羽化
暑い夏の日、熱く俺を照らす太陽と青く澄み切った空が心地良い。蝉が力一杯に行う合唱の中で俺は自販機のボタンを押した。ガタンと音を立ててコーラが取り出し口へ落ちる。こうして手に入れた1本のコーラを持って小走りで公園の前へ行ったが、彼女がいない。
最近付き合った彼女はとてもマイペースな子だった。デートの度に毎度の如く遅刻し、今日も遅れてやってきた。付き合いたてということもあり彼女の可愛さで今回も流してはいるが、いつも10分前行動をしている自分としてはいい加減注意くらいした方が良いんじゃないかと思えてくる。そして今もそんな彼女に振り回されているようだ。
先程、一緒に買い物を行く途中で「喉が渇いた」と呟いた彼女を公園の前に待たせて自販機でジュースを買ってきた。しかし待たせていた場所に彼女がいないのだ。
「もしかして悪い男に捕まったんじゃ……」
彼女はとても可愛い。しかしマイペースな性格故に押しに弱いのだ。まあそのお陰で付き合えたのかも知れないと思えるのだがそのことについてはあまり考えないようにしよう。兎に角今は彼女の安否が心配だ。
嫌な考えが過ぎり心配で堪らなくなった俺はキョロキョロと辺りを見渡す。するとすぐに公園の隅でしゃがみ込んで何かを真剣に見つめてる彼女を発見した。どうやら余計な心配だったようだ。
ほっと安心した俺は彼女の元へと寄る。
「……飲むか?」
俺に気付いた彼女はしゃがんだままコーラを受け取り「ありがとう」と微笑んだと思うと飲むどころかキャップも開けずに視線を戻し俯いた。
「どうした? そんなに下ばっかり見てちゃ良いことなんてないぞ? もしかして腹でも痛いのか?」
再び心配になり始める俺を他所に、彼女は「見て」とある一点を指差した。彼女の目の前にあるのは公園の仕切りに使われているただの植物だった。
「ほら、この子。蛹から蝶になろうとしてる」
彼女がそう言うので俺も同様にしゃがみ込んで見てみるともうすぐ飛び立たんばかりの蝶がいた。
「おお、本当だな」
「さっきからゆっくり体を動かしてるの」
「そうだったのか」
気付かなかった。公園の隅、しかも足元に今もこうして生きようとする生命があったなんて、きっと俺じゃ気付くことはなかっただろう。
「あっ、蟻がこっちに来てる」
蝶がいる細い幹の根元に近付く蟻の列を見つけた彼女はポケットから何かを取り出そうとしていた。
「退治でもするのか?」
「そんな可哀想なことはしないよ」
彼女が取り出したのはよく彼女が持ち歩いている2枚入りビスケットのプレーン味だった。封を切りビスケットの1枚を細かく砕くと彼女はその破片を列の先頭にそっと置いた。
「ごめんね。これあげるからこの子は見逃してあげて」
突然目の前に置かれたものだから蟻は少し驚いたのだろう。列は少しだけ乱れたがすぐにビスケットの破片に気付くと次々と蟻は破片を持ってUターンしていった。
その様子に微笑む彼女の横で俺は「退治」なんて言ってしまった自分が恥ずかしくなった。いくら感情移入している蝶が襲われるかも知れないと思っても、蟻もまた必死に生きてるのだ。そんな蟻に酷いことをしようと考えていた自分が恥ずかしかった。
「ほら見て。もうすぐ飛び立ちそう」
どうやら彼女はそんな自分を一切気にしていないようだ。今度からはああいう考えをするのはやめようと切り替え、自分も蝶の観察を再開した。
目を離していたうちに蝶は大きく羽根をバタつかせるようになっていた。もう飛び立てそうだ。
そう思った時、蝶の体がふわりと浮かんだ。
「あっ」
それは蛹から完全に蝶へと成った瞬間だった。ぎこちなくゆっくりと動かしていた羽根は綺麗に舞えるようになり、蝶はあっという間に空へと飛び立っていった。
お互い立つことなんて忘れたかのように首だけ空を見上げていた。小さくなっていく蝶に見とれていると彼女が言った。
「空、綺麗だね」
空は朝から同じだったのになんて思いながらも俺も「綺麗だな」と言った。いつも前を見て生きていた俺は空なんて常に視界に入っていたはずなのに。いつにも増して空が綺麗に見えたのだ。
たまには下を見るのも良いな、なんて思えた。
すっと立ち上がった彼女は「コーラ、ぬるくなっちゃったね」と笑いながらキャップを開け飲み始める。
「また買えば良いさ」
「2本も飲めないよ」
くすくすと笑う彼女。俺はそんな彼女を好きになったんだ。
暑い夏の日。熱く俺達を照らす太陽と青く澄み切った空が心地良かった。
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