第29話

 愛理沙の妊娠が発覚してから、三か月ほどが経過した頃。


 すでに愛理沙のお腹は目に見えて膨らんでいた。

 服の上からでは分かりにくいが、しかし服を脱げばはっきりとそこに命があると分かるほどの大きさだ。


「性別、次の検査で分かると思いますけど……由弦さんはどっちがいいですか?」


 愛理沙はお腹を撫でながら由弦にそう尋ねた。

 由弦は少し考えてから答える。


「どっちでも。元気に生まれて来てくれればそれだけで嬉しいよ」


 心からの言葉だった。

 正直なところ、由弦は男の子と女の子、どちらでも良いと思っている。

 しかし愛理沙にとっては、由弦の回答は少し不満だったようだ。


「興味、ないんですか?」

「いや、ないわけじゃないけど……そういう愛理沙は?」

「元気に生まれればそれで十分です」

「君も同じじゃないか!」


 由弦が抗議の声を上げると、愛理沙は楽しそうに笑った。


「あえて言うなら、男の子だったら、次は女の子。女の子だったら、次は男の子が良いです」

「あー、うん。それは分かる」


 性別が違う方が、子育ては新鮮なはずだ。 

 その分、“初めて”も増えるので心労も増えそうだが。


「しかし本当に希望、ないんですか?」

「……というと?」

「いや、ほら……跡継ぎは男の子の方が都合が良い、みたいな」


 愛理沙は恐る恐るという調子で由弦にそう尋ねた。

 何だかんだで、高瀬川家は保守的なところがある。


 後を継ぐのは男でなければならない。

 だから最初に長男を産んでくれた方が、安心できる。

 そんな回答が来る可能性を愛理沙は考えているようだった。


 もっとも、それは杞憂だ。


「女の子でも、問題ないよ。……亜夜香ちゃんだって、女だろう?」

「あぁ、それもそうでしたね」


 由弦の回答に愛理沙は頬を掻いた。

 橘家が“女当主”で上手く回っているのだから、高瀬川家がダメな理由はない。


「ちょっと、安心しました」


 愛理沙は嬉しそうに微笑んだ。

 由弦はそんな愛理沙の手を握る。


「何があっても、俺が守るよ」

「頼りにしています」


 二人は軽いキスをした。




 それから一か月ほどの時が経過した。


「あ、今、蹴りました」


 愛理沙は嬉しそうに声を上げながら、お腹を撫でた。

 もう服の上からでもはっきりと分かるほど、お腹が大きく膨らんでいる。


「聞いてもいい?」

「どうぞ」


 由弦は愛理沙の許可を取り、彼女のお腹に耳を当てた。

 イマイチ、分からない。


「ほら、パパですよ」


 愛理沙がそう声を掛けた途端。

 トンというような音がした。


 偶然だろうとは思いながらも、由弦は父親だと認められたような気持ちになり、笑みを浮かべた。


「元気な男の子ですね。ちょっと、元気過ぎますが」


 愛理沙は目を細めながら言った。

 

 男の子だと、医者から告げられた時、愛理沙は少し嬉しそうだった。

 「元気に生まれれば十分」と口にしてはいたが、本音のところは男の子が欲しかったようだ。


「そろそろ、名前を決めないといけませんね。呼びかけるのに不便です」

「ふむ、それもそうだ」


 今までは「赤ちゃん」や、「あなた」「君」と呼びかけていたが……

 ちゃんと名前で呼んだ方がいいだろう。

 良い気がする。


 由弦と愛理沙はそう思っていた。

 気持ちの問題だ。


「高瀬川家伝統の名前って、あったりするんですか?」


 試しに聞いてみる。

 という様子で愛理沙は由弦にそう尋ねた。


 由弦は思わず苦笑した。


「一応、名前に“弓”が入る伝統はあるかな」

「え、弓? あぁー! 確かに!!」


 宗玄。和弥。由弦。彩弓。

 四人とも「弓」の文字が入っている。


「気付いていなかったんだね」

「い、いや、気にして来なかったので……」


 愛理沙は気まずそうに目を逸らした。

 

「ちなみにもう一つ、共通点があるけど、分かる?」

「……え? 由弦と彩弓に、ですか? う、うーん」

「ヒントは母親」

「母親……彩由さん? あぁ! 漢字を一字、貰ってるんですね!」


 由弦の母の名前は「彩由」。

 由弦は彼女から「由」を、彩弓は「彩」を貰っている。


 なお、由弦の祖母は「千和子」だ。

 由弦の父は「和」をもらった形になる。


「まあ、別にただの慣習で、従う必要は……」

「素敵です! 私たちもそうしましょう!!」


 従う必要はない。

 そうフォローを入れようとした由弦の声を遮り、愛理沙は目を輝かせながら言った。


 妻がそれで良いなら、由弦としては異存はない。


「私の名前……「愛」と「理」と「沙」のどれかに「弓」を付けて名前にするということですよね? 「愛」か「理」か「沙」と組み合わせると」


 愛理沙は腕を組み、うんうんと悩み始めた。


「……理弓(りきゅう)?」


 茶人かな?

 由弦は思わず突っ込みそうになった。


「うん、愛理沙。それはちょっと……」

「安心してください。自分で言っておいてなんですが、これはないと思いました」


 現代的な名前ではない。

 

「う、うーん……思い浮かびませんね。相性、悪いんでしょうか?」


 愛理沙は気落ちした顔でそう言った。

 由弦は慌ててフォローを入れる。


「ま、まあ、別に無理にルールに従う必要もない。大事なのはちゃんと考えることだ。そうだろう?」


 強引に組み合わせてキラキラさせるよりは、慣習に反してても無難な名前の方が親族のウケは良いだろう。

 そもそも慣習というほどの慣習でもない。

 親子三代分くらいの歴史しかないのだから。 

 

「それもそうですね。幅広く考えましょう」


 その日、二人は一日中、名前を考え続けた。

 

______


明日(3/2頃)、新作を投稿する予定です。

タイトルは『語学留学に来たはずの貴族令嬢、なぜか花嫁修業ばかりしている』です。


イギリスで知り合った女友達(貴族令嬢)が、日本まで主人公を追いかけてきて、花嫁修業を始めるという話です。

なお、貴族令嬢は自分を主人公の恋人、婚約者だと思っています。

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