第30話

 分娩に掛かった時間は、約十時間ほどだった。

 その間、由弦は愛理沙の手を握り、声を掛け続けた。


 その甲斐があったかどうかは定かではないが、母子共に健康だった。


「抱っこは先にしてあげてください」

「え、いいの?」


 愛理沙の言葉に由弦は思わず聞き返す。

 普通、一番頑張った母親が最初に抱くものだろう。

 そんな意識を持っていた。


「私は今までずっと一緒にいたので」

「そ、そう?」


 そういうものだろうか?

 由弦は首を傾げる。

 そんな由弦に愛理沙は笑みを浮かべた。


「代わりに父親として自覚を持つようにお願いします」

「い、言われなくとも」

 

 釘を刺されてしまった由弦は、何度も首を縦に振った。

 それから緊張で濡れる手を何度か服に擦り付ける。

 そして何度か深呼吸を行い、看護師から赤ちゃんを受け取った。


「ん、ぁ……」


 生まれたばかりの我が子はとても温かった。

 そして見かけよりも、少し重い。

 手のひらを、開いたり閉じたりを繰り返している。


「……愛理沙」

「はい?」

「ありがとう」


 由弦が感謝の言葉を伝えると、愛理沙は驚いた表情を浮かべた。


「いきなり、どうしたんですか。もう……」


 そして……


「どういたしまして」


 微笑んだ。





 由弦と愛理沙の長男は「愛弥(まなや)」と名付けられた。

 「愛」は愛理沙から、「弥」は高瀬川家の伝統の「弓」の字からだ。


 名前の決定には大きなドラマというほどではないが、ひと悶着あった。


 男の子に「愛」ってどうなの?

 と由弦の母――彩由が疑問を口にしたからだ。


 ルールに則っている。

 読み方もおかしくないし、響きも和風で高瀬川家にはぴったり。

 「他者を愛し、愛され、すくすくと育って欲しい」と、由来も完璧。


 パーフェクトネームだ!

 と、舞い上がっていた由弦と愛理沙は少しだけ冷静になった。


 言われてみると、二人の人生で名前に「愛」の字が付く男性はいなかった。

 浮いてしまうかもしれない。

 いじめられるかもしれない。

 そんな懸念が脳裏を過った。


 一方で由弦の父――和弥は「気にすることはない。良い名前だ!」と喜んでいた。

 というよりは上機嫌であった。

 理由は言うまでもない。

 同じ「弥」だからだ。

 自分の名前を使ってもらえたことがよほど嬉しかったのだろう。


 もっとも、由弦と愛理沙にそんな意図はなく「そう言えば同じだし、もらったことにしようか」程度のノリだったのだが……

 言わぬが華である。


 由弦の祖父母――宗弦と千和子は「二人の子だから好きにしたらいい」という反応だった。

 厳密には「最近の若い子の感性は分からん……」という様子だ。

 言いたいことは分かるが、言い出すとキリがない。

 自分たちの感性だと、古臭くなってしまう。

 だから若い子に任せるという判断だ。


 賛成一、中立二、反対一。

 変えようか、どうしようか悩む由弦と愛理沙の背中を押したのは、由弦の妹――彩弓だった。


「私のクラスに、男の子で『愛』がつく子、いたよ」


 珍しいが、いないわけではない。

 なら、問題ないだろう。


 そう判断した由弦と愛理沙は、自信を持って長男に愛弥と名付けた。




 そんな愛弥が生まれてから、約二か月。


「おぎゃあああああ!!」


 今日も元気に大泣きしていた。


「あー、はいはい。愛弥くん、うんちかな? おしっこかな? ……どっちでもないな? お腹空いた? でも、さっき飲んだばっかりだし……」


 由弦は愛弥を抱き上げ、あやすが全く泣き止む気配がない。

 しばらくすると襖が開く音と共に、和服を身に纏った愛理沙がやって来た。


「うんちですか? おしっこですか?」

「どっちでもなさそうだ」

「じゃあ、きっとおっぱいですね」

「いや、さっき飲んばかりじゃ……」


 困惑する由弦から、愛理沙は愛弥を受け取る。 

 そして大きな胸を押し当てるように抱き、あやす。


「あー、うー……」


 すると愛弥はあっさりと泣き止んだ。

 先ほど、由弦の胸の中でぐずっていたのが嘘のように。


「愛弥くんは誰かさんに似て、おっぱいが大好きですね」

「そんな、馬鹿な」


 たまたまだろう。

 そう思いながら由弦は愛弥を愛理沙から受け取り、再度抱き上げる。

 すると愛弥はその瞳――愛理沙と同じ翠色だ――をパチパチとさせた。


「おぎゃあああ!!」


 これじゃない! 

 と言わんばかりに泣き叫んだ。


「……」

 

 由弦は悲しい気持ちになりながら、愛理沙に愛弥を手渡す。

 おっぱいに包まれた愛弥は再び満足そうな表情を浮かべた。


「将来が心配だ」

「ふふ、そうですね。婚約者に巨乳の女の子を求めるような子には育ってほしくないです」


 愛理沙は愛弥の頭を優しく撫でる。

 少し生え始めた髪は、由弦と同じ黒色だ。


「……愛理沙。その話はできれば、子供には内緒にしてくれ」

「それは由弦さんの日頃の行い次第です」


_____


本日(3/1)、お見合いの最終巻が発売されます。

新作の試し読みも乗っているので、ぜひご購入ください。

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