第8話 練習(二回目)

まず由弦は愛理沙の手を取って、その手の甲にキスをした。

 するとやはり、びくりと愛理沙の体が震えた。


「好き?」

「は、はぃ……」


 愛理沙は小さく見悶えた。

 彼女が手の甲へ接吻されることを好んでいることは、明らかだった。


 完全に力が抜けてしまったのか。

 愛理沙は全身を由弦に預けた。


 由弦はそんな愛理沙を優しく支えながら、その美しい髪を優しく撫でる。

 肌理細やかな髪は陽光を受けて光り輝いていた。


 清らかで神秘的な、神々しささえ感じる髪が、由弦の手からサラサラと零れ落ちる。


 由弦はそんな愛理沙の髪を手に取り、そっと鼻先を付けた。

 すんすん、と匂いを嗅ぐ。

 柔らかいシャンプーとリンスの香りが、鼻を突き抜けた。


「ゆ、由弦さん……?」

「これはどう?」


 そっと耳元で囁いてから。

 由弦は愛理沙の清らかな髪へ、唇を押し当てた。

 優しく髪を唇で挟むように、僅かに口に含む。


「あっ……あぁ……」


 熱い吐息が、艶やかな唇から零れ落ちる。 

 由弦が手をそっと握ると、愛理沙はギュッと強く握り返した。

 愛理沙は片方の手で、縋るように由弦の服を掴む。

 一方由弦は愛理沙の髪に指を絡め、より自分の方へと近づけた。


 気付くと愛理沙は由弦の胸に顔を埋めるように、由弦は愛理沙を正面から抱きしめるような形になっていた。


「愛してる」

「……私もです」


 ゆっくりと、自然に、少しずつ、一歩一歩。

 由弦は愛理沙の髪から、耳へと唇を落とした。

 ギュッと、愛理沙は縋りつくように由弦を強く抱きしめる。

 そして今度は震える愛理沙の頬へと、接吻した。


「ゆ、由弦さん……」


 僅かに赤らんだ瞳で、愛理沙は由弦を見上げた。

 そしてそっと顔を由弦へと近づける。


 艶やかでしっとりした唇を。

 由弦の頬へと、軽く押し付けた。


 碧い瞳と翠の瞳が交差する。


 由弦は愛理沙の唇へと、自分の唇を近づけ……











「ゆ、由弦さん……」


 グイっと、愛理沙に胸板を押されて動きを止めた。

 由弦が我に返ると、愛理沙は顔を真っ赤にして小さく震えていた。


「……嫌だった?」


 由弦が尋ねると愛理沙は小さく首をふりふりとした。


「い、いえ……そうではないのですか」


 愛理沙は由弦から顔を逸らした。

 そして慎重に周囲の様子を伺う。


「その、ここ……お外ですし……」

「え? あ、あぁ……」


 そう言われて由弦は頬を掻いた。

 ここが公共の場であることを、すっかり忘れていたのだ。


 周囲を見渡すと、一部の人から目を逸らされた。

 見られていたようだ。


「すまなかった」

「い、いえ……私も、途中まで忘れていたので」


 そういう愛理沙の耳は真っ赤に染まっていた。

 ここが公園で、屋外で、公共の場であった。

 ということを除けば、由弦のリードはそう間違ったものではなかったようだ。


 少なくとも愛理沙は直前まで、その気でいてくれた。


(あ、焦ってしまったな)


 また失敗だ。

 ……実際のところ何でもない顔をして愛理沙をリードしようと頑張っている由弦だが、彼もまた女性経験が愛理沙しかない童貞である。

 こればかりはどうしようもない。


(……プロに聞こうか?)


 プロ。

 つまり宗一郎である。

 ……ところであのクズは幼馴染たちとどこまでやっているのだろうか?


 由弦は幼馴染たちの性の進み具合が少し気になったが、今度会った時に気まずくなりそうだったのであまり考えないようにした。

 

「由弦さん。……由弦さん?」

「え? あぁ……すまない、愛理沙。どうした?」


 愛理沙に名前を呼ばれ、ようやく由弦は我に返った。

 一方愛理沙は頬を赤らめたまま、くいくいと由弦の服を引っ張った。


「あの、そろそろ行きませんか?」


 どうやら愛理沙は一刻も早くこの場から離れたい様子だった。

 ……さすがに恥ずかしいらしい。

 そして由弦もそれは同感だった。


「そうだね。……うん、そうしよう」


 由弦と愛理沙はいそいそと帰り支度を開始したのだった。





(結局、桜はあまり楽しめなかったな)


 帰り道。

 二人で並んで帰りながら由弦は内心でぼやいた。


 とはいえ、美味しい料理と可愛らしい愛理沙は見れた。

 花より団子。

 団子より愛理沙だ。


 一方、その愛理沙だが……


「……」


 先程の行為が恥ずかしかったのか、ずっと黙ったままだった。

 その頬は未だに僅かに赤い。


 とはいえ怒っているわけでもなさそうだし、恥ずかしがっている愛理沙も可愛い。

 時間が経てばすぐに元に戻るだろうと、由弦はあまり気にしないことにした。


 さて、そんな調子で歩いていると……


「おっ」

「あら」

「おお」


 由弦の友人、良善寺聖と遭遇した。

 乗っている自転車のカゴには、買い物袋が入っていた。


「そう言えばこの辺だったな、お前の家」

「ああ……二人はデートか?」

「そんな感じです」


 どうやら聖は買い物の帰りのようだった。

 袋の中にはスナック菓子やチョコレートの菓子が覗いている。


「ふむふむ……」


 聖は顎に手を当てて、少し考え込んだ様子を見せた。

 そして由弦と愛理沙に提案する。


「もし邪魔でなければ、寄ってくか? 茶くらいなら出せるぞ」


 そう言えば聖の家には久しく行っていないなと、由弦は思い出した。

 毎年、聖を含めた良善寺家の者は高瀬川家に挨拶をしに来るが……由弦の方から行くことはあまりない。


 たまにはいいかもしれない。

 それに……


「どうする? 愛理沙」


 愛理沙は良善寺家に訪れたことがなかった。

 彼女は高瀬川家に嫁入りすることになるのだから、一度良善寺家に顔を見せに行っても良いかもしれない。


 ……勿論、由弦とのデートに専念したいというのであれば由弦としても無理強いはしない。

 今後、訪れる機会はいくらでもあるからだ。


 さて、由弦に聞かれた愛理沙は小さく頷いた。


「そうですね。では、お言葉に甘えて」


 こうして急遽、良善寺に寄ることになった。

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