熊猫

「あー、充電がねー」


今日初めて発せられた彼女の声を聴いて僕はソファからチラリと彼女の様子を伺う。相も変わらず彼女はすぐ横のベッドでごろごろとしながら一心に携帯を弄っていた。一日ずっとこの調子だ。昨日から着替えずにいる白シャツ黒スカートの格好が相俟ってまるで動物園にいるパンダのようだった。

そんな彼女に話しかけようか迷っているうちに彼女の独り言がどんどん大きくなり、重なり始めた。


「うわ後藤からメール来たー。無視しよー」

「中学の友達からもメール来たー。だりー」

「今日はSNSインしないのってお前は私の彼氏か。彼氏なら横にいるので充分だっつーの」

「あー充電がねー」


さり気なく嬉しいことを言われながらも終始無表情な彼女にどう反応して良いのかわからなかった。

すると午後五時頃を告げる豆腐屋の独特な音が外から聞こえてきた。そろそろ夕食の支度をしなくてはいけない。


「パープーうるせー」


視線は携帯から動かないものの豆腐屋の音に対して反応した彼女を見て僕は勇気を出して話しかけることにした。


「夜ご飯、何か食べる……?」

「いらねー」


即答で断られてしまった。無視されなかっただけ良かったものの、これじゃあ結局彼女は丸一日何も食べないことになるじゃないかと心配になった。ずっとベッドでごろごろしてるだけだからだと言って何も食べないのは駄目だ。いくら肉は食わないパンダでも笹は食ってる。その上、彼女は水分ですら僕が彼女の枕元にストロー付きのお茶を差し出してなかったら一切口にしないところだった。

けれどそんな彼女にどう接して良いのかわからず、しっかりしろと怒ることも出来なければどうしたのと優しくすることも出来ない。一体、何をしたら彼女の為になるんだろう。


「通知うぜー。通知切ろーかな」


もしかしたらそのうちお腹が空くかも知れない、そう思い僕は夕食の支度をしようとキッチンへ向かった。

大き過ぎず小さ過ぎないキッキンは昨日までとは打って変わって今では悲惨な状態となっていた。朝、昼と僕が慣れない料理をしたからである。自分の料理の出来なさに辟易しながらも傍に掛けてある可愛らしいピンクのエプロンを身に着けて何かを作ろうとした時だった。


「マンガァ? 何も読まねーよ。メールしてくんな」


その一言で僕はふとある疑問が頭を過ぎった。

彼女は一体何を見ているんだろう?

独り言によるとメールでもなければSNSでもないし、かといって音は出ていないから動画でもない。元々スマホゲームに興味がないのでそれも有り得ない。てっきり電子書籍でも読んでいるのであろうと思っていたのだが、どうやらそれも違うらしい。

携帯で何を見ているのか気になった僕はベッドへと向かい、そっと彼女の隣へ潜り込んだ。肩と肩がぶつかるくらいの距離になっても彼女は招き入れることも嫌がることもせずにただ黙々と携帯に集中している。それが更に僕の好奇心を奮い立たせた。

彼女の見る携帯の画面を見て、僕は後悔をした。

僕より少し年上の見知らぬ男の写真がそこにあったからだ。テレビですら見掛けたことがない全く知らない男が笑顔で写っている。写真自体の画質がやや悪かったのでぼんやりとしているものの、なかなかのハンサムであった。しかもそんな写真が何枚もあったのだ。

彼女はその男をズームしては眺め、写真をスライドさせては別の写真のその男を眺めを延々と繰り返していた。


「誰、その人……」


自然と声が盛れていた。隣で寝転んでいたせいか、その声は彼女にもはっきりと聞こえたようですぐに返答が来た。


「パパ。私が産まれてからは撮ってばっかで写真無かったんだって」


僕は後悔をした。そして彼女へどう接して良いか余計にわからなくなってしまった。

気まずさすら感じる僕の隣で彼女は独り言を続ける。


「あー充電がねー」

「もう大丈夫だっつーのにホントしつけーなー」

「あー充電がねー」

「充電器どこいったんだよクソがー」

「あー充電がねー」

「……消えちゃう」


気が付くと僕はベッドどころが家を飛び出していた。頭もボサボサで部屋着のまま、そして僕には全然似合わないであろうエプロンを身に着けたまま。

僕を見た途端にギョッとした顔をするコンビニ店員に五千円札を渡し、お釣りも貰わずに家へと走り続けた。

玄関を通りベッドまで戻った時、彼女は再び何も話さなくなってしまっていた。僕は慌てて充電器を取り出そうとパッケージを開封する。なかなかに頑丈な作りをしていて、途中、プラスチックの部分で指を切ってしまった。けれど激痛が走ろうが血が溢れようがそんなの構いやしなかった。

不器用ながらも何とか充電器を取り出し、すぐさま彼女の携帯へと取り付けて無事に充電をすることが出来た。残り1パーセントのところだった。

安堵としたと共に先程までの疲れが一気に僕を襲う。汗も心臓のうるさい鼓動も止まらなかった。

僕は荒い呼吸を整えるのも忘れ、携帯ごと彼女の手を両手で包み込んだ。


「絶対、消させないから……僕が守るから」


声を震わせ、ぼろぼろと大量の涙を零しながら必死に伝えた。こんな時にも彼女より泣き虫な自分が情けなくて不甲斐なくて、きっと僕なんかじゃ安心出来ないんじゃないかとすら思えた。それでも彼女は携帯から視線を外し、僕の目をしっかりと見てくれた。


「……ありがとう……」


今にも泣き出しそうな弱々しい声で呟きながら、彼女は微笑んだ。白シャツ黒スカートの格好と、ここ数日ですっかり真っ黒になってしまった隈が相俟ってまるでパンダのようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

何でもない唯の日常を綴る 蛇穴 春海 @saragi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ