6-5 霧の森を行く

 空の隅に湧き上がった雲は、瞬く間に全天を覆った。同時に、滝のような雨が降ってくる。薄暗い森の中に雨音が響き、視界が滴に煙る。ほどなくして、密林は水という澄んだ闇に包まれた。


「ちょっと。こんなに寒いなんて聞いてないわよ」


「え? そんなに冷たいかな。まあ、少し冷えるけど」


「あんたを基準にしないで。女の子の体はデリケートなのよ!」


「ご、ごめん……」


 雨に紛れて森を出発し、晴れない霧の中に潜り込む。


 この作戦は無事に成功したようで、連邦の飛行船から追手がかかるようなことはなかった。だが代わりに、気温の低下に襲われた。常夏の島で育ったアヌエナは不機嫌さを隠そうともしない。一応、雨避あまよけに着ているレインコートが保温効果を発揮しているはずなのだが。


 少女をどうにかなだめようと、ヒタクは彼女の注意を周りに向けてみることにした。


「あ、ほらあそこ。霧が切れてて先が見えるよ。ああいう森は君も初めて見るんじゃないかな」


 熱帯地域では、豊富な日光を独占しようと樹木が絡み合うように競争し、その合間を蔓草つるくさが縫う。だがここ、雲と霧の森に広がるのは全く別の光景だ。


 降りしきる雨をさかのぼる舟を、濡れた樹々が取り囲む。瑞々みずみずしい緑に覆われたその幹は、よじれた枝を霧の中に伸ばしている。水滴は枝から垂れ下がる細長い葉にもまとわりつき、葉先から滴り落ちて再び白い闇に消える。


 空気も含めて全体的にしっとりとしていて、今にも妖精が出てきそうな雰囲気だ。


「……なんか、下より緑が濃いわね」


こけだよ。湿気は多いけど日光は少ないし気温も低いから、下とはかなり植生が違うんだ」


「ふーん」


 気のない返事だったが、少しは興味が出たのだろう。緑の空間をしばらく眺めてから、アヌエナが尋ねてきた。


「枯れ木がちらほらと見えるんだけど、それも日照不足のせいかしら?」


「ううん。木が枯れるのは最近、空の森全体で増えてる現象。この濃い霧はむしろ、命の水だよ」


 空に降る雨は木々を潤すが、逆に森からも水が立ち昇る。原因は水たまりの蒸発や、草木が体内から水分を放出する蒸散など様々だが、それらは空における水の大循環の一環だ。下層の森から湧き上がった水蒸気は、逆さまの滝となって上空へと流れ込む。そして低温にさらされ雲になり、再び雨となって森に戻るのだ。


 こうした森の呼吸に加えて外側から流れ込む気流のために、ある高度を超えたところでフソウは常に雲と霧に包まれている。言うなれば空気の貯水槽で、これが高山性の植物を育んできた。


「雲と霧の中にあるから雲霧林ってのは分かるけど……、この寒さはどうにかならないかしら。うっかりすると火が消えちゃいそうだし」


「ごめん。空って上に行くほど気温が低下するから」


 などと会話を交わしているうちに、霧が川のように流れてきた。再び、目の前が白い暗幕に閉ざされる。


「あー。また見えなくなった。こんな調子じゃ、シロニジにたどりつけても入口が見つけられないかも」


「まあまあ。ここを抜ければ晴れてるよ、きっと」


「だといいけど……」


 アヌエナはため息をつきながら帆柱に背を預けて座り込む。


 その頭上に、三角の帆は広がっていない。この垂直飛行という性質上、風を捕まえる必要ないので片付けているのだ。さらに視界が悪いので、ゆっくりと上昇しなければならないのだが、その分だけ彼女は暇を持て余しているようだ。先程から妙に機嫌が悪い。


「ちょっと。水汲みが遅れてるわよ。雨がたまると舟が重くなるでしょ」


「う、うん」


「こっちじゃなくて副船!」


「はい!」


 船長自身は動かないままだが、逆らってもいいことがないのは分かりきっている。大人しく水汲みに精を出そうと、ヒタクは渡しへ足を掛けた。だがその時、目の代わりに飛ばしておいたヤタが戻ってきた。


「クァッ」


「おっと。ヒタク、戻って」


 アヌエナが素早く腰を上げた。今までの不機嫌さが嘘のように、真剣な表情で空を見る。


「……面舵おもかじ。ゆっくりね」


「了解」


 肌にまとわりつく冷たい水滴にうんざりしていた彼女だったが、飛舟とぶねの操作は変わらず正確だった。ヤタの警告した方向へ眼を凝らし、足踏み式のかいぐヒタクに細かく指示を出す。


「はいストップ。そのまま静かに」


 霧の中から傾いた木が現れた。帆柱よりも少し上に姿を見せたそれは、流れるように舟に近付き、主船をかすめるように降りていく。その葉の陰で雨宿りしていた小鳥が、きょとんとしながら二人を見送った。アヌエナはそれに手を振って応えた後、満足げにうなづく。


「よしよし。うまくかわせたわ。あんたって、意外と物覚えがいいのね」


「そんなことないよ。先生の教え方が良かったんだよ」


「ふ、ふん。褒めても何も出ないわよ。……きゃっ」


 照れ隠しにそっぽを向いた少女の頭に、緑の縄がかかった。一見すると蔓草つるくさのようだが、何本もの短い糸がひげのように垂れ下がっている。


「なにこれ!?」


糸苔いとごけ、かな? ちょっと大きい気がするけど」


「ああ。これだけ湿気てたらねー」


 大きくもなるかとぼやきながら、アヌエナはこけを捨てようと舟縁ふなべりに寄った、ところで樹の影がどこにも見えなくなったことに気付いた。


「あら? 霧の森を抜けたのかしら」


「そうみたいだね」


 ヒタクも下をのぞき込むと、白く煙る雲中に黒い枝先が揺れた。色がはっきりしないのは光が弱いからだろう。そんなことを考えていると、背後からぶすっとした声がした。


「……晴れないじゃん」


「う」


 褒めてくれたと思ったら、また機嫌が悪くなってきた。下手になだめようとすると逆効果な気がして、ヒタクは己の限界を白状した。


「実は……僕もここより上には昇ったことがないんだ。森林限界とか言って、この先は木が生えていないんだ。だから見回る必要がないし、気圧も気温も低いから健康に悪いって姉さんが」


「だからこの雲もどこまで続いてるか分からない、と」


「そう」


「仕方ないわね」


 どのみち雲があろうとなかろうと、白虹はっこうへは空を昇っていくしかないということだ。少年の告白に諦め顔でうなづくと、彼女は次の指示を出した。


「ヤタ、お願い。もう一回見回りに出てくれるかしら?」


「クヮ」


 朝焼け色のカラスがばさりと飛び立つ。その明るい羽根が雲の中に消えた後、アヌエナは何か言いたそうな目でヒタクを見た。


「なに? どうしたの」


「や。そう言えばあんたも飛べたな~って」


 その声の裏から期待がにじみ出ている。今にも探索に駆り立てられそうな予感を覚え、ヒタクは慌てた。


「ちょ、ちょっと待ってよ。僕が行ったら迷子になっちゃうよ。周りはみんな雲で何も見えないし、舟だって動いてるんだし」


「それじゃ、どうしてあの子は正確に戻って来られるのよ」


「……野生の勘?」


「そ。しょせん人の浅知恵じゃ自然の叡智えいちかなわないのね」


「浅知恵って言われた!?」


 そのまましばらく、舟は何もない白い闇を昇った。雨の粒が細かくなり、霧も雲も区別がつかなくなったほかはほとんど変化がない。


「……実は進んでないってことはないでしょうね」


「さすがにそれはないと思うよ。空気も薄くなってきてるし、上昇しているのは確かだよ」


「言われてみれば、ちょっと息がしにくいような」


「え? 大丈夫? 少し休んだ方がいいんじゃ」


 彼女の体調は思ったより悪いのではないか。そう感じたヒタクは慌てたが、当人は軽く手を振って否定した。


「平気よ、これぐらい。それにあんたはお姉さんを追いかけてるんでしょ。なら、こんな所で時間かけてる暇はないはずよ」


「け、けど……」


「わたしの心配してくれるんなら、この雲追い払ってよ。んっとに、どこまで続くんだか」


「それは……なんとも言えないかな。下の森から湧き上がってきてるんだから」


「だからって、ねえ」


 いい加減に晴れはしないかと、アヌエナは帆柱にもたれかかりながら上空を見上げる。だが急にその目が細まり、同時にヤタが警告を寄越してきた。


「カァカアカーッ」


「上っ、なにかある! 取りかじ、左に抜けて!」

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