歯車の歯

 何処にでもありような白い商用車ワゴンが、街中をゆっくりと走行している。不自然にゆっくりと走るそれは、まるで誰かを探しているようだった。窓ガラスには、スモークフィルムが貼られていて外からは何も見えない。


 運転している森本の瞳は、極度の興奮と睡眠不足で充血していた。


「まあまあ、落ち着けやなぁ、聖也?」


 そう言って森本の肩を軽く叩く助手席の郁生の声、も幾分か興奮気味であった。


「落ち着いてるよ。オレはよぉ……ドリームガールが現れたんだぜ、現実によ……こんな時にこそ、でもマジで……ってか何で、京一はこなかったんだ。ちっくしょうあの野郎……」


 森本は戻ってこなかった京一のことをぶつぶつと罵った。


「まあまあ、あのガキはあとで締めればええじゃねえか。それに今日は、友だちも来てくれとんじゃし、ええんじゃないかのー」


 不適な笑みを浮かべながら、郁生は後部座席を一瞥する。


 色の入った眼鏡を掛け、口髭を生やした男が後ろでニヤニヤしながら機材をいじっている。郁生の視線に気が付く口元を更に緩ませた。


「仕事はプロフェッショナルでちゃっちゃと頼むでー! 高い金払うとんじゃからのー」


 郁夫は再び視線を運転席に戻す。森本はまだひとりで何かぶつぶつ言っている。


 郁生は胸で十字を切ると、手の甲にそっとキスをした。


「あら? 郁ちゃんってそっち系だったっけ? ひょっとしてこれからすることに対して、気が咎めちゃうって?」


 後ろで黙って機材をいじっていた口髭の男が、目敏く郁生の仕草に気が付いた。


「……ふん」


 郁生は何も言い返さずに窓の外を見た。


「でも本当にいいのかい? これやっちゃうと、もう引き返せないよ。オレは別にいいけどさ。聖也ちゃんは大学生でしょ? 将来なくなっちゃう、かもよ」


 口髭は身体を前の席に乗り出してきて、更に続ける。


「ここまでこんな機材持って来といて、こんなこと言うのも何だけどさ。まだ間に合うよ。ねえ、聖也ちゃん? これからドライブに切り替えるってことも出来るけど? キャンセル料はきっちり取るけどね」 


「……」


「なーんちゃって!! ひゃひゃひゃひゃっ!! そんなわけゃねーよな? リスクを気にしてたら思い切ったことなんか出来ねーよな? 聖也ちゃん? そうだろ?」


 口髭は後ろから運転席へ手を伸ばすと、森本の肩を力一杯揉んだ。


「うわっ!」


 森本のハンドルを握っていた手に力が入った。一瞬、車体が中央線を越える。対向車に激しくクラクションを鳴らされて、彼は慌ててハンドルを戻し車体を先の内側へ入れる。


「ち、ちょっとやめて下さいよっ! 危ないじゃないですか!」


「ひゃひゃひゃっ! 聖也ちゃんはおもしろいなぁー。なあ、郁ちゃん?」


 口髭は楽しそうに郁生の方に笑いかける。手はまだ森本の肩を揉んでいる。


「そうじゃな。聖也はちーと心配性じゃのー。人生は一瞬じゃけん、大急ぎで羽ばたかにゃいかんのじゃ。じゃないと、一生後悔するんじゃけんのー」 


 郁生は得意げにそう言って笑った。


「そうそう、流石郁ちゃんいいこと言うじゃん! オレたちはこの一瞬に生きる! だろ?」


「当にその通りじゃのー」 


「……」


 これから起ころうとしている楽しいことだけを考えると、森本の頭はもう正常に働かなくなっていた。この後のこと、将来のことなんてどうでもよくなっていた。


 人生は一瞬で、楽しんだ者が勝ちである、弱者はいつか強者に喰われてしまうと、彼は思っていた。もうそれ以上のことは考えられなかった。


「おい? あれ結構いいんじゃねぇ?」  


 森本の肩をしっかり掴んだまま、口髭が前方を歩いているパーカの少年を指差した。


「ありゃ男じゃないんか? のう、聖也?」


「ド、ドリームガールこ、降臨……ぐ、偶然、ひ、必然、これは運命!? うひゃ!」


 この瞬間、壊れかけていた森本の心は完全に崩壊した。


「……ビンゴみたいじゃな! 聖也、落ち着いて上手くやれや」


 森本は再び巡り合えた少女のことを、これは神が自分のためだけに与えてくれた、特別な贈り物なんだと彼は本気で信じていた。

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