第29話 “婚約”とは

 当初の予定通り、愛理沙は高瀬川家の部屋を借りて浴衣に着替えることとなった。

 その間に由弦も着替えておくことにしたのだが……


 やはり女の子の方がいろいろと支度が大変らしい。

 先に着替え終わったのは由弦の方だった。


 由弦は一度、鏡で自分の姿を確認した。

 黒に近い濃い紺色の生地に、白と暗いブルーの笹柄が描かれている。

 帯は暗い赤色。

 髪は珍しくワックスで整えている。


「まあ、問題ないか」


 愛理沙の隣を歩いても問題がない程度には仕上がっている。

 それから由弦は少し、ソワソワした気持ちを抱きながら愛理沙を待った。


「高瀬川さん、お待たせしました」


 その声はいつもより、少し強張っていた。

 表情はいつもの平静な顔だが、僅かに緊張と不安の色が見える。


「いや、大丈夫だよ。……へぇ」


 由弦はじっくりと、愛理沙の浴衣姿を観察する。

 生地は濃紺。

 柄は薄紫色の大きな朝顔に、白い撫子や萩などの花が描かれている。

 帯は麻の葉柄模様に貝紫色。

 髪は美しく結い上げ、赤い玉(おそらくは珊瑚)で飾られた簪でまとめていた。


 浴衣の全体的な色合いとデザインは決して派手とは言い難く、どちらかと言えば落ち着いた印象を受ける。

 それとは対照的なのは帯色で、非常に美しく、映える色合いになっていた。

 可愛いよりは美しい、大人びた印象を受ける。

 普通の女性ならば埋没してしまうかもしれないが、年齢にそぐわぬ落ち着きと色っぽさを持つ愛理沙はそれを見事に着こなしていた。

 綺麗な簪はそれを引き立てている。

 

「……変じゃありませんか?」

「いや、よく似合っているよ。とても綺麗だ。いつもより、大人っぽく感じる」


 由弦がそう言って愛理沙を褒めたが、彼女の表情は晴れない。

 愛理沙は由弦に対し、背中を向けた。

 綺麗に結ばれた帯が見える。


「ちゃんと、できてますか?」


 不安そうに尋ねる愛理沙。

 その問いは似合っているか? というよりは、ちゃんと浴衣を着ることができているかどうか? という問いに聞こえた。


「ああ、上手だと思うよ。毎年、妹の浴衣を見ているからその辺りの判断はできる。安心してくれ」

 

 由弦がそう言うと、愛理沙はホッと息をついた。

 それから言い訳するように言った。


「実は浴衣なんて、何年も着てなくて……ネットで調べたんです」

「なるほどね」


 それは確かに不安だろう。

 最初にそれを言ってくれれば、母親や妹に頼んだのに、と由弦は思ったのだが今更なので口には出さなかった。


「ところで、その。高瀬川さんも、よくお似合いです。……とても、カッコいいと思いますよ」

「そうか、ありがとう」


 女の子に服装を褒められるのは案外恥ずかしいものだと、由弦は思った。

 母親や妹ではうんともすんとも感じないというのに。


「お取込み中のところ、良いですか?」


 可愛らしい声が聞こえてきた。

 振り向くと、可愛らしい金魚柄の浴衣を身に纏った彩弓が立っていた。

 彼女がクルっとターンする。


「どう? 兄さん」

「よく似合っているよ。可愛いと思う」

「なんか、愛理沙さんと比べて淡泊だなぁー」


 そんな文句を言いながらも、彩弓はニコニコと笑顔で愛理沙に近づく。

 そしてジッと、愛理沙の浴衣姿を眺める。


「やっぱり、愛理沙さん。綺麗だね。うん、私の義姉(あね)として認めてあげます」

「あはは、ありがとうございます」


 何故か、偉そうに胸を張る彩弓。

 何とも言えなさそうな表情を浮かべる愛理沙。

 実際は結婚するつもりなんてない、とは言えないだろう。


「それにしても、愛理沙さん。兄さんと浴衣の趣味が似ていますね。お互いに合わせたというわけじゃないんですよね? お互いに通じ合っちゃって……私がおばさんって呼ばれる日も近いかなぁ」


 すでに言動が「おばさん」だぞ。

 と、言う言葉を由弦は慌てて飲みこんだ。


 一方、結婚するつもりがないのに相手から結婚する前提で語られた愛理沙は気まずかったのか、話題を逸らした。


「ところで、彩弓さん。……先ほどの和服でお祭りに行くわけじゃないんですね」

「え? そりゃあ……袴でお祭りには行きませんよ。浴衣を着ないと」


 彩弓は家庭では、袴を着ている。

 本人曰く、動きやすくてお洒落でカッコよくてついでに可愛いからだそうだが……


 まさか普段着で袴を着ている女子が、というよりは和服を着ている一族がこのご時世にいるとは思わないだろう。


「うちは普段着で和服を着てるんだよ」


 なので、由弦は愛理沙にそう補足説明をする。

 すると愛理沙の表情にはすぐに納得の色が浮かんだ。


「それはまた、珍しいですね。……えっと、家訓とか、しきたりとかで、決まっているんですか?」

「いいや、別に。まあ……俺たちは父さんと母さんが着ているから、真似しているだけだ」

「幼い時からこうだったので。……それにこの家には和服が合うと思いません? TPO……と言って良いかわかりませんが、そういう感じです」


 ちなみに由弦はマンションの自室では洋服を着ている。

 あの部屋で和服を着るのはおかしいだろう。

 彩弓風に言うならTPOというやつだ。


「別に大した意味はないから、愛理沙さんは真似しなくても全然、構いませんよ。……ところで、浴衣。よく似合っていますね」


「そうそう。愛理沙ちゃんが嫁いで来たら、こんな古臭いルールなんて壊しちゃっても、全然構わないわよぉ。それにしても、やっぱり可愛いわねぇ、愛理沙ちゃん。本当によく似合っているわぁ」


 丁度そこへ、由弦の両親がやってきた。

 二人が口々に浴衣について褒めると、愛理沙は複雑そうな表情を浮かべた。


 褒められるのは嬉しいが、騙していることは心苦しい。

 そんな顔をしている。


 あまりここにはいない方が良いだろうと判断した由弦は、愛理沙の手を取った。


「じゃあ、俺たちは祭りに行くから」

「あ、えっと……お先に失礼します」


 やや強引な形で由弦は愛理沙を連れて、そこから離脱した。




「悪いな、雪城。……全然、気にしなくても良いからな?」


 愛理沙を連れ出してから、由弦は愛理沙に謝罪した。

 気弱な愛理沙には、由弦の両親を騙すような形になっていることは心苦しいだろう。


「いえ……こういうのは、しっかりと自覚しなければいけないことだと思うんです。不誠実を働いているのは、私ですから」


「やっぱり、考えすぎているな。君は」


 由弦はため息をついた。

 少しだけ由弦と愛理沙では、この婚約に関する認識が違うようだ。


「別にあの人たちは、雪城が俺をフッて婚約を破談にしたとしても怒らないよ」

「え? ……そうですか?」

「結婚じゃなくて、所詮は婚約だ。そりゃあ、不仲になって破談になったり、婚約破棄になる可能性くらい念頭に置いているだろうさ」


 このご時世、離婚だって別に珍しい話でもない。

 それが単なる婚約となれば、尚更だろう。

 

「そういう可能性があるから、俺たちの婚約は高瀬川と天城の双方にしか共有されていないし、無暗に話してはいけないということになっている。言いふらすなって、君も念押しされただろう?」


「はい。……それはそういう意図なんですか?」


 元々、隠しておくつもりだった愛理沙にとっては、「言いふらすな」という養父からの命令の意味については深く考えていなかったようだ。


「そういうこと。……結婚とか婚約ってのは、関係を周知させて、深い関係があることをアピールするためにやるものだ。だけど、それを公表していない。それはつまり……この婚約は非公式のもので、極論すれば口約束に過ぎないってことだよ。もし公式のモノだったら、橘や佐竹、上西にも話がいっているはずだからね」


 特に橘は高瀬川にとっては盟友であり、同時にライバルと言える存在だ。

 その相手に次期当主の婚約を伝えないということは、それはまだ非公式のものであり、正式なものではないということを意味している。


 尚、由弦は亜夜香に婚約の話をしてしまったが……

 重要なのは当主同士で、手紙などのやり取りによって伝えられていない、ということだ。

 プールで、子供同士が話しただけの内容は“聞いていない”のと同じである。


 そもそもこの婚約を周知させたくない理由は、由弦と愛理沙の関係が破綻した時に、それが醜聞にならないようにするためであり……早い話、二人のプライバシー保護のためだ。 

 なので、絶対に知られてはいけないというような秘密ではない。


 あくまで、言い触らさない方が良いというだけの話だ


「そういうもの……なんでしょうか? そんなに重く考えなくても、良いんですか?」


「そうそう。……そもそも俺たちは中学卒業したばかりの子供だぞ? 精神的に未成熟な存在に対して強引に婚約させて、それを律儀に守りなさいなんて方が道理に反している。だから気にするな」


 少なくとも由弦の両親は、究極的には由弦のことを信用してはいないだろう。

 まともな判断もできない子供を信用する方がおかしい。

 良識ある大人は、子供のことをある程度は信用しつつも、最後の一線では疑っておくものだ。


「なるほど。……では、あまり気に病まないようにします」

「そうすると良い。君は被害者なんだ。何一つ悪いことをしていない、というわけではなかったとしても……絶対に悪者ではない」


 由弦は強い口調で、そう断言した。

 すると愛理沙はやや潤んだ瞳で、少しだけ安心したような、どこか救われたような表情で呟いた。


「ありがとう、ございます」

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