第二章 両片思いジレジレ編

第1話 “婚約者”とアクシデント


「あのー、兄さん。盛り上がっているところ、大変、申し訳ないのですが」


 非常に申し訳なさそうな声を聞き、由弦は我に返った。

 愛理沙もまた同様で、まるで弾けたように由弦から距離を取った。


 そして顔を赤くし、顔を俯かせる。


「あー、どうした、彩弓。何か用か」


 声の主は、由弦の妹。

 高瀬川彩弓のものだった。


 揶揄っているわけではなく、本当に申し訳なさそうな声音と表情なのが、余計に気恥しい。


「うん、というか正確には愛理沙さんに伝えなきゃいけないことがあるんだけど」

「私ですか。はい、何でしょう」


 愛理沙はわざとらしく咳払いをしてから、彩弓に向き直った。

 表情はいつもの平静なものに戻っている。

 ……顔は赤いままだが。


「大変ですよ、愛理沙さん。電車が止まってしまいました」

「「え?」」






 彩弓の説明によると、つい先ほどちょっとした事故が発生したらしい。

 幸いにも死人は出ていないが……

 そのせいで電車が一時的に止まってしまったようだ。

 

 復旧の目処は現状では経っていない。

 もし復旧できたとしても、非常に混み合うのは間違いない。


「それで、どうしようか。愛理沙さん。私としては……いろいろと危ないし、真夜中の満員電車の中、君を帰したくはないんだけどね」


 由弦の父。

 高瀬川和弥は穏やかな、しかし強い口調で愛理沙にそう言った。

 護衛として由弦を付けるにしても、満員電車はいろいろと危険だ。


「そう……ですね。でも、そうなるとどう帰れば良いか……」

「車で送るのが最善だと、私は思うよ」


 こんな時間に運転手には悪いけど。

 と、和弥は呟く。

 当然のことながら、高瀬川家は専属の運転手を雇っているのだ。


 しかし……


「でも道路も混み合っているんじゃない? 遅くなっちゃうわよ」


 由弦の母。

 高瀬川彩由は道路の交通状況への懸念を口にした。


 元々、この祭りに集まった人たちによって道路は渋滞気味。

 これに加えて、電車が止まった影響でタクシーや送迎などを頼んだ人の車が増えるのだから混み合うのは間違いない。


「と言っても、母さん。徒歩で帰るわけにもいかないし、電車で帰らせるわけにもいかないし、車が一番妥当じゃないか? なぁ、愛理沙」


 由弦は当事者である愛理沙に尋ねる。

 愛理沙は小さく頷いた。


「はい、事故なら仕方がないことですし……由弦さんと高瀬川家の皆さまにはご迷惑をお掛けしてしまいますが、送って頂けると助かります」


 すると彩弓はニヤニヤと笑いながら、チャチャを入れた。


「あれ? さっきまでは苗字呼びだったのに。いつの間に名前で呼ぶようになったの? 随分と仲良くなったねぇ。抱き合ってたけど、何してたの?」


 揶揄うように言う彩弓の言葉に、由弦は顔が熱くなるのを感じた。

 愛理沙もまた先ほどの自分の醜態を思い出したのか、恥ずかしそうに顔を俯かせている。


「これはまた……」

「あらあら」


 苦笑する和弥に、楽しそうに笑う彩由。

 由弦はわざとらしく、咳払いをする。


「今は、どうでも良いだろう。それよりも愛理沙の帰りの手段だ。車で帰るなら、早く出た方が……」

「私、名案を思い付いちゃったんだけど、良いかな?」


 由弦の言葉を遮るように、彩弓は言った。

 全員の視線が彩弓に集まる。


「泊っていくってのは、どう?」


 得意そうに彩弓は言った。

 何を言っているんだと、由弦は眉を顰める。


「いや、そんなこと……」

「別に良いじゃない。同じ部屋で寝るわけでもないし。それに車でも、深夜は危険でしょ? 運転手にも悪いしさ。愛理沙さんも疲れちゃう。一晩泊ってから、余裕を持って帰るべきじゃない?」


 彩弓の提案は理に適っているように思えた。

 由弦と愛理沙が二人だけで寝泊まりするとなればとんでもない話だが、しかし両親と妹がしっかり監視している以上は間違いなどは起こらない。


 そもそも由弦と愛理沙は恋人同士なのだから、間違いが起こったとしても、許される……というわけではないが、同じ屋根の下で眠る程度は問題ないだろう。


「だが、着替えとかはどうするんだ? 愛理沙は洋服と浴衣しか持ってないぞ」


 具体的には言わなかったが、女の子としては同じ下着で一晩を過ごすのは嫌だろう。

 洋服では寝にくいだろうし、浴衣は皺になると良くないが……かと言って愛理沙は寝間着を持っていない。


「寝間着はお母さんのを借りれば良いでしょ? 下着とかは、コンビニで売ってるし。タオルと布団はあるから。一晩くらいなら、問題ないと思うけど」


「確かに……それもそうか」


 由弦はそう呟いてから、和弥と彩由の方を見た。

 二人は揃って、頷いた。


「私はどちらでも、構わないよ」

「私は泊っていって欲しいわぁ。愛理沙ちゃんから、もっと由弦のことを聞きたいし」


 二人の許可が出たので、由弦は愛理沙の方を見た。

 戸惑いの表情を浮かべている愛理沙に、由弦は尋ねた。


「だ、そうだ。君が嫌でなければ、泊っていってくれて構わない。迷惑とかは考えず、好きな方を選んでくれ。……どうかな?」

「……そう、ですね」


 少し考えてから、愛理沙は頷いた。


「じゃあ……お言葉に甘えさせていただきます」





 斯くして愛理沙のお泊りが確定した。



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