員に聴こえるような大声で話す。いや、意図して全員に聴こえるように喋る。

 自分がどんなことを考えて過ごし、今、何を求めているかを全員に察するよう強要しているんだ。

 教室中に麟粉をまいている。服従を迫るにおい。

 そのにおいにむせかえった。

 鼻の奥が粉っぽくて、吐き気がするほど甘ったるくなる。

 津田響は、水無月を中心とする女子のグループにいじめを受けていた。

 いじめに理由を求めるのは難しいことかもしれないが、津田響が芸能人だからというのが、一番の理由だろう。目立っていること自体が罪だ。

 出る杭は打たれる、なんて言葉があるが、教室でまさしくそれが体現されている。

 津田響が他の生徒とは明らかに違う。(灰色の髪からしてそうだ)男子から人気のある垢ぬけた存在であることが、気に喰わないという嫉妬。

 おれはいつもその惨状から目を背けていて、実際どこまでのことが行われていたのか知らない。異性であることいいことに、厄介事から距離を置いていた。

 津田響がずぶぬれで教室に帰ってきたときも、彼女の弁当がごみ箱に突っ込まれていたときも、何も言うことはできなかった。ほかの生徒もやはり、口を出すことはできなかった。

 彼女の首にビニール紐を結びつけ、「散歩」と津田響を四つん這いで歩かせたりもしていたときもある。

 教室は、必ず水無月の下卑た笑い声に包まれ、付き添うように他の女子の笑い声が聞こえるのが日常だった。残りの生徒は見て見ぬふりをするだけ。

 教師から咎められることもなかった。

 水無月は、絶対に声を荒らげるようなことはしない。猫なで声で、さも親しく話しているように振舞い、対象を痛めつけるタイプだった。

 教師が見逃しやすく、気づいたとしても厄介事であるいじめを黙殺しやすい方法でもあった。

 水無月に目をつけられるというリスクを冒してまで、津田響を助けたいというやつはいないようだった。おれも含めて。

 おれは津田響に好意のようなものは抱いている。

 でも、庇うだけの勇気……いや違う。庇う価値があるか値踏みしてしまっている。

 津田響に感謝されても、水無月に嫌われたら、(決して言いすぎではなく)人生が終わってしまう。

 いるだけで息苦しい。

 早く教室を出よう。

 だが、前に座っている男子生徒・Sが話しかけてきた。

 苛立ちが募るが声を荒らげてはいけない。

似鳥にとりさぁ、これ知ってる?」Sはおれに笑いかける。Sは仲がいい訳ではないが、席が近いからたまに喋る。マスクをしていて、声がこもって聞きとりづらい。Sが年中かけているマスクは、風邪をひいているのではなく、それに依存しているのだ。

 マスクに頼って気が大きくなっているに違いない。顔の一部が隠れているということは、それだけで人を安心させるのだ。

 彼の手にはスマートフォンが握られ、画面をおれに見せてくる。

 無料動画投稿サイトで、その動画は『バカッコイイ! 男子高校生の放課後』と銘打たれていた。


――どこかの学校の教室らしき場所。

 テーブル上に置かれたカメラのすぐ手前に、紙コップがある。

 奥には、カメラに背を向け、黒板に向かって立つ一人の男子生徒。

 カメラマンだろうか、数人の男の笑い声が入る。

 男の手には黄色いピンポン玉が握られている。

 彼は涼しい顔のまま、ピンポン球を黒板に向かって投げつけた。

 球は跳ね返り、教壇でワンバウンドし、そのまま紙コップに入る。

 歓声が上がり、球を投げた生徒が振り返ってガッツポーズ。

 ……その後も、壁に反射させるなど婉曲的にピンポン球を入れるシーンが、四つほど連続した。


 どうして、こんなくだらないことをやって喜んでいるんだ?

 何より、どうしてSはわざわざこんなものを見せてくるんだろう?

「似鳥、これ明日一緒にやんね?」

 ゾッとする。自己満足でやっているならまだいいが、全世界に発信しようってんだから血の気が引く。

 こんなもの、誰も見ているはずないだろう……と思いかけて、少なくともSとおれはこれを見た人間の一人になっていることに気付いた。

「あ、え」

 笑っちまう。いや、笑ってくれ。

 今の「あ、え」はおれの声だ。

 こんな偉そうなことをダラダラ考えておいて、おれの口からは意味を持たない「あ、え」しか出なかった。

 ノリが悪いとは思われたくない。でも、軽薄だと思われるのは嫌だ。

 キョドって変だって思われんのが一番嫌なはずなのに、「あ、え」は、どう考えたって、挙動不審以外の何物でもないだろう。どう思われるかばかり考えてしまい、この教室の中でこれ以外の反応ができたことがほとんどない。

 Sはおれの反応を見てため息をつき、「やんの、やんないの?」とせっつく。

「あ、えと、ん、どう、しよっかな」。バカ、おれ、そうじゃない。

 こんなくだらねぇこと誰がやんだよ。それよりさ……。

 そうだ。こう言ってやればいいんだ。

「もういいや。おーい、お前ら……」

 Sは離れ、黒板の前でたむろっている別のクラスメイトに声をかけに行く。

 彼が見せた動画に彼らは食い付き、笑いながら小突きあったりしている。

 あんなもん羨ましくもない。

 心がざわつくのは、おれがいらついているからだ。

 机の中で箱女からの手紙を握りしめた。

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