第28話

 アメリカでの新生活が始まってから、三年が経過した。


「あらためて、修了おめでとう。愛理沙」

「はい。ありがとうございます」


 アメリカのとある高級レストランにて。

 二人は愛理沙の博士課程修了のお祝いをしていた。


「口頭試問で噛んだ時はどうなるかと思いましたが、無事に通って本当に良かったです」

「顔、真っ青だったもんね」


 口頭試問の日を思い出し、由弦は苦笑した。

 大学まで愛理沙を迎えに行った由弦が目にしたのは、顔を青くした愛理沙だった。

 目は潤んでいて、半泣きだった。


 一目で失敗したんだなと分かる顔だった。


「今、思うと大袈裟でしたね。……噛んだくらい」


 愛理沙は少し恥ずかしそうにそう言った。

 学生が緊張のあまり、噛んでしまうというのは審査員からすればありがちなことだ。

 

 そもそも口頭試問は就職活動ではない。

 対人コミュニケーション能力ではなく、論文について、研究内容について聞きたいのだ。


 それさえ筋の通った説明さえできれば、減点されることはない。


「俺は君なら、何だかんだで通ると思っていたけどね」

「……だったら言ってくださいよ」

「慰めたら怒ったじゃないか」


 大丈夫、大丈夫。あれだけ頑張ったんだから。

 ちゃんと説明はできたんだろう? なら通るはずだよ。


 そう慰めた由弦に対して愛理沙は目を吊り上げて怒り、「由弦さんには分からない!」と怒鳴ったのだ。


 修士課程までしか修了していない由弦には、博士課程の大変さは理解しがたい。

 だから「分からない人に言われたくない」と言われてしまうと、何も言えなくなってしまう。


「それは……だって、由弦さんが無神経だったから」


 由弦さんが悪い。 

 と愛理沙は唇を尖らせた・


 由弦としては反論したい気持ちはあったが、今は祝いの場だ。

 言い合いをしても仕方がない。


「とにかく、これで日本に帰れるね」

「そうですね。こっちでの生活もかれこれ五年ですが……ようやくです」


 愛理沙の博士課程修了に合わせ、由弦と愛理沙は日本へ帰国する予定になっている。

 

 由弦は今、就いている職を辞して、本格的に高瀬川家の家督を継ぐために、高瀬川グループ系列企業に入社する。


 愛理沙も同様に日本で就職する予定だ。


「愛理沙は日本で……どうするつもり」


 愛理沙が学問の道に進みたいことは分かっている。

 しかし一口に学問と言っても、いろいろな進路があるだろう。

 どっぷりとビジネスの世界に浸かっている由弦は、アカデミックなキャリアパスがイマイチ想像できなかった。


「うーん、出産と子育ても控えてますからね。しばらくは非正規の研究員とかですね」

「そこは負担を掛けて申し訳ない」


 子育てはともかく、出産については由弦は肩代わりできない。

 妊娠中は仕事もできないから、正規雇用には就き辛い。

 由弦との関係……高瀬川家の都合が愛理沙のキャリアパスに影響を及ぼしていることは、由弦にとっては大きな負い目だ。


「お気になさらず。どのみち、そう簡単に助教にはなれたりしませんから。むしろ由弦さんのおかげで収入面の心配がありませんからね。のんびり論文を書いていこうと思っています」


 愛理沙は気楽な調子でそう言った。

 履歴書に穴が開かないように、どこかしらの大学に何らかの形で籍を置きながら、出産と子育て、合間に研究と論文執筆を続ける。


 子育てが落ち着いてから、本格的に研究者としてキャリアアップを始める。


 そんな人生設計を考えているようだ。


 バリバリに出世したいのであれば「子育てが落ち着いてから~」など悠長なことは言えないが、愛理沙の出生欲は低そうだ。


「彩由さんにも相談します」

「それが良いね」


 由弦の母――彩由は大学で教職についている。

 彩由はまさに、愛理沙が思い描いているような人生を送って来た人だ。

 参考になるだろう。

 世代が違うので、鵜呑みにはできないが。


「ところで住む場所はどこにしようか?」

「……由弦さんのご実家じゃないんですか?」

「マンションで二人暮らし、子供も含めて三人暮らしもできるよ。しばらくの間は」


 高瀬川家次期当主である由弦は、最終的には実家に戻ることになる。

 が、それは今すぐにではない。

 もうしばらく、二人きりで過ごしても文句を言われることはない。


「そうなんですね。……個人的には由弦さんのご実家に頼りたいと思っていたのですが」

「あれ? ……そうなの?」


 一般的に夫の実家で暮らすのは避けられる傾向がある。

 姑と顔を合わせるのが嫌というのが、主な理由だ。

 愛理沙と彩由は仲が悪いわけではない――むしろ良い方だが、それでも気を遣う。

 由弦の実家の場合は姑どころか、義祖母までいるわけだから、なおさらのはず。


「子育て、手伝ってもらえるじゃないですか。由弦さんのご実家なら、お手伝いさんもいらっしゃるでしょう?」

「あ、あぁ……うん、なるほど。その通りだね」


 子育てのことをあまり考えていなかった由弦は慌てて首を縦に振った。

 考えてみれば、二人で子育てをするのは相当な苦労がある。

 

 その苦労を考えれば、義理の両親や祖父母と暮らした方が楽だ。


「それに彩由さん、大学で教鞭を取っていらっしゃるのでしょう?」

「ああ、まあ、そうだけど……」

「仲良くなった方が得じゃないですか」


 彩由のコネを利用したい。

 そんな打算もあるようだった。

 随分と強かになった新妻に由弦は思わず舌を巻いた。


「ダメでしたか?」

「いいや、まさか! みんな喜ぶと思うよ」

「……子育てのこと、考えてませんでした?」

「ま、まさか。ただ姑と暮らすのは嫌かなって……それに、ほら! 昔、しばらくは二人暮らししたいって話をしたじゃないか!」


 以前、愛理沙が由弦の実家に泊まりに行った時。

 普段の食事の準備はお手伝いさんがしている(つまり愛理沙が料理をする必要はない)と聞いた時、愛理沙は複雑そうだった。


 愛理沙としては、由弦に自分の手料理を振る舞いたいと思っていたからだ。


「十分、二人暮らし、したじゃないですか。まだ足りません?」


 愛理沙はあっけらかんと答えた。

 確かに昔の愛理沙は料理が上手であることを誇りとしていたし、アイデンティティの一つだった。

 由弦のためにできる、数少ない特技だと考えていた。

 だからこそ、由弦に尽くせる機会を奪われるのは良い気分ではなかった。


 しかし今は違う。

 もちろん、それは由弦に尽くしたい、料理を振る舞いたいという気持ちが失せたという意味ではない。

 他にも由弦を支える方法はあるのだと、自分の価値を証明する手段はあるのだと、自信を付けたからである。


 だから家事や子育てを由弦の実家の頼りとすることに、抵抗はなかった。


 むしろ自分以外でもできることは自分以外の人に任せ、自分にしかできないことを――夫を唯一、個人として、“高瀬川”由弦ではなく、ただの由弦として、支え、愛し、隣を歩くことに専念したいと考えていた。


「いいや、俺は十分だ。だから君が良いなら、俺の実家で暮らして欲しい」


 由弦にとって、実家は自分が生まれ育った場所だ。

 子育てはそこでしたいという気持ちがある。

 愛理沙がそれに反対しないなら、むしろ賛同しているのなら、由弦が反対する理由は全くない。


「じゃあ、決まりですね」

「ああ。早速、父さんと母さんに連絡入れるよ。きっと、喜ぶ」


 一月後。

 こうして由弦と愛理沙は日本に帰国し、由弦の実家で生活を始めた。



 愛理沙の妊娠が発覚したのは、そこからさらに二か月後のことだった。

 

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