第30話 婚約者

 その瞬間は。

 由弦にとって、永遠に感じた。


 沈黙を場が支配する。

 まるで時が静止したようだった。

 二人の心臓の音だけが、時を刻んでいる。



「……はい」


 小さな声が静寂を破った。

 そして愛理沙はその唇を動かし、はっきりと由弦の想いに答えた。


「喜んで!」


 そう言うや否や、愛理沙は椅子から崩れ落ちるように由弦に抱き着いた。

 慌てて、由弦は愛理沙を受け止める。


 “婚約者”、否、婚約者の体はとても柔らかく、暖かかった。


「遅いですよ……由弦さん」

「すまない。……君を喜ばせようと思って。許してもらえないかな?」

「はい。……許してあげます。本当に、最高の、プロポーズです」

 

 そう言って愛理沙は僅かに身を引いて、由弦にその表情を見せてくれた。

 翡翠色の瞳には涙が浮かんでいた。


「由弦さん、好きです」

「知っている。……愛している、愛理沙」

「はい。知っています……私も、愛しています」


 初めて。

 二人は抱いていた想いを口にし、確かめ合った。


 そして再び互いに抱き合う。

 互いの熱を、柔らかさを、より深く感じられるように。

 想いを、好意を、愛を確かめ合うように。

 絶対に放さないと、縛り合うように。


 強く、強く、両手で互いの体を寄せあった。


 それは砂糖水のように、甘く、蕩けた時間だった。

 永遠にその甘露に浸かっていたい。

 願わくば、二人だけの世界で……永遠に。


 ……しかし、そういうわけにはいかない。


「愛理沙、立てるか?」

「……はい」


 先に立ち上がった由弦は婚約者の手を優しく取った。

 愛理沙は婚約者から差し出された手を取り、ゆっくりと立ち上がった。


 二人の顔は熱に浮かされたように、紅潮していた。


「その、由弦さん。……お願い、できますか?」


 そう言って愛理沙は左手を差し出した。

 由弦はその手を取った。

 そして白く、細く、綺麗な薬指に……指輪を嵌め込んだ。


「……結婚しよう、愛理沙。絶対に君を幸せにする」


 改めて由弦は愛理沙にそう告げた。

 愛理沙は笑顔を浮かべ、大きく頷いた。


「はい! よろしくお願いします!!」


 由弦の想いを愛理沙は受け入れた。





 帰り道。

 いつもの通り、由弦は愛理沙を彼女の家まで送っていった。

 いつもと違うのは、二人の関係が偽物の“婚約者”から普通の婚約者へと変わったことだけだ。


「何かあるだろうなと、思っていましたけれど……まさかプロポーズをしてくれるなんて、思っていませんでした」


 弾むような足取りで、明るい声で愛理沙はそう言った。

 まだ興奮が冷めないのか、その白い肌は僅かに赤い。


「喜んでもらえて、何よりだよ。……ほら、前、言ってただろ? ロマンティックな告白が良いって……頑張ったつもりだけど、どうだったかな?」


「最高でした」


 愛理沙は嬉しそうに後ろで手を組みながら、振り返って言った。

 花が咲いたような、満面の笑顔だった。


(あぁ……これが見たかったんだ)


 頑張った甲斐があった。

 自然と自分の表情が柔らかくなるのを、由弦は感じた。


「……ところで、由弦さん」

「どうした? 愛理沙」

「いくら、使いました?」


 真剣な表情で。

 愛理沙は由弦の顔を覗き込みながらそう言った。


 先程と異なり、愛理沙の声音が少し代わっていることに由弦は気付いた。


「え? いや……君が気にすることじゃ……」

「私、由弦さんの婚約者ですよ?」


 そう言って愛理沙は由弦に詰め寄った。


「あなたが何に、いくら使ったか、それを知る権利はあります。特に……私に関係することであれば、尚更です。違いますか?」


「……それも、そうだね」


 由弦は頬を掻きながら……

 その値段を伝えた。


「あー、――万円くらい?」

「……」

「いや、安心してくれ。ちゃんと俺のバイト代で……」

「由弦さん……」


 ポカっと。

 愛理沙は由弦の頭を軽く叩いた。


 愛理沙は呆れ顔を浮かべていた。


「高校生が出して良い金額じゃないでしょ……何を考えているんですか」

「いや、思った以上に婚約指輪が高くて……」

「それは……本当に嬉しかったのは本当ですけれど、でも、他にも、あったじゃないですか。ほら、薔薇とか……何も、ダイヤモンドの婚約指輪を買わなくても……」


 呆れ顔で愛理沙はそう言った。

 そんな愛理沙に対し、由弦は言い繕う。


「ほら、君は前……言ってただろ。……五大ジュエラーが云々って」

「あ、あれを鵜呑みにしたんですか? い、いえ……覚えていてくれたのは、嬉しいですけれど」


 由弦の言葉に対し、愛理沙は恥ずかしそうに髪を弄りながらそう言った。

 ブランド品が好きという、割と俗っぽい趣味嗜好を恥じている様子だ。


「というか、それ、本当に――万円で足りたんですか?」

「まあ、安い物なら……と言っても、品質は悪くないと思うよ」

「それは見れば分かります。……本当に、ありがとうございます」


 そう言って愛理沙は嬉しそうに薬指の指輪を見た。

 口元が僅かに緩み……有体に行ってしまえばにやけている。


 何だかんだでブランド品を貰えて喜んでいるようだった。


「でも、由弦さん」


 しかしすぐに愛理沙はそのニヤけた表情を引き締めた。

 腰に手を当て、いかにも怒っていますという表情で由弦の顔を覗き込む。


「もう、あまり無理はしないでくださいね?」

「君のためなら……」

「その気持ちは嬉しいですけれど、それを許すと、あなたは際限がなくなりそうじゃないですか!」


 確かに、愛理沙のためならばと思うと、うん十万円を出すことに一切の躊躇はなかった。 

 むしろ安い金額だなと、そう思ってしまった。


「由弦さんの、その好意は嬉しいですけれど……その、お金は有限ですし。それに何より……私が堕落してしまいそうなので……」


「まあ、確かに。君におねだりされたら、俺は断れないな」


「それですよ、それ! 断ってください!! ……その、由弦さんはもしかしたら、私のことをしっかり者とか、清貧なタイプだと思っているかもしれませんけれど、多分、油断しちゃうと、お財布の紐が緩くなっちゃうタイプなので……」


 恥ずかしそうに愛理沙は目を伏せながら言った。

 とはいえ、由弦は愛理沙のことを「しっかり者」とは思っているが、清貧な人間だとは思っていなかった。


 なぜなら……


「まあ、君は割とブランド物とか、高い物が好きだしな」

「うっ……や、やめてくださいよ。そういうの、はっきり言うのは……」

「別に恥ずかしがることでもないだろう。うちの妹や母親は、ブランド品大好きだぞ」


 いわゆる“お金持ち”に該当する高瀬川家の面々は相応に浪費家である。

 興味のない物に関しては大してお金は使わないが、逆に好きな物に関しては「値札を見る」ことすらしないのが、由弦の妹と母親だ。


 そして妹や母親の衣服代に苦言を呈している父親も、乗りもしない外車を買ったりする。 

 車なんてワゴン車で十分だろうと内心思っている由弦も、誕生日には相応の腕時計を要求したりする。

 飼っている四頭の犬も、相当な金食い虫だ。


 由弦の幼馴染である亜夜香や千春も、服や装飾品には相当な金を使っている。


 と、まあ別に由弦にとって愛理沙のブランド品好きは“可愛らしい”部類だ。

 むしろ当然の欲求だと思う。


「や、やめてください……私、あなたとの結婚生活で唯一の不安が、それなんですよ。使おうと思った時に、使えるお金があるというのは、本当に危険です」


「……まあ、君がそこまで言うなら。と言っても、結婚はどんなに早くても高校卒業後後……まだ先の話だけれどね」


 高校在学中に結婚するのは、世間体的に良くない。

 一般常識に照らし合わせれば、最低でも高校卒業後、場合によっては大学卒業後だろう。


「それもそうですね。……少し気が早すぎました」


 愛理沙は恥ずかしそうに笑った。

 由弦も思わず笑みを浮かべる。


 二人は手を繋ぎながら、夜道を歩く。

 

 永遠に二人の時間が続けば良いのに。

 二人はそう思ったが……しかし歩みを進めるほどに、別れの時は近づいてくる。


「由弦さん。この婚約については……養父に話しても?」


 愛理沙の自宅の前で。

 愛理沙は由弦にそう尋ねた。

 由弦は大きく頷いた。


「勿論。俺が本気で君を愛していて、結婚したいと思っていることを……お父さんに伝えてくれ。俺も……父にそのことを伝えるから」


 今までは一応、由弦と愛理沙は公式的には仮の婚約者という扱いだった。

 だが由弦は二人の関係を、正式な婚約者へと、格上げしてもらうつもりでいた。


 そうすればこれから積極的に愛理沙の顔を、高瀬川家の親戚や取引関係者に見せることになるし……

 由弦が公の場に出るときは、愛理沙もパートナーとして呼ばれることになる。


 まさしく、名実ともに由弦と愛理沙は婚約者になるのだ。


「分かりました。では、由弦さん……また、明日。学校で」

「ああ、じゃあね」


 そして最後に二人は別れを惜しむように、抱きしめ合った。

 互いの体温を、想いを、しっかりと刻み合った。

 






 婚約を交わしたからといって、二人の関係が劇的に変わるわけではない。

 ただ、偽の“婚約者”が婚約者へと変わっただけ。 

 おそらく、これからも似たような日々が続くことだろう。


 しかしそれでも……


 二人の関係は大きく前に進んだのだった。




______________________________________


デレ度:85%→120%




男性向けのラブコメって女性の方から告白するパターンが多いような気がしますが、気のせいでしょうか?

こういう考え方は古臭いかもしれませんが、やはり男性の方からする方が、私は美しいと思います。

ズルズルと引きずって女の子の方から告白させるのはなぁ……

現実はいいとして、物語の中では理想的な告白、プロポーズを実現して欲しいですね。


さて、これで第三部は終わり……

ではないです。

最終回じゃないです。

もうちっとだけ続くんじゃ



もうちっとしか続かないのかぁ……

寂しいな、残念だなぁ、全米が泣いた

と思った方はフォロー、レビュー(☆☆☆を★★★に)をしてついでに一巻を買い、宣伝していただけると励みになります。




また二つほどお伝えしたいことがあります。

一つは今作の重版(二回目)が決まりました。皆さまのご支援のおかげです。これからもよろしくお願いします。


二つ目、毎年「あけましておめでとうございます」等のご挨拶をくださる方々がいらっしゃいます。

こういうことを言うのは大変恐縮なのですが、感想欄で個別で返すのは面倒なので、要りません。


というわけで皆さま良いお年を。

多分、これが今年最後です。

気が向けば31日にあるかもしれませんが。

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