希望を噛み砕くむなしさよ

わたしが好きなのは、あの人の瞳。

わたしだけをじっと見つめて欲しくて堪らなくさせる。

どうしたら、あの人はわたしだけを見てくれるだろうか。

一生、わたしだけを見つめ続けて欲しいな。

この恋が叶うなら、わたしは誰を犠牲にしても良かった。本当だよ。

愛のために死ねるかと聞かれたら、わたしはきっとこう答えるだろう。

「わたし、死んでもいいわ」

躊躇いや戸惑いもなく、言ってやるのだ。

満ち足りた月を眺めて死んでもいいと思える、そんな恋だった。

もしも、あの人ともう一度出会えたなら、きっとそれは幸福な世界だ。


「えっと、いしかみいくん?」

「しゃくじい、だけど……なんだよ。お前は中学生にもなってこんな簡単な漢字すらマトモに読めねーのか?」

教室の窓から差し込む光で、周りの景色は赤っぽくなっていた。

青色の瞳を細めて、わざと他者を遠ざける言葉を吐き、シニカルな笑みを浮かべる少年。

これが、わたしと初恋のあの人との初めての会話だった。

あの人の名前は石神井羽色(しゃくじい はいろ)、中学三年の六月にわたしの通う中学校に転校してきた男子生徒だ。


季節外れの転校生だったが、誰一人として転校の理由を問いかけず、噂の種にすらならなかった。

誰もがあの人のことを腫れ物のように扱う。

きっと原因は、あの人がいつも傷ついていたからだ。

それは教室で行われる陰湿な傷などではない。

黒髪を覆うように巻かれる大量の包帯も、頬に貼られたガーゼも、顔の半分が常に白で埋まる怪我の理由に誰しもがある程度の察しをつけながら、誰一人としてあの人を気遣わなかった。

あの人は表面上は刺々しい言動をしながら、きっと本来は苦労人で生真面目な性格をしているのだろう。

時折、あの人は子犬が目の前で轢死した様を見たかのような危うい表情を浮かべていた。


わたしがクラスの女子生徒にノートを破られた時だって、あの人は青い瞳を憐憫で微かに揺らして、不躾なほど自然に「見るか?」と自分のノートを差し出してくれたのだ。

嬉しかった。本当は授業なんて真面目に受けてないし、ノートだって無くても構わなかったけど、わたしはコクコクと何度も頷いたのだ。

それからだ、わたしがあの人を目で追いかけるようになったのは。

あの人から優しくされたのはアレが最初で最後だったけど、あの日を境にわたしは身を焦がす恋を知ってしまった。

白うさぎを追いかけるアリスのように、大きな穴に落ちたのだ。所謂、恋と呼ばれる穴に。


あの人こそが、わたしの運命である。

これは誰が決めたものではなく、わたしの妄想であり、執着に過ぎない。

その執着を、わたしは初恋と名付けた。

清潔な包帯とガーゼの下から見える、鮮やかな痣と真新しい傷。予想外の悲しみなんてない。

そういう事があるということを、わたしは知っていたから。

放課後、教室の空いた窓から飛び込んでくる子供たちの叫び声。

校庭でサッカーボールが蹴られる音。

野球部がバットでボールを打つ音。

廊下から聞こえる吹奏楽部の演奏に、パンパンと両手で黒板消しを叩く音が紛れ込んだ。


「石神井くんとわたしは、似てるの。だから、きっと仲良くなれる。わたしなら理解者に、良い話し相手になれると思うんだ」

「……似てる、か?どこら辺が?」

わたしの言葉に、あの人は学級日誌に本日の一言を書き込みながら尋ねる。

わたしとあの人の目線は交差しない。

「普通になりたいところ、自分が誰とも深く愛し合えないと思ってるところ、誰かを傷つけるくらいなら、誰とも関わりたくないところ。同じだよ。わたし達が思ってる以上に世間はそれを許さないから、辛いよね。でも、わたしも分かるよ。だから、わたしたち一緒にいよう。だって分かるの、だからきっと上手くいくよ」

わたしの言葉に、あの人はビクリと肩を揺らして、機械のように精密に、ゆっくりと顔を上げた。


紺碧の瞳は、冷たく見えるほどに凪いでいる。

「しんじゃえば?」

への字に曲げていた唇を開いて、あの人は低い声で呟いた。

言葉は氷よりはるかに冷ややかな強さで、わたしの頬を叩く。

「僕の感情を勝手に断定するなよ。自分が安心したいだけの癖に。知ったような口を利きやがって、腹立つなぁ」

わたしは冷水を浴びせられたような思いを味わったのだ。

絶句して目を見開くわたしに向かい、苛立ちを隠しもせず舌打ちしたあの人は、しかしどこか労わるような眼差しを向け、言葉を続けた。


「頭が悪いんだな、お前。僕はお前と心中するなんてお断りだね」

数秒なのか、数分だったのか、それすらもよく分からない。

夕焼けに照らされているあの人は、全身が血に濡れているようで、まるでいまさっき人を殺した殺人鬼のようだった。

グルグルと疑問が浮かんでは消え、そしてまた浮かぶ。

「だったら、どうして……?わたしと……たのよ」

ねえ、だって、わたしを愛してくれないと困るのよ。

最終的には、あの人とわたしは0.01mmの隔てすら壊して近づいたのに。

ピントのぼやけた視界が、くるりと回転した。


エアコンはあるけど、リモコンがどこにあるのかわからない。

このままだと熱中症になってしまう。

ミントグリーンのソファーに寝転んで、わたしは打ち上げられたトドのようにグデンとしていた。

今は午後六時くらいだ。たぶん。

蝉の声は、騒がしいミンミンというものからカナカナという涼しそうなものに変わっている。

「はーちゃん、あづいよー」

「えー?あー……クーラー付けて良いですよ」

「リモコンどこよー……この部屋が限定的に台風にでもあったみたいじゃんかよー、めちゃデカ!トルネード!はーちゃんが部屋掃除下手すぎるのが悪いのだぁー!」


ちらりと眼球を動かすと、部屋の物が足の踏み場もないほど床に細々と散らばり、おもちゃ箱をひっくり返したように雑然としていた。

わたしは身体を起こして、テーブルの上に塔のように積まれた本の中から一冊拝借する。

西洋絵画の楽しみ方についての本だ。

日焼けして黄ばんだページを開くと、ゴマのように小さな虫が這っていたので指先でプチりと潰した。うーむ、中々に年季が入っている。

「はーちゃん、マニアだねー?これわたしが高校生の時に買ったのと同じやつじゃーん。もう売ってないんじゃない?古本かー?ほこりっぽいし」

「……、……まあ、咲璃さんがそう思うならそうなんじゃないですかね……」

「はーちゃんはそんなに美術が好きかい?わたしは絵画ってよくわからんからなー。にゃはっ!」

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