第5話 第5話 大阪あいりん地区 出刃包丁殺人未遂事件 その3

 このあいりん地区という所に、しばらく滞在してみようと思い立ったのは、青森短期大学教授(日大の教授でもある)で「伊達政宗の」を書かれた大泉 光一という方の「危機管理」に関する本び刺激を受けたのが発端でした。

 それから、自分なりに危機管理→危機に強い・弱いなんていうことを考えているうち、大阪人は関東人に比べて危機に強い、という自分なりの仮説を立て、今度はそれを検証してみようという気持ちになったのでした。


 つまり大阪人には、たとえ学問としての危機管理能力がなかったとしても、権力者に騙され続けてきたという長い歴史のなかで、自然に身についた生活の知恵というか、彼ら大阪人の感性や悟性、そして知性が、関東や東北の人間のそれに比べて「熟(こな)れている」からに違いない、と。じっさい、大阪人は他県の人間に比べてオレオレ詐欺の被害が非常に少ない、という警察の統計もあるのです。


 結果として、この短い大阪滞在のあいだ、私は多くの大阪人の言動から「大阪人の土性骨」を見て知ることができました。

 まあ、それはまた次の機会にするとして、今回は、この出刃包丁事件から、私の言う「日本拳法による純粋理性」に話を戻します。


 この事件で、出刃包丁を持って襲いかかってきたオヤジを、先ず最初、物理的に止めたのは、私の肉体と気力でした。

 しかし、もしあの騒ぎが、私の推測とはいえ、あのオヤジとオッサンがつるんで仕掛けた芝居であり、しかも、あの時の私に純粋理性がなかったとしたならば、私はその翌日「第三者」なるものを交えて再度話し合いを持つことになったでしょう。

 ところが、この第三者というのがくせ者で「安心・安全の象徴」であるはずの政府や役所でさえ、彼らが頻繁に開く第三者委員会などというものは、偽善の固まりなのです。

 昔、鎌倉で聞いた話ですが、近所の水道屋のオヤジ(社長)が、市の開催する第三者委員会なるものに毎月出席していました。他に土建屋のオヤジ、植木屋、大学教授や会社員、元警察署長、等々「無作為に抽出された」市内在住の人間約20名が、毎月一回、市役所の会議室に集まり、昼飯(うな重)を食べながら、役人から市政の報告を受け、自由闊達に意見を交換する、という趣旨の会合なのだそうです。

 この水道屋も、うな重を食って小一時間、役人の話を聞いているだけ、しかも、足代として八千円ももらえるということで、多少仕事が忙しい時でも、欠かさず毎月出席していたそうです。

 数ヶ月の間、何ごともなく、上等のうな重と八千円、そして、もしかすると、役所の仕事をもらえるかもしれないという期待を抱きながら、幸福なお昼時を享受していた社長さんに、突如、不幸が舞い込みます。

 いつものように、市政の報告などうわの空と、ウナギをかき込んでいた彼は「給食のおばさんの退職金が2,500万円に決まった」という話に、思わず箸を止め、こう言ってしまったのです。「ちょっと待って下さい。人の職業を云々するわけではありませんが、いくらなんでも、給食のおばさんの退職金が2,500万円というのは、市民が納得しないのではないのでしょうか ?」と。

 とうぜんながら、こんな話は市民にできません。ですから、「第三者委員会」という、市民の代表である公明正大な会議でお墨付きをもらうことで、全鎌倉市民の賛同を得た、ということにする。給食のおばさんの退職金が2,500万円なら、役所の一般事務員が3,500万円もらっても不思議ではない、という論理が通るようになるわけです。これがお役所的民主主義というもの。


 さて、この一言で会議室は非常に気まずい雰囲気になりました。水道屋のオヤジによると、役人たちが、しどろもどろで訳のわからない話を数分間し、結局、その場はお開き。そして一週間後、オヤジの会社には「来月からは来なくていい。」という葉書が送られてきた。そしてそれ以後、なぜか会社の車が駐禁で切符を切られる回数が増えた(当時は警察官が監視していました)そうです。


 もちろん、私があの時、20年前のこの話を思い出して「第三者」という言葉に反応したわけではありません。ですが、あの時「第三者を交えて」と言う言葉に、私の理性が敏感に反応し、なおかつ私の理性は、その瞬間、まるで鏡が光を反射するように、「これはオレたち二人の問題だ。第三者なんて、関係ねえよ。」と、即座に反撃(反応)という行動を取らせた。


 こうも言えるでしょう。

 出刃包丁で襲われたことに対する技術的な解決方法は日本拳法の技術(と体力)で間に合う。しかし、問題はそこにあったのではない。関東から来たよそ者を脅して、何かをたくらんでいた(かもしれない)という、あの騒動における真の問題を探り出し、その解決策を即座に実行することができたのは、日本拳法で鍛えた純粋理性のおかげであった。 40年前に毎日やっていた「自分の面突きと相手の面突きが交錯する一瞬」が、私の理性を「行動する理性」に変えてくれていたのだ、と。


 危機管理といい、そのシステム構築、マニュアル整備といった技術的なことは学校の講義で身につけることができるでしょう。だが、それを運用するには理性が必要となる。入れ物ばかり立派でも、運用する人間の理性が稚拙では、そのハードウェアやシステム全体を生かすことはできないのですから。

 75年前、世界最強の戦艦「大和」は、連合国から「12歳の子供」と評価された大日本帝国海軍参謀本部という超エリートたちの知性では運用しきれなかった。日本人の優れた技術と血と汗の結晶である世界最高のシステムは、髪の毛一本役に立つことなく、3,000名の優秀で前途有望な若き船員たちを道連れに、わずか数時間で海の藻屑となって消えていった。現場で艦を運用する人たちではなく、作戦計画全体を掌握する大元のエリートたちによる、まさに「バカの壁」という理性なき知性のために、建造された当初から、すでに大和はそういう運命にあったといえるのでしょう。



2020年7月27日


平栗雅人

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日本拳法純粋理性批判 @MasatoHiraguri

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