番外編 妹の婚約者

 その子と初めて出会ったのは……小学五年生の頃。

 突然、家族が増えると父から伝えられた。


 新しく増えた妹は……とても可愛らしい女の子だった。

 透き通るように美しい髪に、宝石のように煌めく瞳。

 自分よりも三歳ほど年下のその子に、一目で心を奪われた。


 その子は自分の母親の妹の娘。

 つまり自分にとって従妹に当たる女の子だった。


 従妹がいるということは聞いていたが、会ったのはその時が初めてだった。


 彼女は両親を事故で亡くしてしまったらしい。

 そのためこの家に預けられることになった……そういう事情だった。


 可哀想だなと、同情した。

 兄として優しくしてあげなければと、心に決めた。



 家に来たばかりの彼女は……歳の割には少し我儘なところがある子だった。

 小学二年生という歳もあるが、思ったことをすぐに口に出してしまうような、素直な子だ。

 どうやら彼女の両親、つまり叔母夫婦は相当に甘やかして育てていたようだ。


 しかし……決して悪い子ではない。 

 最低限のマナーはしっかりしていた。

 また面倒見が良くて優しいところもあり、妹(つまり彼女にとっては従妹に当たるが)の世話をよく焼いてくれたし、一緒に遊んでくれた。

 何よりあどけない、無邪気で元気な笑顔が素敵だった。


 だが……母は彼女のことを、自分の姪が、気に入らなかったらしい。

 事あるごとに彼女に対し、辛く当たった。


 彼女の些細な失敗を目ざとく見つけて、そのたびに叱り付け、怒鳴り散らした。

 顔を見かけるたびに、無駄飯ぐらいや、躾けのなっていない子だと、嫌味を口にした。

 時折、彼女の死んだ両親の悪口も言った。


 そして彼女が少しでも反抗の意志を見せると、頬を叩いたり、はたきやベルトでお尻を叩いたり、時には押し入れに閉じ込めたりした。


 そういう“躾”は必ず父がいない時に行われた。

 父は仕事人間だ。

 仕事と、自分と一族の面子の事しか考えていないような男だ。

 だからもし、彼女への“躾”を見たらもしかしたら止めようとしただろう。

 悪評に繋がるからだ。

 しかしそれは家族を大切にしているからではなかった。

 少なくとも自分はそう思っている。

 実際、父は家を留守にすることが多く、子育てに参加することは殆どなかった。


 だから彼女への“躾”は黙認された。


 いつの間にか、彼女は笑わなくなった。

 その美しい瞳は濁り、暗く陰り始めた。

 そして常に誰かの機嫌を伺うようになっていった。

 

 彼女を助けてあげたいと思った。

 だから何度も、何度も母親に対して彼女に辛く当たらないように頼んだ。

 彼女が“躾”を受けている時、庇ったこともあった。


 そのおかげか、自分が中学一年生に上がる頃になると、彼女が“躾”を受けている姿を見ることは無くなった。

 彼女を守ることができた……そう安堵した。


 ………………

 …………

 ……


 だがその見込みは甘かった。

 ある日、不可抗力にも彼女の肌を見てしまうという事件があった。


 咄嗟に謝ったが……

 その時、確かに自分は見た。


 彼女の白い肌に不自然な痣があるのを。


 何のことはない。

 自分が彼女に対する母親の“躾”を見ることがなくなったのは、中学に進学して部活をするようになったことで帰るのが遅くなったからだ。

 

 彼女は自分の見ていないところで、度々、“躾”を受けていたのだ。


 自分の声は母親に届いていなかった。

 ただ無力なだけだった。

 

 だから……最後の手段として、父親に縋った。

 自分は父が苦手だった。

 滅多に家に帰ってこない父とは日頃からあまり接点がなかったし、父の方も積極的に子育てに加わろうとするような人物ではなかった。


 それに……

 自分の力で、彼女を助けたかった。

 だから父親にはあまり頼りたくなかったのだ。


 彼女が“躾”を受けていることを父親に話すと……

 父は驚いた。

 どうやら父はそれなりに上手くやっていると、本気で思っていたらしい。


 翌日、父は早く家に帰って来て、しばらく母と話をしていた。

 ヒステリックに叫ぶ母と、それに対して冷淡に返す父の声が印象的だった。

  

 さすがの母も父に言われれば、多少は堪えたらしい。

 しばらくの間、鳴りを潜めた。



 だが、それは長く続かなかった。

 ある冬の日、部活動が早めに終わり、帰ってくると……彼女は肌着で庭に座り込んでいた。


 寒そうに震えていた。


 大丈夫か、また母にやられたのか。 

 そんな声を掛けたような気がする。


 それに対し、彼女は……


 放っておいてください。


 と、ゾッとするほど冷たい目でこちらを睨みながら言った。



 逃げるように家に入るしかなかった。

 後から妹に聞いたことだが、彼女が母に怒られたのは、やはりいつもの通りの些細な失敗だったようだ。

 小学校高学年になってから、彼女は母の家事の手伝いをするようになっていたのだが、何かしらの失敗で母の怒りを買ったのだ。


 しかしその時の怒り方は尋常ではなかったらしい。

 いや、そもそもその失敗そのものはただの切っ掛けに過ぎず……母が怒っていたのは、別のことだったようだ。


 妹は怒り狂う母が怖くて、自室に逃げてしまったので、母が何に怒っていたのか、正確には分からなかったようだ。

 ただ……


 嘘つき。

 女狐。

 ビッチ。

 売女。


 そんな怒鳴り声が時折、聞こえてきた……そういう話だ。


 

 そもそも、どうして母が彼女にそこまで辛く当たるのか分からない以上、何がどう“売女”なのか全く分からなかった。


 その後も度々、彼女を助けようとしたが……

 事態は好転しなかった。

 それどころか悪化したように感じられた。


 時が経ち、彼女は中学生になり、自分は高校生になった。

 どうしてか彼女は自分を避けるようになったし、自分は彼女を助けられない無力感から彼女と上手く話をすることができなくなった。


 その頃になると、彼女は家事の殆どをするようになった。

 辛くないのか、嫌じゃないのかと聞いたが……

 彼女は、好きでやっているだけなので、と答えるだけだった。


 また母による彼女への“躾”も鳴りを潜めてきた。

 中学生にもなると、さすがにいろいろと体が成長してくる。

 彼女は元々、運動神経が良い子だった。

 母も無意識的に、彼女に反撃されるのが怖かったのだろう。

 もっとも……嫌味や悪口は、変わらなかったが。


 決して母が心を入れ替えたわけではないが、結果的に母の彼女に対する暴力はぐっと減った。

 父と彼女の関係は相変わらず、特に変わらなかった。

 そして彼女と妹は……それなりに仲が良さそうに見えた。

 

 周りは以前と変わらない。

 もしくは多少、改善されている。


 にも関わらず、自分だけ彼女との距離が離れてしまったような気がした。


 家に居たくないと、そう思った。

 だから遠くの大学を受験し、一人暮らしを始めた。


 もう彼女には自分の助けは要らないと。

 そう言い訳をして、逃げ出した。


 ………………

 …………

 ……


 知っていれば。

 彼女が無理矢理、お見合いを受けさせられていると知っていれば、決して逃げたりしなかった。


 彼女がお見合いを受けさせられ、そして婚約を結ばされたと。

 そう聞いたのは大学の夏季休暇が近づいてきた時だった。


 相手は“高瀬川”という一族の宗家の長男だという。


 高瀬川。

 その名前は何度か、聞いたことがあった。


 古くから日本に存在する、名家だ。

 

 明治維新の時から頭角を現し、“橘”と共に日本の財界や政界を牽引してきた一族。


 “橘”と共に戦中の終戦工作、そして戦後復興と経済成長期では陰ながら極めて強い指導力を発揮し、現在でも国内外に対して強い影響力を持っている。


 国内の国会議員、官僚は勿論、外資や海外の政治家――特にアメリカの政界・経済界――にも顔が聞くと言う。


 高瀬川家と血縁関係が存在する議員は少なくないらしく、また相当額の政治献金も行っていると聞いたことがある。


 そして父にとって、重要な取引先だった。


 政略結婚であることは、明白だった。

 事実、父は縁談を結んだあとに莫大な額の融資を、その高瀬川家とそれに関連する投資家から受けたらしい。


 夏季休暇。

 外せない講義やバイトなどを終えると、急いで実家に帰省した。


 丁度、その時……

 運良くと言えば良いのか、悪くと言えば良いのか、彼女と鉢合わせた。


 彼女は一人の少年と一緒にいた。


 声を掛けて二人に近づくと……少しだけカルキの香りがした。

 手には水泳バッグのようなものを持っている。

 そして彼女は僅かに日焼けしていた。

 肌が白い彼女は日焼けをするとすぐに赤くなってしまうので、すぐに分かる。


 人に肌を見せたりすることを嫌がる彼女が、男子と共にプールに行くということは衝撃だった。

 しかしあまり友達がいないらしい彼女が、相手が男とはいえ、遊ぶ相手がいるということは、“兄”として喜ぶべきことだろう。

 ……しかしどうしてか、むしゃくしゃした。

 何かが気に入らなかった。


 整った顔立ちに、育ちの良さそうな身なり。

 そして深いブルーの瞳が印象的な、大人びた風貌の少年だった。


 最初はただの友人だと思っていたので、彼が彼女の婚約者と知った時には驚いた。

 というのも、彼があまりにも若かったからだ。

 結婚というからには、年上の社会人とばかり思っていたので、少し意外だった。


 話してみるとやはり大人びていて、落ち着いていて、冷静沈着なイメージを抱いた。

 悪い印象はない。

 外見やその態度は、とても良い人に見える。

 

 もしかしたら……もしかしたら、説得すれば考えを改めて貰えるかもしれない。

 彼女の境遇を伝えれば、彼女を助け出すことに協力してくれるかもしれない。


 そう思った。


 だから彼に尋ねた。

 本当に結婚する気なのか? と。


 すると彼は、結婚する気もないのに婚約をする人がどこにいるのか、と……

 どこか呆れた様子で言った。

 

 その言葉はどこか嫌味があり、自分を苛立たせた。

 

 その上、彼は彼女の袖を引っ張り……

 そうだろう? とまるで強要するかのように言った。


 すると彼女は何かを、彼に囁いた。

 

 それから二人は、結婚をするつもりだと。

 お互いに上手くやっていく自信があると、そう答えた。


 おかしい。

 それはあまりにも、おかしい。


 十五歳の高校生の男女が、堂々と、平然と、さも当然のように、親同士の都合で婚約し、そして将来的に夫婦として共に歩む覚悟があるなどと言うのは……

 常識的に考えて、おかしい。


 現代日本でこんなことがあって良いはずがない。

 

 だから思った。

 彼女はきっと、父に強要させられて、結婚を余儀なくさせられているのだと。

 彼を想っている、演技をさせられているのだ。


 そして彼は彼女の演技を信じ込んでいるに違いないと。

 彼女のように可愛らしい女の子から、好きだと言われれば、舞い上がってしまうのは年頃の少年ならば自然なことだった。


 事情を話せば分かってくれるに違いない。

 そう思い、断腸の思いで彼女の事情を彼に話した。


 しかし彼は中々、それを信じようとしなかった。

 そして何故か、彼女に確認を取る。


 彼女は立場上、好きだと言うしかないのだから、そう答えるのは当然と……そう説明しても、中々伝わらない。

 

 何とかそれを理解してもらうと……

 彼は心底不思議とでも言うように、何を求めているのか? などと聞いていた。



 ふと……彼が左手にしている時計に目が止まった。


 それは有名なスイスのブランド物の時計だった。

 最低価格でも百万円は超す……高級時計だ。

 あぁ、これが高瀬川家かと。 

 彼にとって、彼女はこの時計と同じなのだろう。

 この財力に物を言わせて、彼女に結婚を強要したのだと……そう確信した。


 一見すると人の良さそうな少年に見えるが、結局は彼女を金で買った一族の人間なのだ。

 彼女を売り払った、父の同類だ。


 人身売買染みたことを平気でやるような、悪人だ。

 

 だから、はっきりと言ってやった。

 結婚を無理強いするなと。

 彼女を愛しているならば、不幸にしたくないなら、婚約を破棄しろと。


 彼のわずかに……あるかもしれない、良心に期待した。



 すると彼は、落ち着いた口調で反論してきた。

 

 自分が彼女を買わなかったら、彼女は別の男に売られるだけだ。

 と。


 そう、開き直ったのだ。

 金がないお前らが悪いとでもいうような言い方だった。 

 

 挙句、お前のような無能に何ができるとでも言うように、こちらを嘲笑ってきた。



 反論しようとした。

 しかし言葉が見つからなった。


 そうこうしているうちに彼はタクシーに乗って、逃げてしまった。



 彼が去ってから、彼女に近づいた。

 

 大丈夫か?

 プールに行ったのか?

 何か酷いことをされなかったか?

 脅されているのか?

 弱みを握られているのか?

 自分が味方になってあげる……


 と、そう言葉を尽くした。



 それに対し、彼女は言った。


 いい加減にしてください。

 何もできないくせに、私の人生を引っ掻き回さないでください。

 大きなお世話です。


 彼女は涙を流しながら、そう叫んだ。

 そして家の中へと、駆け込んでしまう。



 

 その通りだ。

 自分は……まだ、何の力もない。


 だけど、涙を流す彼女を放ってはおけなかった。


 いつか、必ず助けてあげなければならないと。

 そう思った。




 それからしばらくして、彼女は彼に夏祭りに誘われたらしい。

 本当は止めたかった。

 だが彼女は制止も聞かず、出掛けてしまった。


 中々、彼女は帰って来なかった。

 連絡は電話で来た。


 どうやら……電車が止まったため、彼女は彼の家に泊まることになったらしい。


 あの彼女が。

 男の家に泊まる。


 どういうわけか、吐き気がした。

 青い顔でいると……


 妹が肩を竦めていった。


 愛理沙さん、毎週土曜日、あの人のところに行っているんですよね。

 もう完全に通い妻です。


 と。

 そんな話は知らなかった。


 もしかしたら、もうすでに彼女はあの男の毒牙に掛かっているのではないかと。

 酷い行為を強要されているのではないかと。

 そう思うと胸が張り裂ける思いがした。


 翌日には彼女は無事に帰ってきた。

 何かされなかったか? 

 と聞いたが、あなたには関係ないと冷たく言い返されただけだった。


 触れられたくないのだろう。

 彼女の態度が……何かあったことを、物語っていた。

 


 彼女のことが心配で仕方がなかった。

 だから夏季休暇が終わるまで、九月一杯は実家にいることにした。


 そして気付いたことがある。

 母が彼女を叱る回数が、めっきり減ったのだ。


 普段の母ならば……彼女が夜遅くに帰って来れば、大声で怒鳴り散らし、叱りつけただろう。

 しかし嫌味を一つ二つ言うだけで、済ませている。


 ……どうやら、あの母ですらも、高瀬川を恐れているらしい。

 

 それほどまでに高瀬川は強大な相手なのだ。

 自分一人では勝てない。


 そう思った。

 

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