独りぼっちの誕生会

死にたい、なんて馬鹿なことを考えたことは一度も無い。今だってそう。

だって、わたしは伯母さんの人生を奪って生き延びた生命だ。

伯母さんはきっと羨ましかっただけなのだ。

伯母さんは、仕事関係で上手くいかないことがあるとイライラしながら家へ帰ってくる。

大きな音を立てながら、ドアを開ける。

部屋の物に当たり散らす。

ガシャンッと音を立てて、鏡が割れた。

ガラスの破片が、床に飛び散る。

伯母さんは子供みたいに、癇癪を起こした。

伯母さんは窓の内側から板を打ち付けて、あの家から光を遮断した。


だから部屋の中はいつも真っ暗。

伯母さんは人付き合いが苦手な人だった。

わたしに対しては悪魔のように振る舞うけれど、家の外だとずっと口数が減る。

伯母さんは自分の考えや悩みを他人に伝えることを恥じていて、弱みを見せたくなかったのだ。

伯母さんは自分の能力を過大評価していて、プライドが高い。

予想外のことが起こると狼狽して、上手くいかないことがあると、わたしを蹴ったりぶったりした。

見えないところで、見えないところを、ボコボコにされる。

伯母さんはわたしの折檻中にずっとブツブツ何か言っていた。


「どうしておまえばっかり」とか「おまえはあたしの所有物なんだ」とか、ずっとブツブツ言っていた。

テストの点数が悪いと、両足首を掴まれて、家の中を引きずり回される。

鼻から血を流しながら、ミキサーに手首を突っ込まれて、スイッチを押されそうになった時だって、「おまえなんていらない」と言われないだけ、ずっと良かったのだと涙を流しながら思ったのだ。

わたしは伯母さんにされたことを、誰にも言わなかった。

秘密にするように言われていたし、言ったらわたしは間違いなく伯母さんに殺されてしまうと思ったからだ。


極力考えないように、思い出さないように。

痛くて恐ろしい。いつだって、見たくない現実は寝室のクローゼットに隠れてやり過ごした。

理不尽だって思ったあの時と同じ感情を、わたしはきちんと押し殺せているだろうか。

上履きからスニーカーに履き替えて、校舎を出て校門に向かって歩いていると、ガツンと後頭部に何かがぶつかって、地面に落ちてバウンドする。

頭をさすりながら振り返ると、落ちていたのはミネラルウォーターのペットボトルで、投げたのはペットボトルの蓋を親指と人差し指で弄ぶあの人だった。

ゆっくりとした足取りでわたしに近寄ってくると、にっこりと目を細めて糸切り歯を見せて笑う。


あの人はリュックを背負っていて、相変わらず頭は包帯だらけで、左目は眼帯で隠れていた。

「なーあ、咲璃ちゃん、なんで?」

「……な、なになに、なにが?」

おどろいて吃るわたしに、あの人は面食らったように目をぱちくりとさせる。

「あー……ビビってんの?ったく、大袈裟だなぁ、お前。コレ中身入ってないし、そんな痛くしてないだろ。咲璃ちゃんは弱っちいなぁ」

普段のあの人からは想像できない、穏やかな声の調子だ。無理に言っている風ではない。

不安げなカラスの鳴き声が、遠く空の上から聞こえた。

校舎の壁も、湿った地面も、わたしとあの人の身体も、全てが茜色に染まっている。


ひどく不思議そうな顔で、わからないことを知りたがる子供のような瞳を向けてきた。

「咲璃ちゃん、なんで?不安?浮気?」

「え……?」

唖然とするわたしに、あの人は唇を尖らせて恨めしそうに呟く。

「好きなら、なんでも許してくれるんでしょ?女ってそういうもんなんじゃねーの?先に好きになったのはお前じゃん。僕、嬉しかったのに……。なぁ、シカトは無いだろ……」

「えっ、あの、え?……石神井くん、わ、わたしが嫌いなんじゃない、の?ねえ、ねえ」

目の前の男の口ぶりに、わたしは叫ぶよりも泣くよりも先に疑問が湧いてしまう。


期待と緊張で高鳴る胸をセーラー服の上から抑えながら、わたしはわたしの死を願う男にまだ恋をしているのかと笑いたくなった。

石神井羽色と話す時、わたしはいつも夢でも見ているような気持ちになるのだ。

わたしの言葉に、あの人はスっと真顔になる。

しばらくの間、沈黙した後、口元に苦い笑みを浮かべて仕方ないなぁという表情でわたしを見つめながら、言った。

「なんで、そんなこと思ったの?」

「一ヶ月前わたしに、しんじゃえば、って言ったじゃない……だって、だから、わたしは」

「……愛情表現だけど」

「そんなことある!?」

予想外過ぎる言葉に、上擦った声で叫ぶ。


驚いたように肩を揺らしたこの男に、相手の死を願うことは憎しみの言葉だと、わたしは諭すべきなのだろうか。

愛情表現と憎悪の違いが分からない理由は、袖から覗く紫の痣で説明がついてしまう。

憐れみか感動か、震えそうになる腕に爪を立て何食わぬ顔を懸命に装いながら、遠い昔、寝室に封じた記憶の扉が開きそうになる。

だって、同じ理不尽を共有する存在が世界にどれほど居るというの。

やっぱり、この人はわたしの運命だ。

お互いに相手以上の人間がいない、必ず惹き合ってまた繋がる二人。

それが無性に嬉しくてたまらなくて、涙が出るほどに愛おしい。

あの人はわたしの顎を掴んで無理矢理横を向かせると、ささくれた親指で優しく頬を撫でた。


「僕、お前の横顔好きなんだよな」

「なに、それ……正面も好きになってほしい」

「もう好きだよ」

この人も、そんな恋愛ドラマみたいな台詞が言えるんだ。

どうあっても口調の荒い男が、子供をあやすようにわたしを抱き締める。

制服からは微かに甘いバニラの香りがした。

最近知ったけれど、これは煙草の匂いだ。

意外と大きな身体に身を預けていると何も考えられなくなった。

でも、何か。問い質した方がいいのかもしれない。

ねえ、だって。それならどうして、わたしとずっと一緒にいてくれなかったの。


いつかの朝、あの人は煙草をふかしながら窓を見て言った。

「だって、好きなら女はなんでも許してくれるんだろ」

いや、窓の向こうの何かを見ながら。

「僕は、良き夫になんてなれないよ」

身体のどこかが覚醒して、わたしの中の冷たい部分が鎌首をもたげる。

数年に渡る偽りの幸福が、少しずつ乾いたものに変わっていく。

結局のところ、あの人とわたしはいつだってどこへでも自由に歩いていけたのだ。

一人で来た病院の待合室、桃色のソファに座り、触れた下腹部は少しだけ張っている。

「はーちゃん、はーちゃん……」

それでも、わたしは、石神井羽色のことを運命だと信じていたかった。

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