心の印
増田朋美
心の印
心の印
暑い日だった。どこかの地方都市では、気温が三十六度を超えたほど、暑い一日だった。さすがに、この辺りでは、そのような暑さを出したというわけではないのだが、それでもやっぱり暑いと感じさせる一日であった。これからそういう暑さで当たり前になるという気象庁の予言もわからないわけではないけれど、できることなら、三十度程度にとどまっていてくれないかと願ってしまうのが、一般の社会でもある。
その日、蘭のもとに、一人の女性が訪れていた。名前を、岡本華寿子という、華やかな名前だったが、実際の岡本華寿子は地味で、あまり目立たない女性という感じだった。
「あたしが、この世の中に存在してもいいっていう印にしたいです。花とか鳥とか、そういうものを入れてください。」
そういう彼女も、家の中とか、社会の中で居場所がないという女性なのだろう。腕にリストカットした痕がびっしりとついていた。蘭は、その傷跡だらけの腕を、しげしげとみる。
「ごめんなさい。そういうことすると彫りにくいということは、ほかの刺青師さんがブログで書いておられました。それは十分知っています。でも、あたし、美容整形に行って、傷跡を消してしまうほどお金がありません。其れだったら、何か入れて、かくしてしまった方がいいなと思ったんです。」
そういう彼女に蘭は、
「いいえ、かまいませんよ。そういうことを求めて僕のところに来る方は本当に大勢いましたから、あ安心してください。」
と、にこやかに笑った。
「施術料金である、一時間一万円を守ってくれればそれでいいです。針はすべて使い捨てですから、衛生面でも安心してください。」
其れも付け加えておいた。確かに衛生面では、現在発疹熱が流行しているので、気を付けなければならない。しかし、なぜかこの発疹熱の流行で、蘭のところにやって来る客は、倍近く増加した。なぜかわからないけれど、自分という存在を失ってしまって、精神が不安定になっている人が多いからだろう。まあ、そうなってしまったとしても、刺青があの時こういう事もあったなと思いだすきっかけにもなってくれればいいと、蘭は思っている。
「わかりました。じゃあ、今日は、とりあえず、下絵を描きますから、何を入れればいいのか、言ってください。花であれば花の種類とか、あ、かといって、日本の文化では縁起が悪いから、あまり体に残さないほうがいいという花もありますから、注意してくださいね。」
縁起が悪い花というものがあるということも、蘭はしっかり教えておかなければならないと思っている。
たとえば、桜は散る、梅はこぼれる、藤は下がる、椿は落ちる、蝶は意思が弱いなどと解釈されて、縁起が悪いとされることもよくある。最近は、そんなことをまったく気にしないで、着物の柄などに使われてしまうようだが、かつては、結婚式などでは、これらの柄はタブーとされていたこともあった。
「わかりました。縁起の悪いものは使いませんから、そうですね、桃の花なんかはどうでしょう?」
と、答える彼女に、
「桃の花ですね。大丈夫ですよ。じゃあ、桃の花を入れましょう。桃の花は、ひな祭りにも使われることが在りますし、縁起のいい花として、いい植物ですよね。」
と、蘭は答えた。
「じゃあ、それでお願いします。」
「はい。」
蘭は、手帳を取り出して、岡本華寿子さん、桃の花と書き込んだ。
「まず、下絵を書かなければなりませんので、一週間ほどお待ちください。僕は、機械というものは嫌いですので、パソコンで下絵は描きません。」
「わかりました。今回の、刺青が、あたしがもうみじめな人間じゃないって思うためのしるしであったらいいなと思っているので、よろしくお願いします。」
と、彼女は頭をぺこんと下げて、お願いしますと言った。客は、刺青を人生のターニングポイントだと考えているのだったら、刺青師も、それを手伝うために、真剣に客と向き合わなければならないのだ。気軽に、絵柄をはり付けたりするタトゥーシールとはわけが違う。本物の刺青というものは、その人の生き方も変えてしまうことができると蘭は思っている。
「わかりました。じゃあ、来週また来てくれますか。それまでに下絵を完成させておきますから。」
と、蘭は彼女に言った。
「じゃあ、先生が下絵を完成させてくれるのを、楽しみに待っています。」
と、華寿子さんは、そういうことを言った。本当は、入れる前から、もうリストカットはしないでくれと誓いの言葉を立ててほしいと思ったけれど、それは無理そうだった。そこまで、人の心に踏み入ることは、できないなと蘭は思う。
華寿子さんを送り出して、蘭は、半紙を取り出して下絵の制作に取り掛かった。とりあえず、桃の花を描き始める。
しばらくすると、玄関のインターフォンがピンポーンとなった。誰だろうと蘭が思っていると、またなった。それが五回繰り返されたため、蘭は、杉ちゃんが来たのだとわかる。
「まったく。杉ちゃんという人は、どうしてこうわかりやすい時間帯に来るんだろうか。」
と、頭を振りながら、蘭は絵筆を置いて、玄関先に行った。蘭が玄関先につくと、もう玄関の戸は開いていて、もう杉ちゃんが中に入ってきていた。
「よう、蘭。あ、今下絵でも描いてたか?」
蘭が挨拶を考えている間に、杉ちゃんは、にこやかに言った。
「こんにちは、蘭さん。」
と、杉ちゃんと一緒にいたのは、いつものタクシー会社の運転手ではなく、ジョチさんだった。
「なんだ、お前に用はないよ。」
と蘭は言うが、ジョチさんは、平絽の巾着から手ぬぐいを出して、額の汗を拭いた。
「ええ、もちろん、用事がなければこちらには伺ったりしませんよ。お願いがあるから来たんですよ、蘭さん。それは、当たり前の事でしょうが。」
「まあまあ、上がってくれや。お茶でも飲んでゆっくり話そうぜ。」
と、杉ちゃんがそういうことを言う。まったくここは君の家じゃなくて、僕の家のなのに、と、思いながら蘭は、杉ちゃんとジョチさんと家の中に入れる。平絽の着物を身にまとったジョチさんは、お邪魔しますと言いながら中に入った。
「さ、とりあえずお茶でも飲んでよ。」
と、三人は、エアコンの効いた、蘭の家の居間に入る。杉ちゃんは、どうせ僕のうちは、エアコン聞いてないから、蘭の家のほうが都合がいいと思ってよかったよ、何て都合のいいことを言っている。
とりあえず、三人は、テーブルの前に座った。
「一体、なんで僕のところに来たんだよ。」
と、蘭はそういうことを言ったが、杉ちゃんは何食わぬ顔をして、持っていたのっぽパンを食べ始めた。
「実はですね、蘭さん。」
と、ジョチさんは、蘭にそういうことを切り出した。
「僕が、蘭さんにお願いすることは、なかなかありませんが、実は、一人の女性に施術してもらえないでしょうかね。もちろん、蘭さんが縁起を担ぐのは知っていますから、縁起の悪いものは彫らないで結構です。」
「え、僕が?」
と、蘭は思わず聞くと、
「はい。僕らの製鉄所に来ている女性なんですが、一寸前科のある女性でしてね。現在は、花屋で働きながら、病気の治療にいそしんでいますが、以前、家族の一人にけがをさせたという過去があるんです。」
と、ジョチさんは答えた。
「へえ、それじゃあ、本当に入れ墨ということになっちまうじゃないか。前科の印で入れたものを、昔は黥刑とか入れ墨の刑といっただろ?それはちょっとかわいそうじゃないの?」
と杉ちゃんが、のっぽパンを食べながらそういうこと言うと、
「いえ、そのようなことではありません。江戸時代まではそうでしたが、今は前科の印で入れ墨を入れるという法律はありません。それに、彼女はちゃんと裁判で無罪になっています。お母さまにけがをさせたのは確かですが、その前にお母さまから、ひどく叱られて、自分を守るためだと、ちゃんと証明されてもいます。」
と、ジョチさんは言った。
「そうなんだけどねえ。そういう人に、施術することは、一寸、できないよ。僕自身も、そういう人には遭遇したことないし。」
と蘭は言うが、ジョチさんは、話をつづけた。
「そういうわけですから、彼女の体に、ガーベラとか、バラといった希望を与えてくれるようなものを彫ってくれませんかね。彼女は、これからお母さまとやり直すつもりだと言っています。僕たちも、それを応援してやりたいですからね。ですから、蘭さんにお願いしたいんですよ。」
「いい話じゃないかよ。蘭。彼女の人生のやり直しを手伝ってやるためにもさ、一寸手伝ってやれよ。前科の印という意味ではなくて、彼女の新しい人生の印だよ。」
と、杉ちゃんも彼に続いた。
「で、彼女の名前は?」
と、蘭が思わず聞くと、
「はい、岡本華寿子さんです。岡本太郎と同じ岡本に、中華の華、寿、子供の子で華寿子。彼女は、先月から製鉄所に来ているんです。」
と、ジョチさんはサラリと答えた。何!僕のところに今日来た客じゃないか!それがなんで、波布が知っているんだ!と蘭は思う。
「彼女は前科者?」
と、蘭が聞くと、
「前科者というか、一度、警察に逮捕されたことは間違いありません。お母さまが怪我をされた時、
お父様が警察に通報したとかで。でも、彼女は、いま花屋さんに就職も決まり、短時間だけですけど働くこともできるようになっています。そして、お母さまともやり直そうと、一生懸命病気の治療もやっています。一応、傷害罪にもかけられましたが、ちゃんと、僕や弁護士さんの協力もあり、無罪になってくれました。いや、良かったです。そういう複雑な過去をたどってきている女性だけど、一生懸命生きようとしている印として、お願いしたいんですけどね。だめですか。蘭さん。」
と、ジョチさんは、そういった。
「しかし、彼女はどうしてお前のもとに通うようになったんだ?」
「ええ、弁護士さんからお願いされて彼女を預かることになったんです。確かに花屋で働いていますけど、たったの二時間程度ですからね。一日家にいるのも大変みたいなので、弁護士さんが仕事と家以外で通える場所がないかと、僕にお願いしてきたんですよ。」
なるほど、そういう事か。やっぱり、顔の広い奴は違うなと蘭は思った。
「そうか。僕のところに来る前に、お前のところに来てたのか。」
と、蘭はがっかりする。
「まあ、同業者として、一緒にやってけばいいじゃないか。二人一緒になって、前科者と言われたやつを更生していく。そういうことをやっていると思えばいいじゃないの。」
杉ちゃんに言われて、まあそうだけどさあと蘭は言った。
「間違っても大事な客を波布に取られたなんて思うなよ。」
杉ちゃんはカラカラと笑っている。
「そうだねえ。僕は、どうしたらいいんだろう。僕は、なんだか、お前に利用されたように見える。」
蘭は、ジョチさんの立派な平絽の着物を眺めながら、そういうことを言った。ジョチさんは、僕はただの篤志家ですよ、としか言わなかった。篤志家というのは、ボランティアを表す古語である。
「まあ、波布に協力するのも、気が引けるけどな。」
と、蘭は、一つため息をついた。
とりあえず、岡本華寿子さんのために、下絵を描かなければならなかった。なので二人にはもう帰ってもらおうと蘭は思う。その時、居間に置いてある時計が三度なる。お、もう帰らなきゃいかんな、晩御飯の買い物していなかったと杉ちゃんが言って、二人は、よろしくお願いしますと蘭にお願いして、帰っていった。
はあ、まったくあの二人、平気な顔して帰っていくよなと蘭は思う。無駄時間を過ごしてしまったなと蘭は思い、急いで絵筆をとって、下絵の続きに取り掛かった。でもなかなか筆は進まなかった。それはそうだろう。だって自分の客だった人物が、自分のライバルに取られてしまったんだから。なんとなく悔しいというかなんというか、一寸悲しい気がする。
しかし、ジョチさんのシステムというか、製鉄所は、本当に、すごいものになってしまったような気がする。最初は、問題を抱える若い人を預かるタイプの施設だったが、現在は住み込みで通っている人ももちろんいるけれど、製鉄所で勉強をしたり、仕事をしたりと、居場所として使っている利用者のほうが多い。青柳先生がジョチさんに製鉄所を明け渡してから、製鉄所の意味が大きく変わった気がする。全く、そういうことができるのだから、やっぱり、ジョチさんは、商売の才能があるんだなあと思うのだった。自分に比べたら、時代の流れをつかむのはやっぱりうまい。そんなことを考えながら下絵を描いていたので、うまくできなかったなという感じだったが、一応下絵は出来上がった。
それから一週間後。蘭のもとに、岡本華寿子さんがやってきた。
「先生、こんにちは。」
と、にこやかに笑う岡本華寿子は、やはり前科者には見えないというのが蘭の正直な感想である。
「今日は、下絵ができました。」
と、蘭はそれだけ言って、彼女を仕事場に通す。
「一応、こういう感じで、下絵を描いてみましたが、どうでしょうか?」
蘭は、絵を描いた半紙を、華寿子に見せた。彼女は、まあ綺麗と言って、それを、にこやかな顔で見ている。
「じゃあ、この絵でお願いできませんか。」
と、彼女が見せたのは、桃の花に、メジロが止まっている下絵だった。
「わかりました。それを腕に彫ればいいんですね。」
蘭は、彼女に言った。彼女ははいとにこやかに言う。
「じゃあ、いつでも都合が付く日でいいですから、まず、輪郭線を描く、筋彫りから始めましょう。いまはやりの機械彫りは、何もできませんけど。」
「そうなるとどうなるんです?」
「ええ、筋彫りから、色入れまで、すべて手彫りで彫ります。ちょっとスピードは遅くなりますが、昔の刺青師は、総身彫りだって手彫りでやっていたんですから、機械なんか頼らなくてもできます。」
こればかりは、蘭の得意台詞だった。それだけは、蘭もしっかり心得ていた。どれだけ批判されてもかまわない。江戸時代までは、マシーンなんてなかったんだし。マシーンに頼ったら、日本の刺青ではなくなってしまうような気がする。
「それでは、また来週でいいですか?いよいよ、あたしも新しい人生を歩くんですね。これでやっとあたしは、ダメな奴という偏見から脱出もできるんですね。うれしいです。先生。よろしくお願いします。」
と、彼女、つまり岡本華寿子はにこやかに言うのだった。
「あの、一寸聞いていいですか?岡本さんは、前科があるって聞いたけど、、、。」
彼女に思わず蘭は、そう聞いてしまう。
「前科になっちゃいますよね。」
と華寿子さんは、一寸顔を落とした。
「お母さんのこと、けがをさせたんですか?」
蘭が聞くと、
「ええ。そうなりますよね。あたしは、そういうことしたんです。あの時は、あたしはおかしかったとしか言いようがないかもしれません。あたしは、あの時はもう、誰にも愛してもらえないと思ってたから。それで、花瓶を割ったり、窓ガラスを壊したり、壁に穴をあけたり、いろんなことをして。ついには、お母さんにまで怒りが向いて。お父さんが警察に通報して。もう、本当に荒れ放題でした。」
と、彼女は正直に答えた。そうか、ジョチさんの言ったことは、本当だったのか、と蘭は、彼女のことを思って、がっかりした。
「でも、今はお母さんとやり直そうと思ってらっしゃるんでしたよね。」
と蘭はもう一回聞いた。
「そうですね。お母さんとお父さんが生きているうちに償いをしなきゃって。そのきっかけは、弁護士さんがすごく優しかったことと、施設へ行って、周りの人たちが私と同じような気持ちを持っていてくれたことかしら。あと、施設の人たちが、一生懸命勉強したりしていたことで、それでやっぱりあたしは、間違ってなかったと気が付けたことだと思うわ。それでよかった。きっと、もっと複雑な過去を持っている人が、いっぱいいるんでしょうけど、あたしは、それを隠さないで話せる人がいることが一番大事なんじゃないかと思うの。」
彼女は静かに答えた。蘭はそういう彼女を見て、彼女の言葉に嘘はないなと思ってしまった。それを見ると自分はなんて、小さなことで悩んでいたんだろうと思った。自分のテリトリーとか、そういうことを捨てて、彼女に何かしてやることが、大切なんだろうなと思った。
「そうですか。わかりました。あなたも、それをほかの人たちに伝えて行ってくれますか。みんな、答えを欲しがっているけど、そういう答えって、なかなか人前で言えないから、そういうことは、隠さずに話せるような人になってください。」
蘭は彼女にそういうことを言って、彼女をにこやかな目で見た。
「そういうことをできる人って、そうはいないから。そういう人って、つらい経験していないと、つらさをわかることはできないんですよ。」
「ええ、でもあたしは、もう前科者になってしまうのかなって。だって、お母さんにけがさせてしまったのは、まぎれもない事実だもの。だからもういろんなところから、消されてしまうのかな。」
「消されると思いますね。」
蘭は、現実を言った。
「確かに、そういうことをしたとなれば、白い目でにらまれることもあると思います。でも、それでも生きていかなきゃいけないと思うんです。僕は、理由はよくわからないですけど、生きているって、ある意味一生謝り続けることでもあると思うんですよ。人生は、明るい人生を歩いただけの人も確かにいるけど、明るい人がいるから暗い人がいて、その逆ということもある事で、お互い片一方だけじゃ、あり得ないんです。だからそれを、思い続けてほしいなって思う気がするんですよ。」
「片一方じゃあり得ない、ですか。確かに、それは言えますよね。」
と、彼女も蘭に同調するように言った。
「だから、片っぽうだけじゃあり得ないんですから、人生つらいことばかりのひとと、明るく幸せに生きている人と、はっきり出ちゃうんだと思います。もし、不運な人生に遭遇したら、それは幸せの基準を作ってるんだと、割り切って生きていくことも必要だと思います。」
「そうね。あたしは、確かに、なんで自分の人生、不幸なことばっかり続くんだろうと思ってたけど、そういう事もあるんだって、思い直すことにします。」
と、彼女は、にこやかに言った。強いて言えばそういう事である。物事には必ず相反するものがあって、お互いに片っ方だけではありえないようにできている。それに誰が該当するのか、しないのか、はっきりわかっていないだけで。
「じゃあ、このメジロと桃も、そういう自分になったんだということへの、しるしとして、しっかり心に刻み付けておくことにします。」
と、岡本華寿子さんはそういうことを言った。蘭は、その印をつけることができたという、何だかうれしいというか、自信が少しついたような気がした。そして、彼女の気持ちに沿ってあげられることを、
すごいことだと思った。
心の印 増田朋美 @masubuchi4996
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