つながり

 水曜日の午後、りょうはひとりでバスに乗っていた。行き先は、大学病院。


 その日学校を休んだりょうは、午後になって少し気分が良くなったので、近くの薬局まで自分で風邪薬を買ってくると、母親に告げて家を出た。


 外は悲しい程の晴天だった。


 太陽に照らされている明るい街を、ぼんやりと眺めながら、りょうは仁栄のことを考えていた。彼とは三年生のときから、同じクラスだった。しかし最近、実はもっと以前から彼のことを知っていたのではないかと、彼女は疑いはじめていた。




「ちょっとー! 私の消しゴム勝手に使わないでくれるぅー?」


「おまえ生意気なんだよー!」


「ちょっとー! 押さないでくれるぅー?」


 りょうは勝気な性格で、いつも男子と喧嘩をしていた。


 彼女が二年生の時だった。四月のある日、りょうは学校からの帰り道、公園で二人の男子に捕まった。


 一人は以前、りょうが喧嘩して泣かした同じクラスの男子で、もうひとりはその兄だった。


 弟が女子に喧嘩で負けたことを聞いて、兄は弟と一緒に仕返ししてやろうと、りょうの家の近くの公園で待ち伏せてしていたのだ。


「兄ちゃんこいつだよ。女のくせに生意気なんだ」


「ふん、ガキがよぉ」


 突然、兄の方がりょうに向かってきた。いくら勝気でよく男子と喧嘩をしているりょうでも、年上の男子には力で負けてしまう。


 りょうは、あっさりと兄に頭を脇に挟まれると、ヘッドロックの状態で締めあげられた。


 身動きが取れない状態で、後ろから弟の方が、りょうの太もも辺りを蹴ってくる。


 あまりの苦しさと悔しさに涙が零れそうになる。声を上げたくても締めあがられている為、苦しくて声が出せない。

 

 パニックがりょうを襲い始めたその時だった。


 りょうを締め上げていた腕が一瞬緩んだ。

 

 突然放されたりょうは、その場に膝から崩れ落ちて手を突いた。


 顔を上げると、ぼやけた視界の向こうで三人の男子が何か言い合っているのが見えた。


「おまえら、女子相手に何やってんだよ!!」


 少年の声はかすかに震えていた。


「なんだおめー? 関係ねーだろー!」


「あっ兄ちゃん、オレこいつ知っている。おまえ、二組の中国人だろ? 女の前だからってかっこつけんなよな!」


 涙のせいで歪んで映し出される映像。


 身体の大きな兄に体当たりを食らわせて割って入って来た少年。


 その少年に掴みかかる弟。


 あっという間に少年に馬乗りになる兄。


 下になりながらも必死に相手の襟を掴んで離さない少年。


 弟がサッカーボールを蹴るように、下になっている少年の腕を何度も何度も蹴る。


 地面にガラスの破片か何かが落ちていたのか、蹴られた少年の腕から血が流れ出していく。


 その赤い血が砂や埃と一緒に少年の着ている白いシャツに付着していく。


 りょうの記憶に、その映像が鮮明に焼きついた。


 しかしその後のことは、記憶がおぼろげだった。


 公園の隣の家に住んでいた老婦人が、喧騒を聞いて駆けつけてくれた。老婦人が駆けつけて来たため、兄弟は一目散にその場を走り去っていった。


 りょうが次に覚えていることは、彼女に公園の噴水で傷を洗ってもらったこと、家まで送ってもらったことだった。公園の噴水で傷口を洗ってもらった時には、少年は何処かへいなくなっていた。


 時と共に記憶も曖昧になっていき、いつの間にかりょうはその出来事自体を忘れてしまっていた。


 そしてあの日、リバーサイドパークで頭から血を流して倒れている仁栄を発見したとき、二年ぶりにあの少年のことを思い出したのだった。




 病院の入り口の前でりょうは足を止めた。


 平日の昼下がり、普通ならまだ学校に行っている時間である。このままひとりで受付を通れば何か言われる可能性がある、りょうがそう思ったとき、ちょうどお腹が鳴って閃いた。


 りょうは、表からではなく食品業者専用の裏口から入ることに決めた。


 何度も迷いそうになりながら、なんとか病室へと辿り着いた。


「あら、あなたは確か……」


 りょうが部屋に足を踏み入れると、パイプ椅子に腰掛けて編み物をしていた、仁栄の母親が顔を上げた。


「勝手にやってきてしまってすいません。深水くんのクラスメイトの佐々木りょうです。どうしても深水くんの様子が気になって、学校を休んでひとりで来てしまいました……」 


 りょうは正直にそう言って、丁寧に頭を下げた。


「……そう。わざわざどうもありがとうね、佐々木さん。どうぞ、座って頂戴」


 母親は咎めることは一切言わず、りょうのために折り畳みのパイプ椅子をひとつ広げてくれた。


「ありがとうございます……」


「佐々木さんは、仁栄と仲良くしてくれていたのね。本当にありがとうね」


 いつも仁栄と喧嘩ばかりしていたりょうは、なんと答えていいのか迷った。


「喧嘩するほど、仲がいいってね」


「え?」


 母親は悪戯っぽく笑った。


「驚かせてしまったかしら。ごめんなさいね。仁栄は自分から学校のことをあまり話したがらないんだけど、親としては気になっちゃうから、どうしても聞いてしまうのよ。だからあなたのことや、石川さんのこと、相川くんのことはちょっとだけ知っているの」


「そうなんですか……」


「あの子に学校でのことを聞くと、必ずと言っていいほど、あなたの名前が出てきたわ。だから正直、私はあなたがどんな子なのかずっと気になっていたの。でも、仁栄のいつも話してる印象と全然違ってたんで、驚いちゃったわ……ごめんなさいね」


 母親は口に手を当てて笑った。


 りょうの最初の印象とは変わって、いつの間にか母親は明るいおしゃべりな友人のお母さんとなっていた。


「……仁栄くんはどんなことを言ってたんですか?」


 りょうは思い切って聞いてみた。


「うーん。あなたのこと、江戸時代の喧嘩屋だとか、男より男みたいなやつだとか、失礼なことばっかり……ふふふ、ごめんなさいね」


「……」


 いつもの彼女なら、大声で彼を怒鳴っていただろう。しかし、傍で眠っている姿の仁栄を見ると、りょうは悲しくなってきた。


「本当にごめんなさいね。こんなに綺麗なお嬢さんを捕まえてねえ? まだ子供だから、かわいい子には素直になれないんじゃないのかな。許してあげてね」


「え……いや……」


 綺麗だとか、かわいい子だとか、今まで言われたことのなかったりょうは狼狽えた。


「起きたらとっちめてやってね」


 母親はそう言って、笑いながら息子の方を見遣る。それから突然、何かを思い出して声をあげた。


「そうだ! 洗濯物取り込んでこなくちゃ。悪いんだけど佐々木さん、少しの間ここにいてくれないかしら?」


「は、はい」


 母親はりょうにお礼を言うと、空の洗濯籠を掴んで部屋を出て行った。


 部屋は忽ち静寂に包まれ、コンピュータの音だけがりょうの耳に聞こえてくる。


 ふと、りょうは眠っている仁栄の腕の方に目を向けた。腕には点滴の管が通され、パジャマの袖が上腕のところまで捲くられていた。むき出しの上腕部分には一センチ程の切り傷の跡が見えた。


「……うそ、どうして」


 りょうは恨めしそうに仁栄を睨みつける。


「……どうして、わたしを助けてくれたの……わたしのこと、知らないくせに……どうして助けたのよ……知らない仔犬なんか……」


 彼女はベッドに突っ伏して泣いた。そして、くぐもった声で言った。


「……早く起きてよ……お願いだから……」


 少年は何も答えず、静かに眠っていた。

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