第31話 権利の上に眠るものは守るに値せず
「ただいま、戻りました」
由弦と別れた愛理沙は少しだけ浮かれた気分のまま、扉を開けて自宅に入った。
少し前までは家に帰るのは少し憂鬱だったが……
しかし今はそうでもない。
養母からの暴力がなくなり、そして嫌味の数も減ったからだ。
おそらく由弦を、厳密には高瀬川家の不興を買うことを恐れてのことだろう。
養母は愛理沙と由弦の婚約を気に食わないと思っているが、しかし自分の夫の仕事のためには致し方がないと理性の上では分かっているのだ。
よって、もし愛理沙にとって嫌なことがあるとすれば……
「お帰り、愛理沙!」
「……はい」
愛理沙の帰宅に、真っ先に反応して駆け寄ってきた男。
天城大翔だ。
今、彼は大学が春期休暇中ということもあり家に帰って来ているのだ。
「何か、されなかったか?」
さて、何を勘違いしているのか。
この従兄は愛理沙が由弦のこと嫌っていて、結婚を望んでいないと思い込んでいるようだった。
……愛理沙が結婚を、お見合い結婚を望んでいなかったのは確かな事実なので、その点は別に否定はしない。
しかしそれは過去の話であり、今、愛理沙は由弦に対して強い好意を持っていて、結婚したいと心の底から思っている。
だから彼の心配は的外れなのだ。
もっとも……何度それを説明しても、聞く耳を持たない。
だから愛理沙はもう、諦めてしまった。
「別に……普通の食事でしたよ」
何かされたか?
と聞かれると、確かにされた。
そう、プロポーズをだ。
愛理沙は少しニヤけそうになる口元を抑えながら、冷淡に大翔に返した。
由弦にプロポーズをしてもらったことを、大翔に話しても仕方がない。
愛理沙が真に話さなければならない相手は、養父である天城直樹だ。
今日は帰って来ているだろうか?
と、そう思いながら愛理沙は靴を脱ぎ、家へと上がる。
すると……
「帰ってきたか、愛理沙」
「はい。……ただいま帰りました」
直樹が愛理沙を出迎えてくれた。
珍しいことがあるものだと愛理沙が思っていると……
「……愛理沙。少し話がある」
何となく、嫌な予感がした。
この予感は……かつて、直樹の方から「お見合いに興味はないか?」と聞かれた時と同じ物だった。
「……はい。分かりました」
しかし拒絶するわけにもいかない。
愛理沙は小さく頷くのだった。
リビングにはすでに愛理沙の養母と、従妹の芽衣が揃っていた。
二人とも揃ってテーブルを囲み、お茶を飲んでいる。
どうやらこの二人も交えての話らしい。
(何の話だろう……こんな、家族全員揃って……)
愛理沙は言いようもない不安に駆られた。
ギュッと、薬指に嵌め込まれた指輪を愛理沙は握りしめた。
「愛理沙が帰ってきたことだし、本題に入ろう。……愛理沙と由弦君の、婚約のことだ」
ドキッと愛理沙の心臓が跳ね上がる。
嫌な汗が背中を伝うのを、愛理沙が感じた。
「愛理沙」
直樹に名前を呼ばれた愛理沙は、背筋をピンと伸ばす。
「……はい。何ですか?」
「前にも言った通りだが……私はお前に結婚を強要するつもりはない。だから嫌なら、この婚約を白紙にすることも可能だ」
どうして。
そんなことを今更、言うようになったのだろうか?
愛理沙の脳裏に、次々と嫌な想像が思い浮かぶ。
もしかして……直樹は愛理沙と由弦の結婚に対して、反対の立場になったのではないかと。
やはり養子であり自分ではなく、実子である芽衣と結婚させたくなったのではないかと。
「……別に嫌ではありません。それに白紙にしたら……由弦さんや、高瀬川家の皆様に迷惑が掛かるのではありませんか? 直樹さんにも、迷惑が……」
「確かに望ましいこととは言えないが、今なら間に合う。正式な婚約ではなく、仮の婚約だからだ。それに……」
直樹は自分の娘、愛理沙の従妹である芽衣に視線を向けた。
小学六年生の彼女は小さく頷いた。
「もし愛理沙さんが難しいというのであれば、私がいますから」
芽衣は淡々とそう答えた。
そして芽衣の言葉に同調するように……どこか嬉しそうに天城絵美――愛理沙の養父――は手を叩いた。
「高瀬川さんとしても、養子である愛理沙さんよりも芽衣の方が都合が良いでしょう」
そう言って彼女は愛理沙を見た。
強い敵意の篭った視線に、愛理沙は思わず身を竦ませた。
「愛理沙。嫌なら嫌と言って、良いんだよ」
優しい猫撫で声で大翔は言った。
しかし愛理沙の耳に彼の声は聞こえていなかった。
(な、何これ……どういう、ことなの?)
幸福の頂点から。
絶望の谷底へ。
真っ逆さまに叩き落とされたような気分だった。
全く、事態が読み込めない。
ただ、分かるのは……このままだと愛理沙は由弦と結婚できないということだ。
「……い、いえ、本当に、大丈夫ですから。その、それに……一年続いた婚約を破棄するのは、やはり迷惑が掛かりますし。な、何より、芽衣ちゃんが私の代わりというのは、良くないと……」
必死に愛理沙は由弦と自分の婚約を破棄するべきではない理由を探す。
そして芽衣を犠牲にするわけにはいかないと、主張する。
だが……
「私は構いません」
芽衣ははっきりと、そう口にした。
思わず愛理沙は口を噤んでしまった。
芽衣が構わないという言う以上、由弦との結婚は愛理沙でなければならない理由は薄い。
「写真でしか見たことがありませんが、高瀬川さんはとてもカッコ良い方ですし、それに……お金持ちという話ですから。不満はありません。……勿論、愛理沙さんが高瀬川さんのことが“好き”で、本当に“結婚したい”と思っているならば話は別です。……愛理沙さんの想い人を取るのは本意ではありません」
芽衣はそう言って愛理沙に目配せした。
好きなのか、好きではないのか。結婚したいのか、したくないのか。
いい加減、はっきりしろ。
そう言っているようだった。
「で、でも……由弦さんは、私のことが好きみたいですし。やっぱり、私でなければ代わりは務まらないと思うんです!」
愛理沙を指名してきたのは高瀬川由弦。
由弦は愛理沙にゾッコンであり、結婚したいと思っている。
愛理沙は自分にとっての最大の武器を振りかざした。
芽衣では代役は務まらない、と。
だが……
「そんな理由、おかしいだろ!」
そう言って声を荒げたのは大翔だった。
「あいつ……由弦君が、愛理沙のことが好きだからって、愛理沙が彼に合わせる必要はないし、結婚しなければならない理由もない! ……別に愛理沙でなければいけないわけじゃないんでしょう? お父さん」
大翔の問いに直樹は頷いた。
「そうだな。……少なくとも、高瀬川家としては愛理沙でなければならない理由はないだろう。由弦君には……まあ、申し訳ないが、しかし愛理沙が嫌だというのであれば、強要することはできない。……少なくとも私は、愛理沙を無理強いさせるつもりはない。先方も理解してくれるだろう。……理解してもらえるように説得するつもりだ」
少しずつ。
まるで詰将棋のように。
愛理沙は逃げ道が、由弦との幸福な結婚生活が、塞がれていくのを感じた。
「わ、私は……」
何か、言わなければ。
言わなければ、このままでは本当に由弦を従妹に取られてしまう。
愛理沙は顔を真っ青にさせ、震えながら声を上げようとするが……
「愛理沙、安心しろ。大丈夫だ……みんな、君に結婚を強要するつもりはない。正直に言って良いんだ」
愛理沙の声は大翔によって妨げられてしまった。
どうしたら良いのか分からなくなった愛理沙は、無言で俯いてしまった。
「……では、そういうことで話を進める。良いな?」
念押しをするように直樹は愛理沙にそう尋ねた。
頭が真っ白になった愛理沙は何も答えることができなかった。
「では、話は終わりだ」
そう言って直樹は立ち上がった。
それを皮きりに絵美は嬉しそうに、大翔はどこか安心したように、そして芽衣は……呆れた表情で。
ソファーから立ち上がった。
愛理沙はただ、ソファーに座って俯いて……
「嫌、です……」
愛理沙はその言葉を、どうにか振り絞った。
その場から立ち去ろうとした直樹の動きが止まった。
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勝ったな!!
風呂に入ってくる!!
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