何でもない唯の日常を綴る
蛇穴 春海
少しだけ特別な朝
雀達の声が聞こえた。黒に近い無色の中でちゅんちゅんと、何処からともなく声がして私はうすらうすら意識を覚醒させた。
瞼を上げ数秒、ピントが合うようになり視界がはっきりしだした。すぐ目の前のくしゃくしゃの枕とシーツが自身の髪と手に混ざり、白黒肌色のマーブル模様を作り上げている。手足を曲げ、寒さに抵抗するように小さく丸まっている体勢は昨晩眠りに就いた時と微塵も変わっていない気がした。
特に何をしようと考えることもなく目をしばしばと瞬きした後、背景のひとつと化していた小さな木製のテーブルに焦点を合わせ、上に置かれている携帯に手を伸ばした。
「七時四十八分っ?」
携帯に表示された時刻が午前七時四十八分であると認識するや否や、それを読み上げながら飛び起きた。シャワーや食事、その他の支度の時間を考えると午前七時四十八分の起床はかなりの寝坊だったのだ。目覚ましかけてなかったっけなどと独り言を呟きながらタンスの上に用意された服一式を手に取り慌ただしく風呂場へ駆けた。
部屋に戻り食事も終えると真っ先に化粧台へと向かった。
背もたれの無い椅子に座り置かれていた櫛を取る。濡れたままの髪の毛に、一回、二回、三回と櫛を通す。角度の変化と比例して動く光に水は追いやられ、やがて毛先にも行き場を失った水は空へ飛んでカーペットの中に消えた。飛んでいった水滴の中には装飾された樹木を濡らしたものもあったが、それらには一切気付く様子はない。
髪の毛を一通りとくと瞳ぎりぎりの位置まで生えている前髪をピンで留めて化粧を始めた。化粧水と乳液で顔を保湿し、普段使うことのない化粧品を使った。今日は特別な日だから特別に少しだけ化粧をするのだ、少しだけ。
化粧を終え髪も乾かし終えた。化粧台から離れ今度は姿見の前へ。そこに写っていたのは、くすんだ桃色の膝丈ワンピース、黒の太ベルト、白いソックス、赤い口紅。少し背伸びをした少女の姿だった。いつもと違う自分の姿に落ち着かず、蝋燭の様に白く細い指はベルトの前でしきりに毛先を弄っている。
「変じゃないかな………」
必要以上に何度も自分の顔と服装を眺める。そして納得すると再び化粧台に戻り一つの香水を取り出した。先日母親の化粧台から拝借したものである。それを宙に一吹きすると霧が消える前にさっと中を潜った。程よく香りが付いたことを確認すると満足そうにはにかむ。自分なりの大人の完成であった。
時刻を確認する。八時五十分。何とか待ち合わせに間に合いそうだ。
忘れ物はないか、念の為に鞄を広げる。財布、口紅、ハンカチ、ちり紙、ハンドクリーム、小箱、そして携帯。よし、と鞄を閉じた。青いリボンが括られた小箱がりんと鳴る鈴の様にことりと鳴いた。
外は凄く寒いからもこもこのコートを着よう。マフラーと手袋はそれぞれワンピースに似合う色を。温かいと可愛いを欲張ってしまおう。
身支度を済ませ玄関へ。靴もいつもは履かない黒のショートブーツを選んだ。転びそうで避けていたけど今日は少しだけ大丈夫な気がする。小箱を受け取り喜ぶ彼を想像しながらドアノブを捻る。
「いってきます」
振り返り、少しだけきらびやかに模様替えした部屋にそう告げ外へ出た。そして冷気を感じた時、今夜は雪が降ると良いな、と少しだけ期待したのであった。
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