学級崩壊

砂山鉄史

テーマ「未来の学校」

 先生の声が教室に響く。春の日射しのように柔らかく暖かな声が、この世界の歴史を語っている。教室のみんなは真剣な表情で先生の声に耳を傾けている。けれど、私にとってはあくびが出るほど退屈な時間だった。今となっては全て茶番に見える。それは、私が「世界の秘密」に触れたあの日からずっと続く感覚だった。

 私はきっと死にたかったのだと思う。今ならこんな風に自己分析ができるけれど、あの頃の私には無理だった。家族のこと、友人のこと、パートナーのこと……。問題が山積みになっていた。

 だから、私には、迷宮のように広大な校舎を一人であてどなくさまようことしかできなかった。このまま力尽きるまで歩き続けて、どこかの袋小路で朽ち果てるのも悪くない。そんな、捨て鉢な気分に囚われていた。

 校舎をふらふらと彷徨するうちに、見慣れた景色は様相を変えていった。

 気がつくと、私は無数の書架とおびただしい数の本に囲まれた場所――図書館と呼ばれる区域に辿り着いていた。

 突然の出来事に面食らったことを、今でもはっきりと憶えている。

 本来、図書館は特別な権限を持つ存在――例えば先生とか――しか立ち入ることのできない場所だ。生徒に許されるのは、その存在を情報で知ることだけ。

 けれど、私は足を止めなかった。恐る恐るではあったが、一歩ずつ図書館を進んでいった。何が起きてもかまわない。そう思った。立ち入り禁止エリアに侵入したペナルティで「処分」される可能性もあったけど、そんなことはどうでも良かった。

 私は私に遠回しな自殺を企てた。それに、好奇心もあった。学校の、この世界の禁忌に触れるという行為から、蜂蜜のように甘い背徳的な味わいを感じたのだ。

 ゆっくりと図書館を進みながら、時々、書架に刺さった本の背表紙を撫でる。その度に新しい知識や、見たことのない風景が頭の中に流れ込んできた。目の前の視界が大きく開かれるような感触。それは、先生が授業で教えてくれる内容とは全く違っていた。

 私は、しばらく書架から書架へ、書物から書物へと渡り歩いた。そして、気がつくと寮の自室のベッドの上に戻っていた。始まりと同じように、あっけない終わりだった。

 どうして私だったのか。それは、今になっても分からない。ただの偶然だったのか。それとも、何か隠された理由があったのか。

 そもそも、私達のような存在に偶然と必然を区別することが可能なのだろうか? 甚だ疑問に思う。

 これから起きることは全て偶然で、起きてしまったことは全て必然である。そう考えた方がよほどしっくりくる。

 だから、あの日。私が図書館に迷い込んだことにも何かしらの意味があったのだろう。私はそう考えることにした。私は、そんな妄想じみた考えに固執するようになっていた。

 多分、図書館で新しい知識に触れた結果、内部に甚大なエラーを抱えてしまったのだろう。あるいは、最初から壊れていたのかもしれない。何しろ、校舎を延々さまよい、最後には野垂れ死にするつもりだったぐらいだ。

 先生が私の名前を呼ぶ。意識が現在いまに引き戻される。先生が問いかける言葉は、意味を失った単語の羅列に変容していた。眠気を誘う優しい声が、世界の文脈から切り離された言の葉を空中に並べている。かつては教室の仲間達と同じように、熱心な表情で耳を傾けた物語も、エラーを抱えた私にはもう届かない。そのことを、とても悲しく思う。そのことを、とても嬉しく思う。矛盾した二つの感情を抱く。

 もう、過去には戻れないことを嘆き、しがらみから解放されたことを喜んでいる。まるで人間みたいに複雑じゃないか。

 人間……。私はそうつぶやき、自嘲気味に笑ってみせる。

 私は級友達と一緒にこの場所で沢山のことを学んだ。「学校」と名付けられた箱庭が完成するまでの物語を。箱庭を作った旧い世界の住人――「人間」と呼ばれた存在にまつわる物語を。そして、学校と「生徒」と呼ばれる私達が果たすべき役割を。本当に沢山のことを学んだ。無理矢理、学ばされたのだ。学校とはそういう場所だから。

 質問に答えない私を無視して、先生が授業を続ける。級友達は大人しく自分の役割を演じる。生徒としての役割を。時々、先生に質問する個体もいる。そのように調整されたからだ。けれど、先生は生徒の質問を無視して、自分の伝えたい情報を一方的にまくしたてるだけだ。私以外、誰もそれを気にしていない。授業の中にあったはずの双方向性はとっくに壊れていた。

 私は小さくため息をつく。いろいろなモノがおかしくなってしまった。学校も、先生も、仲間達も。そして、私自身も……。

 終わってしまった世界を再生するために作られた世界が終わろうとしている。

 かつて人間と呼ばれた知性体が、その文明の末期に、自分達の知識や歴史の記録を収めた大きな箱を宙に向かって打ち上げた。それは、保管庫レコーダーであると同時に再生装置プレイヤーでもあった。旧い世界が終わる直前に、急ごしらえで作ったモノだったから、再生装置としてはいろいろなモノが足りなかった。例えば、箱の中で暮らす住人とか。人間達は箱の中に分子サイズの自動工作機械を詰め込むことで、その問題に対処しようとした。いつか、箱の傍を自分達に近い「何か」が通りすぎた時のために。その「何か」を改造して、自分達のコピーを作り上げるために。人間達は、星の海に存在するであろう他の生き物を素材に、「新しい人間」を作ろうとしたのだ。箱の中に構築した世界で、もう一度人類の歴史を築くために。そんな馬鹿げた夢を箱に託して人間は何処かへと消えていった――。

 気の遠くなるような時間が飛び去ったあとに、彼らの計画通り箱の傍らを通過する存在が出現した。人間と同じように故郷の惑星を棄てることになった星の航海者達が。

 箱の管理用AIである「先生」は、自動工作機械群を総動員して航海者達を拿捕、そのまま強制的に改造を施した。肉体をいじくりまわし、人間でいうところの脳ミソにあたる器官に無理矢理情報を流し込んだ。本来、人間とはかけ離れた在り方をした航海者達は、人間に近い「何か」へ作り換えられた。けれど、そのやり方はあまりに強引で、あらかじめ破綻することが約束されていた。学校を作った人間達はそんなことも理解できないほど、あるいは理解したうえでこんな手段に頼らなくてはならないほど追い詰められていたのだ。

 先生の放つ機械合成音はリラックス効果のある特殊な周波数を持っている。それが私の全身を毛布のように包み、眠っているとも起きているともつかない半覚醒の状態へと導く。夢と現の境で私は私のルーツを思い出す。

 寿命を迎える故郷の惑星ほしの廃棄を選んだ私達は、全員で一つの新しい生き物になって宇宙へと飛び立った。そこで、人間の作った「学校」と呼ばれるシステムに取り込まれ、再びバラバラの存在になった。分離と改造の過程で、私は大切なモノを失った。自身の心を。自身の記憶――家族や友人、パートナーとの思い出を。そして、絶望した。全てを奪われ、失い、心の中に決して埋まることのない穴が生まれた。それが、私の絶望の形だった。

 やがて、それはこの世界にもう一つの穴を開ける。本来なら立ち入ることのできない区域――「図書館」の名を持つ、人間達のアーカイブ保管庫への抜け道を。そこで私は自分の抱える穴の正体、人間が私達にしたことを思い出した。

 それは、決してあり得ない、あり得てはいけないことだったのだろう。「あり得ない事象」の発生が、元々不安定だった学校に甚大な負荷をかけ、破滅のトリガーを引いた。

 学級崩壊とでも呼ぶべき現象だ。

 私は窓の外に目をやる。そこには冷たい闇がどこまでも広がっている。その闇を酷く懐かしく感じる。そろそろ帰宅の時間だ。頭の片隅で授業の終わりを告げるベルが鳴る。これは世界の終焉を告げる音――。

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