第7話 婚約者とお花見

 さて始業式から直近の日曜日。

 由弦は比較的、活動的な私服を着て、駅で待っていた。


 忙しなく時計を確認していると……


「由弦さん」

「わぁ!」


 突然、肩を掴まれた。

 由弦は驚きで思わず声を上げ、それから振り向いた。


 そこには「えへへ」と、そんな可愛らしい表情を浮かべている婚約者がいた。


「驚かせないでくれ。びっくりしたじゃないか」

「隙を見せる由弦さんが悪いんです」


 そんな愛理沙だが、由弦と同様に少し活動的な衣服を着ていた。

 下はジーンズのパンツに、シャツとカーディガンを合わせている。

 そしてその左手の薬指には、由弦が想いを込めたプロポーズリングが光っていた。


 学校に来る時は、指輪は嵌めない。

 ……さすがに学校で高価な婚約指輪を嵌めて過ごすのは防犯的な心配があるし、何より「誰から貰ったのか?」という騒ぎになる。

 由弦と愛理沙が恋人同士であることはもはや周知であるが、婚約関係にあることとそれは全く別次元の話。 

 伏せておくに越したこはない。


「そうか……隙を見せる方が悪いか」


 ふと、少し悪戯心が湧いた由弦は愛理沙の左手をそっと手に取った。

 愛理沙は普段のように由弦が手を握ってくれるだけだと思っているのか、自然な仕草で手を差し出す。

 ……それはとても無防備だった。


 由弦は愛理沙の手を掬いあげるようにして手に取ると、ゆっくりと上げた。

 え? 手を握ってこれからデートに行くんじゃないの?

 と、そんな表情の愛理沙に対して軽く微笑みかけると……


「あっ……」


 その手の甲へ。

 そっと、唇を押し付けた。


 びくり、と愛理沙の体が僅かに震えた。

 白磁の肌が仄かに赤く染まる。


 由弦は気にせず、そっと二つ目のキスを薬指へと落とした。

 

「んぁ……」


 愛理沙は気が抜けたような声を上げた。

 そして力が抜けてしまったのか、ふらっと崩れ落ちるように由弦の方へと倒れ込んだ。


「大丈夫か?」

「こ、こんな……人目のあるところで、や、やめてください……」


 由弦に抱き留められた愛理沙は潤んだ瞳で由弦に苦情を口にした。

 やめてください、と言うわりには嫌がっているようには見えなかった。

 むしろ由弦の目にはして欲しそうに見える。

 

「隙を見せた方が悪い。そうだろう?」


 由弦は意地悪な笑みを浮かべた。 

 すると愛理沙は僅かに頬を膨らませ、由弦の胸板を叩いた。


「もうっ……馬鹿」


 ホッとした表情で、しかしどこか物足りそうな、不満そうな表情でそう言うのだった。





 さて、それから二人は駅近くの公園へと向かった。

 そこそこの広さの公園には美しい満開の桜。


 そう、今回のデートは待ちに待ったお花見だ。


「どの辺りにする?」

「そうですね。……あのあたりが良いんじゃないでしょうか」


 幸いなことに良さそうな場所が一つ、空いていた。

 由弦はその場所に持ってきたレジャーシートを広げる。


 由弦の担当はレジャーシートと飲み物だった。

 一方、愛理沙の担当は……


「張り切って作って来ました」


 にっこりと笑みを浮かべて、大きな重箱を一つ、二つ、三つ。

 愛理沙は一つ一つ箱を開けていく。

 箱には和洋中のおかずと、小ぶりで可愛らしいおにぎり、お洒落なサンドウィッチがぎっしりと詰め込まれていた。


「お、おぉ……?」


 ……多いな。

 思わず口から出そうになった本音を、感嘆の言葉にすることで誤魔化した。


「少し作り過ぎてしまいました」


 えへ、っと笑う愛理沙。

 言うほど少しだろうかと、由弦は若干の価値観の違いに困惑した。


「ま、まあ……余ったら持ち帰って食べればいい」

「そうしていただけると嬉しいです。……今日の御夕飯とか、明日の朝ご飯とか。それくらなら持つと思うので」

「そうだね」


 どうやら愛理沙の中では由弦は「食べる」担当のようだ。

 もっとも、夕飯と朝食で愛理沙の作った料理を食べられるのはむしろ由弦としては喜ばしいことだ。


「じゃあ、いただこうかな。いただきます」

「いただきます」


 由弦と愛理沙は手を合わせた。

 取り敢えず腐りやすそうなもの、冷凍したら確実に味が落ちそうなものからということで、サンドウィッチへと由弦は手を伸ばした。


「どうですか?」

「うん……美味しい」


 シャキッとしたレタスときゅうりの触感、瑞々しいトマトの酸味、程よい塩味のハム、そして柔らかい食パン。

 そしてパンに塗られたソースが、それぞれの食材を繋ぎとめている。


「……ソースの味、変えた?」


 愛理沙の作ったサンドウィッチを食べることは今回が初めてというわけではない。

 しかし以前と少しソースの味が変わっていることに由弦は気付いた。


「はい。少し変えてみました。どうでしょうか?」


 由弦が味の変化に気付いたことが嬉しいらしい。

 機嫌良さそうに、しかし少しだけ不安を含んだ声音で尋ねた。


「今回の方がどちらかと言えば好きかな。ちょっと辛いのが、良いアクセントになっていると思うよ」

「それは良かったです」


 嬉しそうに愛理沙は微笑んだ。

 それからおかずへと、箸を伸ばしていく。


「このエビチリ、美味しいな」

「亜夜香さんにアドバイスをいただきました」

「ん、このハンバーグ、冷めているのに硬くないな」

「千春さんにコツを教えていただいたんです」


 どうやらしばらく見ない間に愛理沙は料理の腕を上げたようだ。

 久しぶりだったこともあり、すいすいと箸が進む。


 そして……


「意外と食べられたな……」

「そうですね。……お腹はパンパンですけれど」


 おおよそ、弁当の三分の二を片付けることができた。

 残りは由弦の今日の夕食だ。


「ごちそうさま、愛理沙。美味しかった。残りは家でいただくことにするよ」

「はい。……お粗末様でした」


 食事を終えた二人は、改めて桜を見上げる。

 二人の手は自然と、結ばれていた。


「綺麗ですね」

「そうだね」


 愛理沙の呟きに同意してから、由弦は隣に座る愛理沙を見た。

 すると愛理沙もまた由弦を見ていた。

 自然と目と目が合う。


 思わず二人は小さく笑った。


「いや……俺は幸せ者だよ。こんな綺麗で可愛らしくて、料理も上手な人と結婚できるなんて」


 しみじみと由弦が言うと、愛理沙は頬を赤らめた。

 そして上目遣いで由弦を見上げながら、そっと寄り添う。


「私も……幸せです」


 そう言って肩と肩が触れ合う位置まで、近付いた。

 由弦はそんな愛理沙の肩にそっと手を回し、抱き留める。


「んっ……」


 愛理沙はそれに逆らわず。 

 そっと頭を由弦の肩へと乗せた。


 由弦の肩口を美しい亜麻色の髪が擽る。


 それから由弦は愛理沙の手を添って手に取って。

 耳元で囁いた。


「練習……しないか?」


「……はい」


 熱い吐息と共に。

 愛理沙は小さな声で答えた。

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